風景畫法 位置

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第七十五
明治44年5月3日

 好い位置は到る處に澤山あるのに人が態々惡るい位置を目懸ける様なのは不審に堪へない。曲り角を廻はれば直ぐ好い位置はあるものだ。只だ之が眼に見えるやうになれば宜い。元來位置に就ては別段定まった法則と云ふ様なものも無く。よし有つたにした處が一と通り出來上つた人には効能は薄からう。在來の畫論では主として解説的になつて居るから。之に依て悪るい位置を避けることは出來やうけれども人を驚かす様な好いものを拵らへることは六づかしい。之では各人特有の妙味と云ふものが現はれて來ないから仕方がない。私の考では多少實際に役に立つ様な位置の法則は何れも積趣的と云はんよりも寧ろ消趣的の方であるから「ならぬ」で説いてくるのが一番よささうに思はれる。
 先づ第一に云ふべ、き大切なることは二つの書の中に二っの事柄を表はさうとしてはならぬ」である。謁には凡て興味の中心點と云ふものがあるから皆之に向て集中し之を引立てるやうに他を犠牲にするのである。其畫の中に別に面白い光景が現はれるやうなことが有らうとも之を顧ることなく。何處までも最初に表はさうとした其事柄を彌々確かりと表はすやうにするのである。實景には往々一の有様の中に二の同じやうな面白い箇處を見ることがあるが。此場合には別々に二枚の畫に之を表はすか左もなくば夫れは止めにして他の有様を畫くのである。之を兩方とも一枚の畫に入れやうとすれば二兎を逐ふものとなつて遂に失敗する。人は一時に一の印象より外は感ずることが出來ない。例へば實際に於て如何にも美し,い風景があつて之が静かな水流又は湖水の面に本物の景色よりも一層美しく其影を映して居るやうな場合は克く見るのであるが之を若し畫に表はさうとすれば失敗の基である。看者の眼に本物の風景と水面に映つれる風景と兩方に引かれるので何れからも充分の印象を受けることが出來ないからである。此種の畫題を巧妙に扱ふのは那威の畫家でフリッツ、タウローと云ふ人である。此人が水流を畫く時には。本物の風景の方は書の上部に只だ看者に共有様を思はせるだけに止めて眼を專ら水面の方へ引くやうに畫く。水面の美しい趣で充分に上の風景を想像させることが出來るから眼は少しも迷はない。
 一つの畫面中に二つの畫が上手に描いてあるやうなのは私も屡々見たことであるが。別々に見れは何れも立派な畫であるが一處にすると誠に拙たないものとなる。凡て人に示す事は見方に困るやうな曖昧なるものでなく一の事柄を取て之を明瞭に手強く充分會得の行くやうに表はし少しもお負けを付けめことである。余り安賣をするなと云ふことは商賈に限らず殊に美術に於ても禁物である。
 第二に云ふことは「畫が同じやうに二つに分かれてはならぬ」である。之は何故と云ふことは知らぬが畫が眞中から二つに分かれて居る様な圖柄は誰も好かない。それであるから。畫面の中央に地平線を持ってくるとか主要の物體を畫の眞中に畳くと云ふやうなことは止めなければならない。夫れならば地平線の位置ば畫面の中央から何程上が好いか又は下が好いかと云ふに。之は時と塲合で一様には行かないが。地平線を高く取つた方が圖の納まりボ宜いと云ふ格別の理由の無い限りは。毎も經驗する處では下に取つた方が宜いやうである。空を廣く入れると畫は立派に見えるものである。之に反し空を極詰めるか又は空を出さないやうな畫は恰も静物畫の僅かに進歩したるものとより見えない前に云つたタウローの水邊の景色なども亦此類の畫で。之は無論静物畫よりも數等上のものでばあるが併し矢張静物畫の部類に入れてあると云ふのは。描いてあるものが皆近くにある物體のみで深い趣がなく何等の感じも働きもないからである。
