パレット物語

シシウ生
『みづゑ』第七十三
明治44年3月3日

 頃日萬事にまめな僕も、ツイ何時とはなしに主人の怠け性に感染して、此處二ヶ月も『みづゑ』に御無沙汰仕まつた。ドリャ又バクりと大きな口を開いて、前條の績きを言上な仕らう。扨ても僕が始めて水彩畫講習所の門をくゞつたのは、主人の處に來た翌日早々であつた。その日僕は未だ新しい麻張の書嚢に入れられて講習所に行つた、道中二十分程ガタガタ揺られて、小し頭痛が仕始めた頃、僕は目的地に着いて畫嚢から引ッ張り出された、そして汚い横長の机の上に置かれた早速大きな眼であたりを一渡り見廻して、ハハアこれが講習所だなと首肯いた。頭を打ちさうな天井、光線の具合の惡い硝子窓その硝子窓の方に近く、舊式な傷だらけな生徒机が五脚程ヅ、二列に並んで居る。そして室の三分の二は何も置いてない黑光りのする板の間で、處々無細工な四角な柱がニョキニョキ立つてゐる、そして室の正面には、お粗末ながら一枚の「ボールド」がかゝツて、傍に小形の「ストーブ」が据えてある。その「スートブ」には、今しもパチパチと勢よく石炭が燃え盛つて、不景氣な教室に一大異彩を放つて居る。チラッと硝子越しに外の方を見ると、玄關から三四間を隔てゝ心細さうな黑塗りの門がある、そしてその左右には黑板塀がずらりーと云ヘば立派な樣だが、蓋し見越しの松に粹な女文字の表札なぞを連想ずる程の價値あるものぢやない。要するに賢明なる吾輩はこの板塀によつて限定せられる内部が、平生は私立の幼稚園で、日曜になるとその日だけ水彩畫講習所に早變りする建物であると推定した。それにしてもこの町はどのあたりかとフト門の方を見ると、門の外が狭ひ露路のような横丁で、それが境で向ふに大きな白壁の建物がある。所々壁を抉り拔いて硝子窓がある所をる見と土藏でもない樣だ、ハテナとよく見てる内に、それが學校であると分明した。あとで主人共の話してるのを聞いてると、何でも私立日本大學ださうな、さりとはあの壁の剥げた窓の損れた具合、恐ろしい汚い大學校もあるものだと感心した。日本大學があるなら三崎町だ道理で近所にろくな家は一軒もない。序手に言つて置くがこゝに話の順序を明瞭ならしめる爲めに、講習所がこの町にあつた時分を稱して三崎町時代と稱ヘて置く。マア四邊の光景はザッと以上の通りぢや。主人は未だストーブ」の傍にかぢり付いて居るから、この隙に今一度室内の觀察を遺ろう。先程話した窓ぎはの十程の机には、僅かに八九人の人が陣取て各々熱心に筆を走らせて居る、机は二人用のものだから、仲には二人睦さうに並んで遣つて居る人もある。驚ろいたことにはこれ等の生徒の半數は婦人であつた。成る程都會の女は違つたものだと感心しながらよく見ておいた。十五六のマガレットのお嬢さんが二人、十八九の庇髪のが一人、モ一人は二十四五か七八か顔に頗る或る特徴を持つた人なので一寸判斷に苦しんだ。男の方はと見ると、十四五の可愛らしい少年が一人、中學生が二人それからどちらも二十四五位な靑年で、一人は顔の四角な官吏らしいのと、一人は顔の長い眼のクリクリした書生とも何ともつかぬ樣な人、それに僕の主人を加へ,て丁度六人、それ丈が今でも記憶に殘つて居る其當時の人々である。アそれからモ一人あるあるそれは今「ストーブ」の傍で、主人と頻にに小聲で話をして居る人である、年のころ凡そ三十七八、或は四十位にも見える、七子の紋付羽織に折目正しい袴をはいた、背の無闇に高い紳士、髯がないので風釆は平凡に見えるが主人が話をする度ペコペコ頭を下げてる處を見ると、あれが有名な大下先生に相違ない。ーと乍蔭大に敬意を拂つて見て居ると、軈てその紳士は火の傍をはなれて、ノソリノソリと生徒の方へ歩を移されるそして一人一人丁寧な檢閲が始まつた。扨ては愈々先生であつたわいと意識が明確になる。主人もやうやく「ストーブ」から去つて、空席を占めて畫板を取り出した、畫板には「ワットマン」の十六切が見すぼらしく板の中央に水貼がしてある、シシウ君は今日はこれを畫き給へと、先生が一枚の手本を机上におかれる。見ると外國の繪で海岸に船が一艘置いてあるセピヤ一色刷の臨繪である。主人はハイハイと嬉しさうにこれを受取つて輪廓を取る、それが一通り濟むと主人は又手を焙りに行つた、そして又先生と話しをして居る、どんな話かと欠伸しながら聞くと、先生の聲で「美術家にはうつかりなるものではないよ、エカキなぞ一寸考えるとこんな面白い樂しい職業はない樣だが、その實どうして仲々苦しいものだ、マア家にウンと財産でもあつて、生活の苦痛もなけりや責任もない樣な人であつたら畫家を志す資格があらう、貧乏人が畫家にならうと志すなら、マア乞食になる覺悟で始めるがいゝと云ふやうな御話しが聞えた。主人はと見ると「困つたナア」と去ふやうな顔をして謹聽して居る。扨一體外の人はどんなものを畫いてるのかと見ると、皆セピヤの手本ばかりで、仲には鉛筆畫を遣つてるのもある、手本を睨め睨め鼻の頭に汗をかきながら遣つて居るが、未だ寫生をして居る人は一人もない。