風景畫家リーダー氏

山宮充ヤマミヤミツル(1890-1967)

山宮允
『みづゑ』第七十五
明治44年5月3日

 目分が始めてリーダー氏の名を知つたのは、まだ郷里の中學に居た時のことである。丁度その頃、自分は畫に熱中して、毎日のやうに寫生に出掛けて夕方にはいつも自然の美に醉うて洸惚として我に歸るを常とした、「我生涯を通じて、恐らくは尤も幸福な時期であつたらうと思ふ。或日雑誌の廣告を見て、Nation's Pictureの一部を東京から取寄せた、この中に、Madam Ro-nnerやJohn Charton等と共にリーダー氏の優れた作のRe-productionがあつた。この畫は、Miss BallからCorporationbo seuthportへ寄與された"The River Running into Derw-entwater"といふので、英國ハイランドの自然を描いた傑作であつた。ー九月末とも思はれる晴れた日の靜かな午後、前景には、樺のやうな喬木の森が長く續いて、その下には淺瀬に水が白く碎けて潺々の音を立てる綺麗な流、背景には、例のハイランド猫特の穩かな程よい高さの山が斜陽の啓示的な光線に頂をオレンヂに染めて遠くへ連つて、その地平に合するあたりには、光ある斷雲が轉つてゐる。森の下の草地には羊が遊んでゐる、汀に近く腰を下して睦言かたり合ふ男女の一組も見える平和と安心、畫面に溢れる爽かな秋の日の情調が力強く感覺を刺戟してくる。ーー田舎に居て、これ迄泰西の傑作の寫眞をすら見る機會の尠かつた自分は全くこの畫に惱殺されて了つて、人間の技術がこれ迄精確に自然を模倣し得るものであるかと只管感嘆するのみであつた。
 これからリーダーなる名に自分に忘れられぬものとなつた、そして其後この人の作に注意を怠らなかつた。リーダー氏の畫の目分を喜ばしたのは、只單なるエギゾティックの匂の故では無い、或又幻覺的な豊富にして綺麗な色彩の爲でも無いらしい、何故ならば奚麼ものは、リーダー氏の作が殆んど欠いて居ると云つてもいゝからである。自分に取つて第一に嬉しかつたことは、氏の畫のスぺシアリティーとする處が、英國特殊の雄大壯美なハイランド地方の自然であつた事である、輙ち氏はローカルカラーを表現するNatiue painterだといふためである。いつもリーダー氏の畫に關連して思ひ起すのは、アーヴィングが「英國獵園の景」の透明優麗な描寫である。殆ど同じやうな立派さを以て、吾々の前に英國の自然を現してくれた二人の大なるアーティストに對して、自分は、何時も讚嘆と感謝を繰返すのである。
 それから氏の畫の優れてゐる所以は氏の自然に對する態度が奈何にも敬虔な處にある。似而非藝術家によくある小さなegoを外處にして自然と同化して啓示を讀まんとする藝術家に須要な努力ーこれは氏に於ては寧ろ本能であらうーが氏の作にによく表示されてゐる。氏の畫は、この故に、多くの他の風景畫家の作と違つて思想的である。普通空間的平面的であり勝な繪畫か氏て於て時間的、立體的である。氏の作が英國的で、至ってジミであり乍ら、賭る者をして強い力を感ぜしめるのは此故でなければならぬ。
 次にAustin Chester氏に據つて解説を試みやうと思ふ。
 リーダー氏の父は有名なる土木工學者で、兼て美術愛好者であつたことは、美術家となる氏に取って非常の幸蓮であつた。氏は父に從つて、よく寫生旅行に出掛け、十歳の時には既に變化多き自然を自由に寫すやうに成つた。"Art Journal"に據ると、この父子はWorcesterの家を立つて、よく、景色のいゝ、Se-vernの河岸に出掛けた。 そしてリーダーは、何時も父の側で面白さうに父の畫をかくのを凝視めて、父が一寸畫架を離れた留守に、チョイチョイ仕上の筆を加へることもあつたと云ふ。ベンジヤミン、ウイリアムス、リーダー氏は一八三一年に生れた。Worcesterのグラマースクールに入れられ、父は氏に自分の職業を襲がせる意向であつたけれど、氏には美しい徑や、農家などを寫すことが測量だとか設計だとか乃至水門の建造だとかより遙に面白かつた。併し氏は科學の方面でも可成に進歩して、グラマースクール修了の後父の役所に傭はれて一つ二つ水門を造つた。
