寄書 鏡の樂屋觀

工生
『みづゑ』第七十三
明治44年3月3日

鏡の樂屋觀工生
 b:僕は研究所の樂屋の鏡だ。僕の置かれた机の上には仲よしの白粉ちやんや紅子孃、さては意地のわるいお墨さん等も居る。向ふの隅には女や小僧の衣頚・洋服・シルクハツト・下駄・草履その他種々の物が轉つて居る。此方では假髪や髻が風呂敷の中から顔を出して居る。入口は戸が閉ぢてあるので外は見えぬけれ共だいぶ人が來てゐるらしい。役者が四五人はいつて來て衣類を取り替え始めた。餘興が始つたと見えて二階の會場で拍手が起つた。「やあ君よく似合ふよまるで文房堂の主人そつくりた」と一人が去ふ。さうかと云ひながら僕の前へ來て微笑を浮べて居るのはG君だー僕は始絡研究所にいるから毎日來る人なら大底名を知つて居るーG君は少さな身體に縞の衣服に角帶前掛といふいでたちで相變らず眼鏡を光らせて居るが今日はすつかり商人さんだG君の次に顔を出したのはジョン君の酒屋さんだ。ジョンだなんて犬見たいな名だけれ共研究所で有名な色男おつとどつこい、こらだまちよれよかね。サダちやんは今度畫家の役になると云ふので、顔の細工が出來ると長髪を頭へつけた。「ヨゥ繪かき屋さんが出來るんだね」「繪畫きはよいけれど何しろ借金で頸も廻らなくなつて夜逃げをするといふ筋だらう何だか僕の將來がさう成る樣で不安でしやうがない」とサダちやん此處思案のてい。不意に黑ろい汚らしい顔がぬつくと現はれた。よく見るとモッちやんだ。モッちやんはたゞさへ白ろい顔へ墨を塗りたてたからたまらない、何んの事はないまるでタドンへ眼鼻をつけた樣だ。それで云ひ草が可愛らしい。「此頃は何處ヘ行つても上ッた上ッたといはれて、もてゝし樣がないからたまにはかういふ盗賊の樣な役むやちなくちや身體が續づかない」と。黑ろい顔につゞいて白ろいしかも頭髪をハイカラに結つて赤い大きなリボンを付けた女の顔が現はれた。はて誰だらうと小首をひねると何の事だ僕の主人のアカちやんだ。づいぶん美しくなつたもんだ、見違ひじやないかしらと硝子をふいて見るけれどやつぱりアカちやんだ。して見ると女といふ奴は頭のものと衣服で一ッはきれいに見えるのかしら等と考ヘて居ると「おいアカおれはおまへに惚れたよ」いつの間にか誰れか樂屋の入口からのぞいて居る。これだから美人が出來ると物騒だ。テレちやんが頬かむりをして尻つばしよりで此方をむいてテレテレと笑つて居る。かけ出しの盗人といつた感じだ。芝屋が始つたのか皆でゝ往つた。これで僕も少しは息がつけると思つて居るとY君がはいつて來て一人でコツコツとも何とも云はずにお化粧を始めた。先づ其のニキビだらけの顔へ白粉をべつたり塗つて一文字に太い眉を墨でぐつとかいた。次に眼の綠や口の廻りへ隈取を入れて凄味のある好男子になつた。「十年苦役をすると云は、そりや手前が少さな了見、盗んだ金を先へ返し改心して自首すりや‥‥」Y君新舊合併の口調臺詞の一節をどなつた。折から一芝居終つたと見えて役者連がドカドカと歸つて來た「今の盗人は二人とも實によかつたね僕はおかしくておかしくて‥‥‥」一人が轉げて笑つてゐる。「うまい筈さ本職だもの」「やめろいこゝに聞いてるぞ」うしろにモッちやんが立つで居る。皆してドット笑ふ。「オイお菓子が來たよ」「何に菓子」お菓子と聞いちやたまらない、自粉を片頬だけつけたり、隈取を半分かいたのか芝居がぢき始るといふので片方の手で菓子をパクッキながら一方の手でお化粧をつゞけて居る。タキちゃんはお化粧が出來ると西洋婦人服をつけて、假髪をかぶつた。「イヨゥハイカラな美人が出來たね、こりや受けるぞ」「うけるのはいゝが○○さんが心配するがら氣をつけ給ヘ」「アラ大丈夫よ心配しなくてよくつてよ」タキちやん女の聲で辯解する。タキちやんの跡へ來たのはツーちやんだ。髪の毛をビンツケでかたあて其の上ヘ何か塗つてはげをこしらえた。頭が出來るとツーちやんも洋服をきた。ハイカラな蠅トマルトスベルが出來上ッたわけだ。カイゼルをつけた立派な紳士がフロックを着ながして現はれた「やあ岡先生かと思つた」「どうだ上ツたらう」といひながら紳士は僕の處ヘ來て姿を寫して居る。上ッたりな上ッたりな彼の紳士はモッちやんた。さつきの盗人になつた人とはどうしても思へない。「モチ君すてきだぜ」ボンちやんが笑ひながらやつて來た。「いゝだらう僕だつて今にきつとかうなつて見せるさ」モッちやん大得意のてい。あかりがついた。拍子木がなる拍手喝釆が起ッた。すでに樂屋には誰れも居ない。「かう皆でゝ往つてしまうと淋しいな」と僕は濁り言をいひながら、あまり色々面白ろい顔が出るので興にのつて此度はどんな顔が現はれるだらうと考へて見る。一しきりどつと笑聲が起つた。「うまいぞ」「よいしょ高島屋」などといふ聲も折折戸の隙間からもれてくる。今の喜劇が終ると「サァ辨當だ辨當だ」とアカちやんタキちやん等が衣粧をつけたまゝで裾もあらはに、かけずり廻つて居る。大變な女もあつたもんだ。二階も下もたゞがやがやいつて居るばかりで、便所の戸をあけたてする音が騒々しい。再び餘興が始つたと見えて、又拍手喝釆が聞える。雨村君米屋のなりをして、生れてから始めて鏡を見るといつた顔つきで僕の前ヘ頸をつき出した。アハ‥‥‥」と雨村一派の豪傑笑ひをして頭をかきながら出ていつた。すれちがひにテレちやんが胞衣を着込んでやつて來た。九尺二間の裏店のおやぢといつた感じですこぶるよく似合ふ。「オイ與太郎仕度は出來たか」と傍にいるG君をかヘリみる、G君はいつの間にか二本ばなをたらして立つて居る。察するにテレちやんの小供にでもなるらしい。こんなものぢゃどうだ」と天狗が何所からか舞ひごんだ。顔はお面でわからぬが聲がマツちやんだ。青いきれをかぶつてヒユードロドロとさすがは天狗だけに神秘的な聲で、身振ひをして居る。
 新年會は芽出度く終つて來會者の多くは歸つたらしい。玄關の方でカルタをとる聲がする。今日は種々の面白ろい顔が見られてお蔭で命の洗濯が出來た。隣りの白粉ちやんも紅子嬢も、今日のつかれで、いつの間にか、こくりこくりやり始めて居る。

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