研究所案内


『みづゑ』第七十三
明治44年3月3日

 日本水彩畫會研究所のことを問合はされる人達が多いから、ここに其内容の一斑を説明しやう。
 この研究所の起りはさほど古くはない。明治三十八年七月雜誌『みづゑ』を發行したころから、素人に繪を敎へる處にあるまいかとの問合せが澤山來た。大下氏は知人やら親類から頼まれた人達のほかは自宅敎授をしない。それで、繪を習いたひといふ人のために敎場を開いてはどうかと丸山氏と大下氏との間に相談があつて、終にその年の十二月から、神田三崎町の幼稚園の敎室を借りて毎週土曜日曜の兩日三時間づゝ授業することにした。待ち設けてゐた十數人の會員はこゝに集まつて、專ら鉛筆畫や室内寫生をやつた。すると間もなく會場であつた幼稚園が閉ざゝることになつたので今度は東京の眞中、日本橋十軒店の舊門井學校の二階を借りることにして、そこに引移つた。そして土曜日はやめて日曜だけ六時聞にした。會員は漸漸增して來る。丸山大下兩講師のほかに、時には眞野氏河合氏などが補助に來られる。朝一同が集まると、一部分は靜物寫生のために居殘り、一部分は戸外寫生に出掛ける。近くは丸の内九段のあたり遠くは綾瀬向島品川大森の方にまでも出かけた。熱心な會員は面白いやうに技が進歩する。會場ヘは三里もある練馬村あたりかち、朝早く缺かさず來る人さへあつた。
 集まる人達の多くは學生であつた。だんだん畫の事が解るに從つて、專門にやりたひといふ人が出來る。各地から畫を習ふ目的で尋ぬて來る人もある。父兄から將來を頼むで來・る人もある。專門にやううといふ人達は、太平洋畫會なり白馬會の研究所ヘ入學させて不相變日曜日だけ講習所で面倒を見てゐたが、その頓の各研究所は今のやうでなくて、秩序が立たす隨分亂暴なものであつたので、そのやうな處へ態々頼まれた若い人達を入れて置くことについては、講師達も少なからず心配をした。それでこのやケに專門を志す人も多くなり、又將來見込のある人達も少くないから、吾々の手で眞面目な質素な、一の主義ある堅實な研究所を設けやうではないかとの相談か成立した。幸ひ講習所での収入たる授業料は、一年あまり其儘積んであつたから、それを基本として資金を集めることにした。吾々は無償で寄附金を受けることは快よしとしない、寄附の金額に應じて自分達の製作を頒たうと、これが講師達の意見であつて早連印刷物を知友へ廻した。東京市内や近縣は勸誘にも出かけた。紹介状を貰つてゆくと、保險會社のものと間違ヘて無禮な態度で門前拂を喰はせられたこともある、物貰視して僅かばかりの金を紙ヘ包んで出されたこともある。丸山氏の如きは、屡々憤慨して、それ等の人々は理を説ひて争ひ紙包など突返したこともあつた。かつて逢ふたことのない屈辱さへも恕んで、漸漸豫想近くの資金を得た。それに對して送る繪の爲めに、實に永年畫き溜めた多くの苦心の作は殆ど影もなく、其上幾十枚かを忙しい中に畫いたのであつた。
 知友の同情好意それ等は、無事に敷地も建物も完ふせしめて、小さくはあるが、水道も瓦斯もついてゐる模範的の研究所が出來た。そこは小石川水道端の静かな通りでそして電車にも近いよい場所である。
 かつて幼稚園に産聲を擧げた水彩畫講習所は、四十年の九月、日本水彩畫會研究所と名稱が更まつて、新に專門に學ぶ生徒を募つた。爾來星霜ここに四年幾多の秀才は此中に在つて日毎夜毎研究た餘念がない。またアマチユアのために、目曜の課業も其儘殘してある。
