畫筆について
『みづゑ』第七十三
明治44年3月3日
西行の筆捨山など名所がある。景色の佳いのに閉口して迚ても手が出せないといふので筆を捨てたことであらう。餘り諦めが早過るやうだ。第一其筆が勿體ない。諸國を遍歴して少し佳い景色の處ヘ來ると筆を捨てゝゐては筆の數も多く入ることであらう。
昨年の九月頃に亡くなつた英國の畫家ホルマントといふ人は葬式の節、棺を飾るに此人が生前使つてゐた畫筆を山のやうに積んださうだ。好い思ひ付きである。日本では天神樣ヘ行くと筆が澤山上つてゐるが見て誠に氣持がよい。尤も臺灣のやうに蟲が食ふ處では飾つて置く譯にもゆくまい。
筆の極く使ひよいのは、新しいものではなく稍や古くなつて少し先の切れて來た時だ。これは自然に先が切れて來たから良いので態と切つても妙でない。それゆヘ書家の方は知らないが、畫家は古い筆を大切がる中々捨てるどころではない。
筆が古くなると其色の特質が出て來る。之が其主人の特質に似るのだから面白い。それ故自分の筆を人に貸すのも厭であるが人の筆を借りて使ふのも眞平だ。自分が知らぬ間に一度でも人が使つた筆は直ぐ手加減で知れるのが妙である。
之は心理上さうであらう。畫家が筆を手にすれば其毛の先き迄血が通はなサればウソだ。手は手筆は筆と別々でゐては佳いものが出來やう筈がない。
斯うなつて來ると、能書は筆を選ばずなどゝ云ふことは出鱈目だ。成るべく良いのを選むだ方が書きよいだけでも得である。第一之が道に忠なる所以であらう。自分と一心同體である筆が好加減の間に合はせものと來ては辛棒が出來ない。何本でも捨てる西行に劣けることではない。(寫生趣味)