 グラマースクールを了へてから、晝は父の役所で働き夜は圖案學校に通うた。こゝで、規矩を捨てゝ目の練習をし、是迄の全く機械的な製圖家の仕事が美術家的の仕事に更つた。二十一の時、風車場の建造に從ふ處であつたが發めて、アカデミースクール入學の試驗の製圖にかゝり、軈てアカデミーの學生となり?に新しい世界の空氣を吸ひ、新しい人となつた。氏は既うの前から畫を始めて居たので、入學の年にすぐ氏の畫が學校の壁に飾られたCottage Children Blowing Bubbles"なる畫を出して以來、氏は我が技能表證の長い途程に上り、此後毎年目録の全部が彼の名を以て埋められるやうに成つた。
 此時代リーダー氏の出品した繪を見ると、筆者の技能がまだ定つてゐない。"The Young mother"を見ても、氏が太くラフアエル前派の畫風に影響されてゐた事が察しられる。當時、ラフアエル前派の影響で全くの英國美術の容態が改まらんとして居たのである。併し乍らこの繪及氏の美術家の生涯に入つた初年の作數點を除いて、氏が觀察と表現の法は全く自然であつた。洵に、リーダー氏が自分と異つた趣味の標準に近づくことをも拒んだのは英國現代の畫家に就て稀に見る處である。
 當時人々は佛蘭西現代美術の創始たるMilletやCorotや Co- urbet等に引つけられて、佛蘭西に走り、彼等より、如何に自然に臨むべきか、如何に自然を抄萃すべきか、如何にして自然より繪畫たるべき要素を集成すべきか、如何にして充實した勇健な筆力を表し得るかなどゝ云ふ事を學ばうとした、又人々は色や陰影を分析研究し、光の量及その地方色との關連、近處にある物體の反射に依つて色そのものゝ調子に影響ありや、更に進んで、天候、季節、時刻、及場所の状態によつて光線と描寫の上に區別あること等の問題を論じてゐたが、リーダー氏は超然自己の道を進んで、日に日に堅く一般の同情を收攬するやうに成つた。
 同じく風景畫家でローヤル、アカデミー員なるAlfred Parson氏が數年前出版に成つたNotes in Japanといふ面白い本で次のやうなことを云うて居る。
 『畫家はよく凭麼詞をきく--繪は金になりませうね--と、丁度畫がゴルフとか鱒つり杯のやうな慰み事でゝもあるやうだ、成る程、風景畫家の生活は、長い長い休日のやうに見えるが、すぐ變つて仕舞ふ空だとか、凋んでしまふ花杯は骨が折れて、あれはどう描いたらいゝか、これはどうしたらいゝかと考へて心が疲れて了ふのである。』
 この言は事實である。
 そして畫家の尤も楡快なのほ、製作してゐる時ではなくて、感受してゐる瞬間であらう。美の意識が外界から印象を得た瞬間には、畫家はこれを自己の技能に依って表現しやうとする希望即製作活動が起る。此の時が畫家の最も愉快な時である。彼の胸の裡にに既に出來上つた繪を想像し情緒を不完全な色とかカムバスとかの媒介に依つて表現する困難と鬪はねばならぬことを忘れて了ふのだ。この情緒の表現と云ふことは、繪が完成した後だ、什麼傑作にも尚不滿が殘るのが常である。風景畫家なる氏は題を自然に借りるが、これ音樂家がそのfugeにmelodyを借りると同じdeある。そして音樂の場合と同じく、全體の調合奈何は、彼が藝術家的天分の有無を决することになるのである。吾々は同じm-elodyからして、音樂の比較研究を續けて、Beethovedの琴樂の雄大なのや"Mrs.E-nery Awkins"の輕妙なのを得るのである。
 

町カッシヤア筆

 畫家は各皆、景色に對する情緒を表現しやうとするのであるが、畫は詩と同じく、一に自然の默示を解する作者のオ能に據るものである。リーダー氏は確にこの才能を賦與された人である。
 或る藝術は常に他の藝術を助長せしめるものである。吾々か詩人の聲に直ちにPaletteの色を感ずる如く、畫家のCanvasにまた詩人の聲の響を聞く。Michael Angeloをして詩を作らしめ、Danteをして「天使を描く」用意をなさしめ、Raphaelを感激せしめ、所謂、"a century of sonnets"を作らしめ、Wor-(lsworthをして。
 Ah!then if mine had been the painter's handTo express what then I saw,and add the gleamThe light that never was on the sea or land,To consecration,and the Poet's dream;
 と歌はしめ、而して、BlakeやRosettiをして詩と畫の兩方に依つて思想を表現せしめたのはすなはちこの實證とすべきである。