 空に趣向を見せる様な畫には地平線は低くないといけない。夏雲湧然として起る有様とか。雲間を漏れる夕日の影が室一杯に輝く様な有様とか。或は風に飛ぶ白雲の面自き有様などとは空が主となるから地面は只だ横に筋を一本引いて置く位でも宜い。詰り暗く沈んだ調子を見せる様にすれば空の方は明るくなって空氣が現はれて來るのである。
 「見ても判斷に苦しむ様なものは畫いてはならぬ。」自然に在るものだからと云つて必ずしも之を畫に入れなければならぬと云ふ理屈はない。畫の方は即ち美術である。自然を尊敬し又た深く之を愛するのではあるが併し自然に拘束されてはいけない。殊に滅多に見られぬ様な光景で畫の傍に説明書でも下げて置かなければ人には分らぬと云ふ様なものは畫いてはならぬ。甞て佛國の老大家レールミッタ氏がサロンに出品すると云ふ大作を仕上げた時に。私は何と云ふ畫題にするのかと尋ねた處が同氏は答へて。私には分からない畫題が入用の畫杯は畫くべき筈のものではない。君は之を何と付けるかと云つたことである。畫題が仰山であると反つて可笑しい。甞てロイァル、アヵデミーの展覽會で英國のコルンウオルの海岸の景色を畫いて其畫題に『フェニシヤ人が錫を採らんとて來りし處』と付けたのがあつたが之で其畫が別段好くも見えなかつた。
 「畫中の主要なる線が並ぶ様になつてはならぬ。」例へば山の脈が段々左の方へ上つて居るとすれば雲の配置は右の方へ上がる様に行かなければ面白くない。和蘭の如き平坦なる地方では地平線が全く平で。何も遮るものも無いと云ふ様な場合には。之に對照する爲めに雲の形を面白く描いて眞直ぐなる地平線を具合よく見せろのである。斯う云ふ譯だから空は畫家の爲めには寳庫である。空の模様は千變萬化であるから。少しも變化のない硬い地面に對照して。地面の線を具合よく引立たせ或は釣合を取る爲めに都合の好い様に空の方の線を變化させることが出來るのである。
 殊に注意することは「畫中の有力なる線が無闇に空の方へ出てはならぬ」之れでに折角の空も壊はされるから。斯ふ云ふことの無いやうに。水流とか山道とかの迂曲して變化のある線の方へ之を持つて來て具合よく收めなければいかぬ。一體斯ふ云ふ變化のある線の心理的の働きは畫では趣めて強いもので。之は誠に不思議と云はなければならない。
 以上述べた様な譯ではあもが。併し是等の規則や在來の畫論も都合に依つては時に之を無視せぬとも限らぬ。只だ一つ如何うしても變へることの出來ぬのは「一枚のカンパスへ二つの畫を描いてはならぬ」と云ふことである。一軒の家を二つに割らうとすれば遂に倒れて仕舞ふより外はない。併し私は甞て非常に好い畫を見たが。其畫の地平線は丁度眞二つに畫面を等分し。釣合は他の方法に依つて取れて居たのである。又た畫中の有力なる線が並び合つて居る爲めに反つて一種の美觀を添へるやうな畫も度々見たことがある。
 「畫面が混雜してはならぬ。」木でも山でも。呼吸も付けないやうに込み合はせずに皆額縁から相當に離して描くのである。斯ふした方が畫面一杯に描くよりも重味が付て又た大きい感じが現はれるものである。「他に關係のない不必要なるものを畫に入れてはならぬ。」畫の趣や美觀が增すでもなく。亦其爲めに畫の強さも感じも加はらぬやうなものは省いて仕舞ふのが宜い。
 併し位置と云ふことに就て何よりも先づ心得て居るべきことは。常に眼を大きく開けて周圍の有様を克く注意することである。最上の位置と云ふものは毎も自然の大膽で且つ豫想外の取合はせから出來て居るのであるから見付け出さなければいけない。(バーヂハリソン稿)

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