 研究所の規定は左の通りである。
 日本水彩畫會研究所規定
 目的
 (い)當研究所ハ主トシテ水彩畫及應用美術ニ關スル意匠畫ノ專門敎育ヲ施シ、併セテ業務ノ傍ラ水彩畫ヲ學バシトスル者ノ爲メニ短期修業ノ道ヲ與へ懇切ニ敎授スルヲ以テ目的トス
 學料
 (ろ)常分左ノ學科ヲ設ク
 黑繪水彩畫パステル意匠圖案畫毛筆線畫透視畫法美術解剖學其他畫學上ニ關スル講話
 授業日
 (は)本科研究時間ヲ午前及夜ノニ部(各四時間)トシ臨畫、石膏像寫生、人體寫生等ヲナサシム
 (に)別科ハ毎週日曜日ノミ午前午後ヲ通ジテ六時以上臨畫、石膏像寫生、風俗寫生、靜物寫生、景色寫生等ヲ研究セシム
 (ほ)毎月第四日曜日三時間透視畫法、解剖學其他ノ講話及ビ景色寫生ノ批評ヲナス(本科別科共必ズ出席スベシ)同日午後月次會ヲ開ク
 修業年限
 (へ)本科業修年限ヲ五ケ年トス
 (と)別科修業者ハ年限ヲ二ケ年トス
 修業證書
 規定ノ學科ヲ修メタルモノ及ビ講師ニ於テ其レト同等以上ノ力アリト認メタルモノニハ卒業製作ヲ徴シ其結果ニョリ修業證書ヲ授與ス可シ
 入學手續
 (ち)入學志望者ハ入學願書及履歴書ヲ出シ許可ヲ受ケタルモノハ規定ノ記各料、其月ノ所費、及び保證人連署ノ在學證書ヲ差出ス可シ
 學費
 (り)學費ハ左ノ如シ
 本科、午前ノ部記名料金三圓所費一ヶ月壷圓貮拾錢
 本科、夜ノ部記名料金三圓所費一ケ月金壹圓
 人體寫生ノ時ハ別ニモデル費ヲ徴スベシ
 別科、日曜日ノ部記名料金壹圓所費一ケ月金七十錢
 但各科ヲ通ジテ毎月十六日以後ノ入學者ニハ其月ニ限り所費ヲ半減ス
 (ぬ)敎場ニ要スル修業用ノ器具及清耗品ハ凡テ研究生ノ負擔トス
 所費ハ毎月五日迄ニ必ズ納付ス可シ
 別科生ニシテ本科ニ移ル時ハ更ニ記名料追加金貮圓ヲ納ム可シ
 休日本科ハ毎週日曜日
 各科ヲ通ジテ大祭祀日及七月二十五日ヨリ九月十日迄、十二月二十日ヨリ一月十日迄トス
 研究生心得
 研究生ハ品行方正ナル可キハ勿論授業中ハ靜粛ヲ旨トス可シ授業中ハ敎室ニ於テ喫咽及飲食スル「ヲ禁ズ
 以上
 (い)及(ろ)には水彩畫といふことを明記してはあるが講師は何れも油繪に經驗があり、また深い素養を持つて居らるゝ方があるのだから望によつては油繪の研究をも許すし、また現在の生徒の中にても油繪寫生を盛んにやつてゐる人もある。併し大體の趣旨は水彩畫の發展進歩が目的で、將來その方面に從事する人を養成するのである。
 墨繪はすべての繪畫の基礎であるから、本科の生徒は不殘毎日木炭を手にして一生懸命に研究してゐる。パステルを學ふ人、圖按を學ぶ人或は毛筆線畫を學ふ人にも、同じくこの課程は踏むことになつてゐる。
 (は)本科午前の部又は夜の部に入學する人は、カルトン(厚いボール紙二枚を書物の表紙のやうに合せてもよろしい、クロース付の出來合の品は文房堂其他の繪具屋にある新入學者には割引券をあげる)一個、紙狭み二個(大きい程よい)木炭若干(一ダース宛箱入になつてゐる、舶來の方がよい、硬さは中位ひが使ひよい)木炭紙若干(一時に十枚位ひ求めて重ねて置くとよい白い地の厚いものがよい)、畫架一個(畫室用の大きなもので、研究所の近處の指物屋で作る一個五十錢位い、當分は研究所で借りてもよい)以上の道具を用意しなくてはならぬ。それ等は實物を見るのが一番解し易いから前に研究所へ來て参觀するがよい。(但人體部の参觀は許さない)
