風景畫法 明暗

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第七十四
明治44年4月3日

 明暗とは色彩を別にして只だ陰と日向とに就て云ふことである。自然を假りに一色と見做して取決めた一種の約束ではあるが之が中々重大なもので畫家としては是非とも知らなければならない。良い畫と云ふは必竟分解と綜合との双方から煎じ詰めての談であろが畫家は自然を研究するには一部分づゝ離して表面の色は取り除て裏面の本來の色を見ることもするのであるから。同じ譯で明暗を色彩から離して一時色盲になつた氣で研究するのも困難なる事では無い。
 自然を畫に寫す畫家の技量と云へば之をパレットの上の命の無い幾程かの繪具に俟つ斗りで。叉た此繪具の明暗の變化の度合ひを自然のに比較して見たならば迚も及ぶべくも無いことは知れて居る。既に材料が不完全でありながら一生懸命に自然の限りなき明暗の變化を限りある繪具の力で現はさうとして苦心しても元より出來よう筈は無いのであるが併し畫を見ることも亦約束のようなもので。ペンや鉛筆の走りがきの畫でも人は自然の有様を克く現はしたものとして夫れを見る。人の想像力と云ふものは少しの端緒さへあれば推して全體を悟るのであるから此想像力のお蔭で畫も大に助かる譯である。人の此天性は誠に不思議なるもので他の動物には決して無いことである。
 去れば繪具の力の足りぬのは仕方がないから兎も角も之で充分畫がかけるものとして。扨て考究すベきことは畫に明暗の變化を何う着けたならば宜いかである。眞黒な色から眞白な色に變化する其間の明暗の割合を百と決めれば畫には何程丈之を使つたならば宜からうかと云ふに。之に對する金言は控へ目と云ふことである。此割合を多く用ひ過ぎると反つて不結果に終はるもので。百を悉く使つて畫をかいたとすれば其畫は空氣が無く叉た興味も無いものとなる。逃げ出したいような恐ろしい畫が出來うに違ひ無い。畫面の美は往々此割合を上手に使ふことに依るものでそれにに割合を上で取るか下で取るか或は廣くするか狭くするか其時の都合次第であるから。極下で取って吹けば飛ぶやうな弱はい畫の出來ることも有れば叉た此反對に一番上で取つて毒々しい程強い畫の出來ることもあらう。
 併し先づ十番と九十番との間で割合を取うとすれば此中には面白い明暗の取合はせが十か十五は有らう。都合の宜い處で決めて宜い。其關係が違はなければ自然の通りの畫が出來るのである。併し何れの場合にも其畫に最も適當した明暗の取合はせがあるものだから。ウマウマ其番號へ當れば即ち傑作となるので之が大家の技量と云ふものである、通常中程から少し上の間で割合を取れば大抵の畫には好く適ふものであるが。時としては非常に明るい畫を描かうとして割合を極高くすることもあれば。暗い穏やかな畫をかくには極低く取ることも有る。叉た此上下の割合を考へると共に此割合を取る廣さも亦必要なることである。番號で云へば百番ある中から十番だけの廣さを取るか二十番だけにするか叉は五十番だけを取るか七十番だけとするか。之は畫かうと云ふ畫が極派手な圖柄であるとか叉は地味な圖柄であるとかに依つて此廣さの取方に變はつてくる。それと叉た畫の性質にも依る。装飾的の壁畫の様なものでは壁のや平面と云ふものを常に觀者に悟らせて置く必要があるので。さうで無いと建築上の統一が缺けて壁の強さや力が現はれない。額面になると丁度此反對で。畫幀の平面上に光線や空氣の幻容を現はし觀者に額縁の中までも歩いて行かれる様に思はせるのが目的である。それ故壁畫をかくに當つては。畫を確りと正しく現はす様に明暗の割合を裕かに取ると共に夫れが又た克く折合ふ様に允分注意することである。