 Shelleyの所謂、"unpremediated art"を自然に看るを得しめ、進んで美しき家を建築する勞働者と成らしめるのは、自然が藝術家に及ぼす影響に違ない。
 William Sharp氏が"Life and Letters of Joseph Severn"によると、Keatsは何時も自然の美に洸惚り醉うてあつた、そして鳥の歌、獸の騒ぐ音、綠色や鳶色の光線の影、高い花や草などを渡る微かな風の蓮動、靜かに流るゝ雲・・・・何でも彼の感覺を遁れるものは無かつた。放浪者の顏や身振り、女の毛髪の色澤、子供の笑顔、放浪者が尚道義的假面の陰に隱すアニマリズム、又帽子だとか、衣服だとか、靴だとかに至るまで、何か暗示を與へる場合には、彼の感覺にふれぬことは無かつたといふ。それから彼は些細なことにひどく感じた。彼が栗や樫の樹などの葉の間をとほる大氣の流れを「彼が木の間に湧き立つて居た」と書いたやうな場合、或は又遙か彼方の森を通して吹きすさぶ風の音を聞く様な場合には殊に胸をどゝうかすのであつた。潮! 潮!とうれしげに叫んで、階段の上に昇るか、道側の樹の枝に攀ぢるかして、風が牧場や穀物畠の上を過ぎゆく状をジツと看戍つ居て、風の流れが自分の周圍におし寄せて來る迄、身動きもしない。觀喜の色が現はれて目は輝き、森の奥の叫聲を待つてゐる野鹿か、飛立つ前に意氣揚々と四周を凝覗する若い鷲かなどのやうに、見えてくる。Keatsが畫を習うたら彼は確かに詩人にして又畫家たり得たに違ない。前に述べた彼に關する記事は直ちに畫家に適用さるべきものである。そして、彼が藝術家として、たゞ彼の藝術のためにも、世界が與へるあらゆる印象を受入れるために何時も心を開放しておくべしとの自覺を得てくると、詩人並に畫家の美に對する惑じが深まつて、感覺から情緒に進み、情緒から道義的及智的存在をすべて包容するパツシヨンに進むのである。」
 リーダー氏の心が自然の情緒的要素に對して如何に開放されてゐたかは、非常に透明なそして重々しい、莊嚴な夕暮の描寫を常とする氏の趣味が表示してゐる。
 夙に一八五五年のリーダー氏の作に"EveningーReturn tothe Homstead"がある。一八六〇年に"EveningーNorthwalesがあり、その後、"Still Evening""Au AutumnEvening in the Valley of Lledr""An Autumn Evening"AutumnEveningー.Barges Passing Lock on the Thames""A November EveningーCleaning Up After Rain""TheLast gleam""At Evening Time it shall be Light'"PaintingDay""An autumn Evening""The End of the Day""Th-e silent Evening Hour""Stiel""Evening""Evening""Evening Glow""A Golden Eve""Evenig's Last Glea-m""When Sun is set""At the Close of Day,when the Ha-mlet is Still"等の作を出したが、尤もよく知られてゐる作は、恐らくは"The Ploughman homeward plods hisweary way"であらう。
 どの畫にも皆作者が、今が世界の尤も美しい時だといふことを奈何に鋭く意識してゐるかゞ現れてゐる。リーダー氏は、自然が威風をまとひ、人間を懊惱より脱れしめ、人間をして、今し田舎にみちてゐる一種の宗教的荘嚴の中に醒めしめる時刻を好んで描寫するのであるが、又氏の賦質の中には、鋭い感受性を以て、自然の他の色々の状態を解する力がある。氏はTis,but I cannot name it,'tis the senseOf majesty,ande beauty,and response,A blended holiness of earth and sky,Something that makes this individaul spot,This small al iding-place of many men,A termination,and a last retreat.と云ふ様な感覺を持つて居る。
