日記抄

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第七十四
明治44年4月3日

 東京から廻送された數通の信書のうちに、また例の無學資繪畫修業希望者よりの手紙が二通もある。今の世の中で、學資が皆無でありながら、學問なり技藝なりを修業しやうといふのは容易の决心では出來ない。この事はかつて『みづゑ』紙上に再三警告して置いたのに拘らず、毎月二三通同じ意味の信書を手にせぬことはない。私の友人某氏は、こんな手紙はいつも取り放しでタトへ返信券がいつてゐやうと、回答の催促があらうと、重ねて歎願して來やうとも、いつも平氣で拾てゝ置くといはれるが、私には性分としてそれが出來ない。同じ意味の手紙を毎月幾度か書かされるのには實に閉口する、寧ろ印刷にてもして置かうかとさへ思つてゐる。
 苦學といふことが决して悪いのではない、自分で働らき自分で學資を得て技藝を修める、これは父兄から金を貰つてラクに勉強してゆく人に比して、遙かにヱラクまた遙かに尊とい事である。併し、私の處へ手紙を寄せる人達の多くは、自分で働らかうとせずに、人の家に寄食して勉強したいといふ暢氣な考の人か、さなくば何處かに仕事口を探して貰つて、半日位ゐ繪の稽古をしたいといふ希望の方々である、これ等の希望を有せらる、地方の青年諸君には、私は大なる同情を有するものてあつてその希望が决して諸君自身に於て不當でも空想的でもないといふことを知つてゐる、たゞ是等の諸君は、都會の事情に精通せぬため、容易に出來得べきことゝ思ふてゐるからであらう。
 現時西洋畫家にて、大家とよばれ世間にもてはやされてゐる人でも、家に書生を養ふてゐるのは僅に二三に過ぎない。それは書生を置くといふことは、たゞに經濟問題のみでなく、同居人を嫌ふ家庭もあるし、また養つてある書生だからとて、タトへどんな條件で來たにもせよ、さうさう使はれるものでもなく、永い間には、他の雇人との關係やら何やら氣まづい事も出來て家庭の平和を破る恐れもある。また昔しのやうに家塾があつて師の家で勉強の出來るやうな時代はよいが、今では研究所へ通學させなければ充分の修業は出來ぬ、すると其方の學資も多少は考へねばならぬ、其他種々の理由から、所謂食客なるものは置く方も居る方も决して満足なものでないので、何れも寄食者を喜ばぬ、私の如きは、上記の事情を忍ぶとしても、家も狭まく、また多忙で監督も出來ないから、當分はとても食客を置くことは思ひもよらぬ。
 尚食客を好まぬ大なる理由としては、最初から獨立心なく、他人の家に寄食して勉強しやうなどゝいふ、弱い横着な考を抱く人は、生來嫌いである。特に大先生とよび、敬愛崇拜してゐると云ひ、さまざまの形容詞を並べて、祭り上げる心事の見え透いた手紙を見る時は、心から嘔吐を催すのである。
 働き口の周旋を頼まるゝのは、自己が勞働してやつて徃かうといふ决心だけでも、たしかに前者よりは優さつてゐる。これ等の方には充分の便宜を與へたいと思つてゐる、併し各方面に多少の交際はあるとしても、田舎から出たての青年を直ぐ使つてやらうといふ人も少なく、また其上、一日のうち三時間なり、四時間なり、勉強の時間迄も與へてやらうといふ慈善家は恐らく絶無である。東京に永く住んでゐるものでも、特殊の技藝を有するものゝほかは、終日勞働してさへ、漸く衣食を支へてゆく丈しか報酬を得られない。私の知人某氏は、ある印刷會社に出てゐるが、朝は八時より夜は九時十時と夜業迄やらされて、休みといふは、一ヶ月一日十五日のたゞ二日のみ、それすら忙はしい時は往々與へられない、それで漸く活きてゆくといふ丈けで、勉強の時間などは到底得られないといふてゐる。