サア愈々主人の着色か始まつた僕も大分忙しくなつた處が何しろ一色畫なので僕の嫌いな嫌いなセピヤばかり之れも佛國製の下等ものゝ「チューブ」からピリピリと絞り出しては、僕の身體中處嫌はずナスり付ける、何だか變な臭までして不快極りない。厭な主人を持つたものだと思つたが仕方がないこれも前世の因縁だらうと斷念めて、觀念の眼を閉ぢながら、詮方なく主人の自在に任せて居た。その内に中食も濟んで午後又始める、高が知れた「ワツトマン」十六切の一色畫だが、主人は中々弱つてるらしい外の人も皆一生懸命で勉強して居る。この日午後には又一人洋服を着た先生が來られた、眞野先生と云ふ大下先生のお友達ださうで、花を畫くのが大變御好きだと云ふことだ、この先生の外に更に文一人若い人が來たその人は氣の利いた桐の「スケッチ箱」を肩から懸けて意氣揚々と入つて來たそして向ふの窓側に行つて梅の花り寫生を始めた。その頃は未だ水彩畫の「スケツチ箱」なぞ大分珍しかッた、今でこそ小學校の生徒までブラ下けて歩く樣になつたが、その時分は油繪のこそ有れ水彩の「スケッチ箱」は少なかつた。皆机からふり向いてはヂロヂロその箱を見て居た。やがてその若い人は板の間の上に具合よく梅の花を案配して寫生を始めた。この恐るべき新來の生徒が加はつてから、一室の熱心は少し破れた。皆時々筆を止めてはその方を見て居る、主人なんか時々恐る恐るさし足拔き足でその「スケッチ箱」の傍に依つては感心して眺め入つて居る、僕も時々見やうと勉めたが遂に見ることが出來なかつた。主人はその寫生を見て自分の席に歸つて來る度に、隣りの人にアア僕等もせめてあの位畫ける樣になりたいナァとしみしみ小聲で話して居た、主人が一生の理想とする繪がどんなものであつたかその日の寫生はとうとう見ることが出來なかつたがその後その人の畫いた靜物畫を見たことがある、今から思へば隨分おかしだものであつたがそれを見た當時は僕も大にうまいと思つた。何しろその日は全くその若人の獨り舞臺であつた皆畏敬の念を以て環視してるので先生グツと反身になつて大に健筆を振つて居た。後で聞くとこの人はYと云ふ極く人のいゝ勤め人で暫くしてから主人なども大に懇意になつたやうであつた兎も角主人も夕方まで突ついて居たが先生が廻つて來て、今日はモうお仕まひなさいアアシシウ君のは未だ見なかつたれウン段々調子がわかつて來ましたね、只この雲の調子が少し重すぎたねエこれぢや雲が空から拔け出して鼻の先きに來た樣に見える、雲は稍稍ともすると重くなり過ぎるものだから、注意してお畫きなさい。とか何とか言はれて筆をおさめた。そして丁寧に僕の身體を洗つてくれたのでホッと一息ついた、アア今日のセピヤ畫には僕の雪を欺く御肌が少からず尊嚴を害された、コレデ先づ今日のスタデーは終つた家に歸つてから一人つくづく考へて見た之れから後何時までセピヤ攻めに逢ふのだらうと思ふと心細くなつて何だかシクシク泣けて來た。主人にしてもが一刻も早くホントの水彩畫に移りたい樣子であるが、未だその資格がないのだから仕方がない。だが其後一ヶ月程經てから主人もいよいよホントの水彩畫を許される時が來た。或日のこと先生から今日はこれをお畫きなさい、大分セピヤの方もうまくなつた樣だからーと云つて一枚の水彩畫手本を渡された時の主人の顔は天にも昇る樣な嬉しさうな希望の光りが眼一ぱひに溢れて居た。お蔭樣で僕もャッと安心して手本を見ると紙の中央に松の木一本丈畫いてある繪であつた。何しろ主人大得意となつて息をもつがず一生懸命に遣つてるが、始めての着色畫だから頗る弱つて居るらしい。血眼になつて僕の身體中安畫具を混ぜ散らして居る、セピヤでなくてもガンボーヂなぞは何とも云へぬ厭な臭氣がする、併し色の感じがセピヤ程不楡快でなく極く明快な色だから未だガシボーヂの方は我慢が出來る。主人時々舌打ちをしては何て難しいんだらうと眩きながら遣つて居る、何でもこの日主人と一しよに着色畫を許されたのは隣りの席に居た蠻カラの中學生でこの二人が先づ着色畫の先頭第一の恩命に接したらしい。あとの連中ば未だコツコツセピヤ畫を畫いて居た。兎角何事でも草創の際は振はぬものに定つてる始めから花々しいものは終ひにはろくな事はないものだ、講習所も此時代は前の如き始末で設備は不完全で生徒も少なく生徒は皆模寫薫ばかりの哀れな連中只「スケッチ箱」所有者のY君が濁り嶄然頭角を抜いて居た位のものてある。其頃は大下先生だつてどんなにか心細かつたことに相違ない。さりながら此僅少な講習生は今の堂々たる水彩畫研究所の原始的記念物として、多大の價値を有するものであると思ふ。故に僕は研究所の變遷を説くに當つて、それ等石器時代の人々を一應天下の同志に紹介して置きたい。誰か世界の美術史を語るに當つて、先づ埃及のオペクスクや三角塔を述べぬものがあらう況んやそれ等の講習生は、數こそ少なげれ、技術こそ拙けれ中にはその閲歴の上に少なからざる面白い話柄を有する人が多かつたに於ておやだ。僕は次號に於て大にそれ等の趣味ある閲歴をすつぱ拔くことにしやうと云つて决して人身攻撃なぞ、卑劣なことをする僕ぢやない事を斷つておく。

この記事をPDFで見る