 明暗は之を概言すれば向ふの通りを持つくることで叉た定められたる約束の範圍内で巧妙に工風するのであるが繪具を上手にさへ使へば如何なる自然界の現象でも之を現はせないと云ふことは無い。例へば眞畫の口光が海面へ映じて照反へして居るような有様は毎も見る處であるが此場合に實際日光の強さは繪具の力の幾千倍と云ふのであらう。併し明暗の割合を上手に工風してかけば限りある繪具の力にも尚ほ餘裕を持つて烈しい光の有樣を充分現はすことが出來よう。要するに凡て強い光の有樣を畫かうと云ふ場合に大切なることは此繪具の力に餘裕を持たせることである。眞暗な陰にも其奥には光が動いて見える樣に行かなければならない。自然を見ても亦同樣で決して明暗の割合を全部使ひ切ると云ふようなことは無く如何に烈しい光にも尚ほ充分の餘裕を持つて居ることが分からう。畫にも其通りである。
 勿論斯う云へばとて。曇り日の風景を畫くに當り急に日光が雲間から漏れて來る場合に。之れに充分の強さを持たせることが出來るように他の割合を加減して低く取つて置くと云ふのではない。日光を畫くのならば最初から其積りで懸る。只だ必要あらば何時でも割合を一層引上げる事も出來れば叉た引下げることも出來ると云ふ風にして置きたいのである。
 割合を決めることが分かれば。其次ぎには此明暗が大きく一塊りづゝに纏まるように實景を見ることが大切である。大體を見て重要なるもののみを採り無用なる細かい處は捨置いて差支ない。實際細かい處は中々五月蝿く叉た眼障りになるもので。之を除けて其奥にある大きな重要なるものを探ると云ふことは並一と通りの修業では出來なからう。戸外の實景を見ても此理合が分かる。太陽に萬物を均らして光でも陰でも凡ての物を皆平らにしてしまふ。細かい處に一々係はつて居ては戸外寫生は實に複雜極まりないものとなる。夫故之を四叉は五の主なる明暗の一塊りづゝに區別して充分自然の通りの關係で畫いて見ると、案外にも細かい處はそれ程入用の無いことが分かる。木の幹を畫いて其下に葉を少許り散らし道の迂廻して居る處を畫けばそれで出來てしまう。毎も觀者に想像の餘地を少し遺こすようにするのである。
 畫は描いて居る中に何時の間にか出來上つて居ることが往々あるものだ。
 物を簡單に見るように眼を慣らすには月光を見るのが一番佳い。月夜の有樣は細かい處は隠くれて大きい塊りだけが見える。影は穏やかに全體を包み。光りも亦柔らかにたかだか二か三の明暗の割合から現はれて居るのである。斯う云ふ工合に日中の有樣も見て居ると段々本當のことが分つてくる。
 自分だけでは明暗が一番畫に重要なるものであると考へられる。無論色彩。意匠。融合などのことも重要ではあるが。併し是等が何程佳く行って居ても明暗が確でないと其畫は拙作たるを免れない。要するに明暗は人體で云へば骨骼である。肉附や容姿の美も骨を抜いては毀はれてしまふ。それ許りでなく。明暗なるものは美術上天才ならずとも通常の視力があるものならば誰にも分かる、事柄だから熱心にさへ研究すれば追々上達もして畫の修業上長足の進歩をすることが出來るのである。
 以上述べた處は凡て過去及現在に於ける美術上の談ではあるが。將來とても今の智識と精神とが此儘何時までも續いて行くものであると見て間違あるまい。併し朧氣ながら未來の有樣を考へて見るに自分には別に新美術が現はれるように思はれる。之は絶對的の美を主として材料其他に拘束されない丁度純音樂的の思想に餘程近いものであらうかと察せられる。斯うなれば明暗など云ふことは大して必要でなく凡て色彩の美と云ふ方で事が濟むようになるだらう。
 之は併し何時のことだかまだ分からない。兎も角後來に持續するような美術は之を其時代の思想に適ふものと見て宜いのである。(バーヂ、ハリソン稿)

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