 氏の朝の景色を現はした畫には、"A fire Morning in EarlySpring""A dewy morning on the Mountains,Capel Curig""Morningーthe Banks of the Lvy O""The DAwn of anAutumn Day""A sunny Morning等がある。氏は又、"Autumn Afternoon,Worcester""Asunny Afternoon,North Wales""A Sunny Autumn Afternoon,North Wales"等の作に於て午後の光を謳ひ讃へて居る。一八七三年には"ABright Night at Goring"の印象を描いたが、氏の夢の畫で重きをなしてゐるのは"Thintern AbbeyーーMoonlight on theWye"てあつてCousinsの版畫で吾々にフアミリァーになつてゐる。此の畫は一八七二年Pall Mallのフレンチ、ギヤラリーに陳列されたのであるが、Art journalは評して、「今日或は明日の爲めに畫かれた畫ではなくて、圓熟した、レフアインされた、永久に殘るべき、老手の筆に成る無限の美の作」とした。氏は四季を分たず族行をして、"February Filldyke""AnHayfield等の畫を描いた。春の畫はおほむね佳麗で、"TheHayfield"や"A Sheepfold"に、"The Year's PleasantKing"が現はされて居る。
 夏の畫は非常に多くて一々掲げ切れないが、尤もよく知られてゐるのは、"English Cottage Homes""Worcestrs Cathedr-al""An Old English Homestead"等であつて、孰れもナシヨナル、ギヤラリーにある。
 ものの色移ろひゆく秋は、木の葉の蓊り合ふ夏よりも氏を引付けた。WorcesteshireやNorth WalesやStratford-on-Avon.やSurrey等の秋の畫があるが、孰れも調合の妙を霊盡してゐる。この調合といふことは、藝術に最要なるもので、この素質あることに於て現存の畫家中リーダー氏の右に出るものゝ無いことは前にも述べた處である。又リーダー氏の畫が一色刷に複寫されると他の風景畫家の畫に較べて遙かに魅力がなく成るが、これは色彩の美くしい調合に關するのである。併し氏の多くの線と、情調の調合、而もこの正しい調合は、色のある原畫よりも。一色刷の複寫を見る方が遙かに明に解る。
 リーダ看氏は實に、「自然に降伏し、自ら自然のさし出した高いstnbdardに達せんとの努力なくして自然を表現することが出來ぬ」ことを覺つた第一人者である。
  A happy,genial influence Coming one knows not how nor Whence氏を賞讃する人々はこれを疑ふことが出來ない。そして、氏は卒直といふことに藝術家の強い力が潜んでゐることを堅く信じて居る。
 以上の抄譯で大概云ふべきことか盡きてゐるが、尚少しく自分の威想をつけ加へて稿を了りたい。
 要するに、リーダー氏の畫風は「前にも云つた様に、ジミであり謹嚴であるから、一見人付きが惡いが、或る深い啓示的な處があるために、親しむに從つて味が出てくるのである。單にこの點のみでも氏は優に偉大なろ畫家たる資格があるが、尚氏が郷土風景畫家なること、及常に時好に超然として自己の歩むべき途をあるいて來た堅實な藝術家的態度は、一氏の地位をして益重からしむるものである。自分は氏を以て英國が生み得た風景畫家の尤も偉大なる一人と云ひたい、そして氏を有することを英國は正に誇つてもいゝと迄云ひたい。
 氏の作の構圖はいつも驚くべく大きい。大きな平原の夕、廣い單調な海岸などを捉へて、巧みに調合して、平凡に陥らしめない。氏の作に尤も多いのは、やはり山と林と川のあるハイランド地方の畫である。昨年Royal Academyに出た大作ChurchPoolなどもこの類である。氏の畫は大下氏もいはれた様に、何處までも努力的である。
 丈學がSymbolismを要求する今日獨り繪畫がいつまでも空間的に停つて居るのは餘りに後れ過ぎてゐる。單なる感覺の満足から進んで思想的に成って欲しい。こゝに於て叉美術家の主觀擴充の須要を痛切に感ずるのである。

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