 研究所はすべて板敷で稽古をする時は起立してやる時もあり腰をかけるのもある又は座してすることもある。座する時には小きな薄綠が用意されてあるが特別に座布團を持参もしてもよい。
 寫生の出來る人は、入學直ちに簡單な石膏胸像を畫かせる。極々初めての人には二三枚模寫をやらせる。摸寫は何日からでも差支ないが寫生は一個のモデルに對して一週間と極まつてゐる。月曜日に始めて土曜日に終るのである。
 胸像の寫生が充分出來るやうになると立像をやらせる。かうして早い人は一年程、遲い人でも二年位ひやつてゐるうには、其技倆によつて人髄部に廻される。
 夜の部も手順は同じであるが、午前のやうに毎日モデルが來な。い一ヶ月に一週間だけコスチユーム(着衣人物寫生)がある。時として裸體も使ふが、平日はいかに伎倆があつても石膏像の寫生だけてある。それゆヘ人燈寫生の、力のある人達はなるべく午前に來る事とした方がよい。
 人體部でも一ケ月に一週間だけはコスチユームをやらせる。人體部の人で二年もやると着色を許されるがこのコスチユームの時は、着色を許されぬ人達でも色で畫いてよいことになつてゐる。
 本科には、毎年一二回コンクール、(竸技)がある。敎師は二三ケ月前から優等な作に印をつけて置て、之れを集めて等級をつける。一等から三等迄には木炭紙其他の賞が出る。石膏部から人體部へ廻るのも多く此時である。
 本科の敎師の見巡る日は、毎水曜日と土曜日で、水曜日には專ら輪廓を見る。敎師は午前も夜も大下氏である。土曜日は濃淡及繪の出來上りを見るので、午前は岡氏夜は永地氏である。(に)は毎週日曜日(第四日曜を除く)午前九時から夕方迄授業する。此科は專らアマチユーアの爲めに設けられたものであるが本科生で兼修する人もある。極めて初學の人には鉛筆畫を描かせる、臨本模寫から石膏寫生位迄させる。次は一色畫を少し描かして後ち着色に移るのである。天氣のよい時は多く戸外寫生をするが、初學者又は望によつては靜物寫生もやらせる。敎師は磯部氏大下氏眞野氏等のうち出席される、第一及第五日曜は赤城氏松山氏等が見ることになつてゐる。
 (ほ)第四日曜日の午前には、眞野氏の透視畫法講話がある。それの無い時は、午後に他の講師の講話がある。解剖學は今適當の敎師が無いので缺けてゐるが、参考書があるから自修は出來る。
 午後からは一ケ月間の全生徒の水彩及鉛筆の寫生畫を陳列して批評會を開く。生徒は雨さへ降らなければ、毎日午後は寫生に出掛けるのだから多い時は二百枚も研究した作が集まる。それを各講師と折々招待する戸張藤島織佃等の諸氏が親切に批評せらるる。これは各科の生徒が是非出席することになつてゐる、自分の作を出さぬ時でも他人の批評を聽くことは頗る有益であるので、いつも五十人位ひは集まる。出品畫には其成績によつて時に三四等迄賞の出ることがある。
 批評がすむと簡單な講話があつて、次で茶話會が開かれる。銘酩隠し藝などが出て大に賑ふ。特に一月は新年會を兼ねて頗る盛んに遊ぶ例になつてゐる。
