寄書 畫的なる春と秋の優劣

石川幸三郎
『みづゑ』第七十四
明治44年4月3日

 四季は各何れとりとりに面白からざるはあらねど中にもわけて畫的なるは春と秋となり。春の初めに香の梅のいと清く細き小川の邊に匂へるあたりうぐひすの心ち好げにさへつる様などいみじら愛らしきものなり。
 既にして春色駘蕩の候となれば、櫻花はそよ吹く春風に綻び百花漸く開き或は黄菜の青麥の間を彩れるさま或はたんぽ、げんげ、すみれを始め山にも野にも亂咲きたるさまなど、誰か一日の閑を得て終日三脚片手に花を尋ねあるかんと願はざるものぞ。
 秋はまた、春の賑やかなるはなけれども一種肅然たる中にまたなんとはなしに面白きものなり、金風颯々たる日深山にふみ入らんか、紅葉は天津乙女の錦を織りなせるが如く、小徑の邊には種々の菌の清き微香を放ち、桔梗、かるかや、おみなへしの落葉の間に、打ち交りて咲きたる、或は白百合の品高う、谷間に打ち開けるさまのなどか人をして繪心を起さしめざる。
 春は艶麗にして豊富なり、秋は清廉にして、雅致あり、春の花秋の月に言はずもがな、春に雲雀、鶯の美音を弄するあれば、秋には鈴虫、松虫の清音を發するあり。春に青々たる麥の茂れるあれば秋には黄波たヾよばして稻の稔るあり。春におぼろ夜あらば秋には清澄たる水あり。かく春に優るあれば、秋に勝れたる風景あり。春に勝れたる風景あれば秋には勝れる彩色なり。
 されば春と秋とに於ける畫的の優劣はなかなかに言ひがたかるべきか。

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