寫生地案内

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

三脚子
『みづゑ』第七十三
明治44年3月3日

 時々強い風は吹くが、海のほうも面白からう。この季節では東海道の國府津邊が寫生によい。
 春の海といへど、國府津の海岸は割合に浪が高い。酒匂近くによると、波だけ寫すによい場處がいくらもある。
 濱が廣いので、船が一つあれば、自分の動き方でいくらでも面白い位置がとれる。砂もキレイで、まだこの頃には、綠の混らぬ枯艸がちらほら見えやう。
 背景には、箱根の二子山、明神嶽、駒ケ嶽、處によつては富士も畫中に入る。近くには、風に曲つた趣ある松林があつて、海岸だけでも、五枚や六枚のスケッチは得られやう。
 停車場の後ろの山を登ると、南國特有の蜜柑の樹が澤山ある。その暖かい葉の色、圓いこんもりした形は、何とも云へない美的なものだ。これを前景にして、海の見下し圖が畫ける。漁村の屋根を高く貫ぬく棕梠の木も、無諭畫中のものである。
 山には梅があるが、もう遲からう。奥深くゆくと、よい松林があつて、雨降山の方が見える。この山の、春の夕日をうけた感じは中々よい。
 山を下つて、東海道を酒匂の邊までゆくと、途中道路山水として畫きたい處がちらほらある。酒匂川は、去年の水害でいま土木工事で混雑してゐるが、川口のあたりは、靜かな水もあつて箱根の方を向ひて畫いたら物にならう。
 此川を溯つて少しゆくと、堤に形のいゝ松並木がある。明神嶽近くの村へ入ると、小さな沼もある。浮草など漾ふてゐて、むづかしいが繪にはならう。
 酒匂川の口へ戻つて、濱邊を國府津へ向ふ途中、松濤園の裏のあたりには、砂原に枯芝が多く殘つてゐて、何とも云へぬよい色をしてゐる。此芝と、空に舞ふ二三の鴎とで立派な繪が出來る。
 國府津には、吾々寫生家に適當な宿屋が無い、停車場前の大きな家は、長く居られまい。若し泊るなら、蔦屋の方が靜かだとの話だ。町を四五丁往つての端れに親木橋といふのがある。其際に、富士見屋といふ舊式の宿屋がある。こゝでも安くは泊れないが、三脚を見せて話をしたら、特別の待遇はしてくれやう。是迄隨分三脚が泊つた家だから。
 小田原方面は別に紹介する。

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