 (へ)修業年限は假りに五ヶ年となつてはゐるが、繪畫の修業に何時迄といふことは無い、こゝには文部省展覽會の如き、最高の鑑査に合格する作を出す程度で、眞面目に勉強したら、普通三四年で其位ひの力はうく。五年もやれば賞を取る位ひにはなれる。文部省展覽會で賞を取つた人には、研究所では特待生として一ケ年間所費を免ずることになつてゐる。まづ此位ひが卒業程度である。
 (と)別科の方は、毎週日曜日に必ず來て、二年も勉強したなら百枚近くの繪が出來る。百枚も眞面目な研究をすれば、通例素人として耻かしからぬ製作が出來、公開の展覺會へ出品する位ひの力は得られる、それが程度になつてゐる。
 (ち)別に書式が極まつでゐない、適宜でよい、保證人は東京市内在往の人であればよい。
 (り)人體寫生部からモデル料として一ヶ月金参拾錢を徴集する定めになつてゐる。
 (ぬ)器具といふは前記の畫架やカルトンの類を指す。消耗品といふのは毎日使用するパン(木炭畫の修正に必要)と土曜日に使用する木炭畫の定着液の代で、一ヶ月金二十錢程である。他に各科生共月次會々費として、所費と共に毎月金十錢を納むることになつてゐる。これは毎月幾分かを積立てゝ春秋の寫生會に銘々の負擔を輕しする方法をとつてゐる。
 以上で規定の説明は盡きた。この研究所は、幸に發起者の理想め如く生徒は極めて堅實な覺悟を以て、脇目も觸らず勉強してゐる。そして生徒相互の問は、恰も同胞の如く睦まじく實に和氣靄々たるものがある。また研究所の經營は漸次此會の出身者に譲る仕組であるから、生徒自身も銘々自分のものゝやうに思つてゐて、愛會心は甚だ強い。若し今の儘で進むでゆつたなら早晩美術界の一大勢力となることは疑なき事實であらう。
 研究所の現在生徒は本科午前人體部十餘名石膏部二十名程、夜の部十名、別科十餘名で、全體で六十名程である。各科共猶多少の餘席はあるが、もともと小さな建物でみるから此上澤山の人の収容は出來ない。
 在★生徒の研兜方法は學校でのデッサンをやる時模寫や石膏部では、モデルに一分一厘間違はないといふやうに嚴しく稽古をさせ、漸く進むに從つて、モデルの感情を描出するやうに導いてゆく。午後の時間は、銘々寫生に出る。これは全く自由で、各自の個性を奪重し、描法其他には少しも干渉することなく、思ひ思ひの仕事をやらせて、月次會批評のとき、あまりに邪路に陥いつたものに對して、警告を與ふるに過ぎない。此敎授法は甚だ有効で、動かすべからざる基礎の上に、各自の天分に應じた特質が加はるので、丹次會陳列の繪は、種々なる新しい試みが見られて、同一の敎場に學ぶ人達の作とは思はれぬ程、銘々の特長を發輝し、複雜の觀を呈してゐる。
 研究所の通學生は自宅かち來るもの、下宿に居るもの自炊者等種々ある。中には毎日遠方から汽車で通ふ人ある。一里半も先から電車へも乗らず來る人もある。夜の人達は、畫間學校へゆくか、又は會社や工場ヘ出て勞働して自ら衣食する人達が多い。
 東京の下宿料はいろいろ等級があるが、まづ十二圓かち十五圓位ひで、小遣や學資で四圓もあつたらよか。自炊なら座敷料と共で一ヶ月拾圓以内で濟む。併しこれは多く見積つたので、土地馴れるに從つて、もつと少額で間に合ふやうになれやう現に衣食の料と學資どを合せて十圓以内で裕にやつてゐる人もある。

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