またある人に、晝間の勤めで、幸に夜分は自分の時間があるので、夜間研究所へ通つてゐたが、晝の業務の疲勞で眼を痛め、モデルがちらついて畫がかけぬといふて、中途退學して仕舞つた。このやうに、勞働の傍ら勉強するといふことは困難であるが、それも身體が強健で耐えられるとしても、前記の如く、地方出の青年に與ふべき適當の職業といふものは中々見當らない。また私の方にしても、逢つた事も無い人を、手紙一本を信じて誰れにでも世話の出來るものではない、先方でも快よく引受てくれるものでもない。若し在京者であつて、身元も分つてゐるとなら、紹介状も書かうし、人にも話さうが、忙しい中を、單に『みづゑ』や『水彩畫の栞』の讀者であるといふだけの、見ず知らずの人のために奔走する程の義務は無いことゝ思ふ、このやうな事情は少しは察して貰ひたいものである。要するに、前記寄食を望む人は到底問題にならぬが、後の職業口の周旋を乞はるゝ人は、まづ出京すべし、そして東京の事情の分る迄、牛乳配達新聞賣、其他何でも下等の勞働を厭はず、半年なり一年なり辛抱して、徐々に自己に都合のよい職業に移り、意志を堅固にしあらゆる誘惑に克ち、氣永に目的を達するやうにしたらよからう。苦學といふことは、一面名美は七いことだし、またこれによつて成功した人も無いではないが、中途堕落した人間の數に比したら、實に九半の一毛であらう、よほどの决心をもつてかゝらねばなるまい、美術は獨創を尚ぶ、美術家たらんとする人は、修業の當初より獨立自營の心掛があつて欲しい
  (二月十五日宮の下にて)
 箱根に於ける一週間に、一枚の繪も出來なかつたが、二百枚の原稿を書いた、讀みたいと思ふ二三の書も精讀して有益に送り夜分東京へ歸つた(二月十七日)
 横濱支部の田中高畠兩氏が見えた。支部は是迄程ヶ谷に在つたのを、名の如く横濱に移し、從前のやうに毎月一回授業をなし随時寫生會を開かうといふ相談である。三月四月は私の身が多忙で出られない。五月から盛んに研究すべく約して兩氏は歸つた(一月十八日)
 有志倶樂部の用事にて小石川丸山町の中川氏邸に集まつた。席上、主人にこの程村井吉兵衛氏の持歸られた洋畫を見たといふ。其話によると、だいぶ高い金を出した樣子であるが、目新しいものが無いさうだ。さきには衆議院議員の藏原氏が何か買つて來たといふ。紳士紳商の類が、外國へ往つたおみやげに繪を買つてくるのはよい事だ、併し詰らぬものを背負はされて來ては困る、欧米各地に幾人か日本の畫家が居る、これ等の人とも相談して求めることにしたらよからう(二月二十三日)
 丸山晩霞君が渡歐せられるので、太平洋畫會有志は、神田の多賀羅亭に送別會を開いた。會者十七八人、いろいろ面白い話も出て盛會であつた。數年前、滿谷吉田などの諸君が外遊するころは、會費僅かに五十銭、日暮里の花見寺あたりで、罎詰の正宗と粗末な辨當で送別曾を開いたものだ、それが漸く進歩してナイフとフオークを持つやうになつたのは可笑しなものだと、つくづく懐舊談を洩す人もある。一册の畫帖は、不折君の題字を始めとして、自畫像やら歌やら詩やら、餘白なき迄塗られて丸山氏に贈られた。
 丸山氏は、初めにマルセーユに上陸、それよりロンドンにゆきスコツトランドを廻り、終には獨乙のミユヘンに落ついて專ら山岳の寫生をなし、山岳畫の研究をさるゝ筈だといふ。そのをりをりの紀行や繪畫は『みづゑ』に多く寄せらるゝ筈である。(二月二十五日)
 日本水彩畫會研究所の松山君も、英國迄丸山氏と同行する筈である。それで兩氏の送別會を、研究所階上に開くことになつた。午後に例の月次會で、百點程の出品があつた。水野君の作に面白いものがある、篠原君は益々特徴を發輝してゐる。
