寄書 己れの告白

KS
『みづゑ』第七十四
明治44年4月3日

 僕は、何故にこんな六つかしい複雜なことが好きなんだろう、色彩――明暗――調子――配合――構圖なんてマア、數え上げたら實際困難で益々六づかしい。
 而し、自然の美をば師に仰ぎ彩筆を友として寸暇にも郊外に馳せつけて、その自然の美に接せんか、刻々にして紙面には自然の情趣が現はれんにあゝ其の快感や何にたとふる物ぞあらむ‥‥と、僕はこの樂しい愉快な興味を以て目下の苦難を忍んでいよいよ斯道を究めむと欲して居るのである。
 だが僕には一の苦痛がある其れは僕、こゝに在つては充分にその途を執るの餘地が無い、先づ第一に奉公中の身、業務が忙しい、家が貧しいのであるから專らこの道を講じ究むるとが到底覺束ない。實際僕は一本の筆一片の紙だも、求めんとしても、なかなか容易でないから。繪の修業など望んだとてどうして出來やう筈がない。
 家が貧しいので奉公に出される、して其の先は事が多くつて忙しい、少しの、暇もない、日日仕事で身の疲れる位ゐ、ヤッと小使銭を貯へて、ポロ繪具でも求め、一片の紙を得たとしても繪をかく暇がない、たまたま暇を得たりとしても、いつも夜でそれも九時か十時なのだ。
 けれ共僕が當所へ奉公に來たのは外でもない、實は自分で望んで來たのである、それはこの業も僕の目的たる畫と關係の淺さからぬ否最も適當だと思ひ、依つて招牌の畫なりにもせよ習修せんと考へて入店したんだが、なかなか自分の思ふ樣にはゆかぬ。
 さうだ、僕が來た翌年の二月、有斐舎てふ洋畫研究所へ入舎した、其の時の嬉しかつたと未だに忘れられない。是から一の師の許にて熱望して居る途に就くのだから此の上もない喜ばしかつた。こゝ一つ一生懸命に奮發せんと决意しつ、就學し初から鉛筆畫を究めた、二ヶ月で三粒寫した、之も暇に乏しい故だが仕方がない、假令一ヶ月一枚たりにもせよ師に依つて學ぶに如かずと樂しんで居たが、業務の忙しさに四月になつて中止せねばならぬことになつた、あゝ悲しかつた、悲しかつた。
 失望した僕を顧て友の某は勵ましてその代りに、東京の繪畫講習會へ入會すべしと諌められた、轉じて今度は同會洋畫科に入會した、時は九月、爾來講義録に就いて獨習して居つたが、終業も迫つて來たから今度は何か好い畫はあらんかと思ひつゝゐたところ、たまたま廣告欄に『みづゑ』の掲載してあつたので試みに一部取寄せて見たら良師と仰ぐべき斯道の指導者たるに續いて專ら『みづゑ』を無二の友として己れの悶へを慰さめつゝ今日迄に到ったのである。
 而し元より忙しいのだから執筆すべき機がない叉是に伴はつて僕には金銭の餘裕がないのであるから『みづゑ』の誌代も僅か一ヶ月分かよくよく三ヶ月分送金して居つたが、是も僅かの小使銭を貯蓄しつゝ節約しても誌代の送金に苦しみつゝ居つたのだ。
  日本水彩畫會の規定を一讀した時すぐ入會がしたいと思つにが例の時も金も許さなかつた。
  今度はいよいよ入會の機に接した。暇も不充分ながら忙しい仕事をさいて與へられた樣になつた、まアどうやら望みの一端は達せられて嬉しい。
 僕は今迄展覽會を觀たことが七八度諸大家の作に接したこと僅か二度しかない、いつも展覽會を觀る度毎に僕の腦は深く強く刺激されて啻に神秘な感に打たれて呆然として仕舞ふのであつた。
 あゝ、僕は何故にこんな下らぬことを長々と書いたのだらう?而し僕、目今の心情を斯くもクドクド、と訴えたのであつて貴重な誌面を汚潰したは實に多罪、免し給へ!切實なる先輩の諸兄よ、希くば、初學なる僕をば、崇高な子ーチユーアなる趣味の途に導かれむことを! (完)

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