 五時から送別會に移つた。教授側では岡、永地、磯部、眞野、大橋、望月の諸君、客員には戸張氏も見えられた。生徒側は會者五十餘名、質素にして樂しき宴は開かれた。生徒自作の琵琶歌もある、唱歌もある、オルガン、ヴアイオリンの合奏もある、終には丸山松山兩氏を胴上げして萬歳を唱へ、八時頃散會した(二月二十六日)
 近來、富豪の西洋畫を買入るゝ人が増して來た、年々買入れて懸ける處が無いといふ。主た繪の可否が分らぬため飽きるといふ。また佳い繪でも永く見てゐて氣に入らぬやうになるのもあり、最初詰らぬと思つたものも、存外画白くなつてくるのもあるといふ。これ等は皆正直な告白である。
 繪を鑑別することの出來ぬ人は、他人に見て貰つて買ふのがよいが、人には好き嫌きがあるから、佳作必ずしも自己の心を得たものゝみではない。たゞ鑑識が低いと、鳥渡見のよいものを欲しがる、苟くも永遠に娯しまうといふのなら、自己の鑑識を進めると同時に、趣味の高上をも圖らねばならぬ。
 多くの繪を求めて並べて見たなら、そのうちには嫌ひなのが出來やう、それを強いて眺めてゐる必要はない、宜しく自己の出身叉に附近の關係ある中小學校などに寄附したらよい、一面には美的教育上頗る有効であるし、また自己にとつては新に求むべき繪畫の陳列場を得られる譯である。
 欲しい繪があつたら澤山買ふがよい、場處が無くなつたらこのうちから學校なり病院なりへ寄附したらよい、これは紳士の道樂として最も有益で、且最も高尚なものであらう、とこのやうなことを或人と語つた(二月二十日)
 お分れとあつて、丸山氏の招により神明町の寓を訪ふた。座には滿谷、中川、吉田、高村の諸氏が居る。前年の外遊滑稽談が盛んに出る。
 同席の某氏は、丸山氏に向かつて、繪の基礎たる人物の研究をもつと充分やつて來いといふ。丸山氏は果してアテリーに入つて木炭を掴むつもりか知らぬが、私は僅に二ヶ年の外遊に、今更デツサンの研究でもあるまいと思はれた(三月一日)
 研究所の松山君を招いて、送別の意味で晩餐を共にした。君は職業の傍ら繪を學むで、太平洋畫會の研究所に居た事もある。その頃は、日本橋にあつた水彩畫講習所へ來て、日曜毎に靜物剤かいたり戸外寫生をしたりしてゐた。小石川に研究所が出來て後は、その方の留守居役兼取締として、赤城君と共に忠實に研究所のために盡されてゐた。今度の外遊は、君にとつて善ぶべきこと、また日本水彩畫會の將來にとつても祝すべきことではあるが、差當りこの好取締を失ふことは研究所の不幸といはねばならぬ(三月三日)
 三月四日に新橋を出發して大阪、高松、津田、多度津、琴平、今治、高濱、松山、道後、別府等に滞在、寫生を試み、陸路を門司に、海路を中國方面瀬戸内海の景勝を跳め、大阪を經て、二十五日目で東京へ歸つた。机上の信書二百に近く、いかに處理すべきか、『みづゑ』もまだ半ばだけより編輯が濟むでゐない、春の展覽會のこともある、各地から展覽會出品の請求もある、こゝ當分極めて多忙な日を送らねばなるまい。
 留守中の出來事としては、白馬會が解散した、東京府勸業展覽會が開かれた、それ等に對する所感は重ねて陳ぶる時があらう。
 三宅克已氏が歸朝されて、丸山晩霞氏が出發された。克巳氏のお土産も早く見たい、晩霞氏の通信にも早く接したい。
 庭の草花の芽は伸びた、乙女椿は色あかう、土戸の白桃は蕾がいまにも破れさうだ、紫雲英菜の花も美はしい、藪鶯の聲も清閑だ。
 畫室の窓から見る江戸川の櫻は、三分の笑を呈してゐる。春の色は地に充ちてゐるが、膚にふれる風はつめたい

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