地平線について
欽
『みづゑ』第七十五
明治44年5月3日
五月は薪綠を畫くべき月だ、薪綠として感じのよい越ケ谷附近は少し季節が遅ひ。相模川多摩川の浩岸も面白いが、今度は少し遠方ではあるが、日光方面を案内しやう。
日光の秋に天下に其美を知られてゐるが、日光の晩春初夏の壯觀はあまり語る人が無い。五月初めは日光町附近がよい、まだ八重櫻も咲いてゐるが、樹々の若綠りは大谷川の水に映じて美しい。中旬頃は馬返しから先、中禪寺湖邊がよい。華嚴の瀧あたりは八汐花の盛りであらう。下旬には、戰場ケ原から湯本邊がよい。湯本はまだ山に雪があり、漸く一重櫻の吹き初めた時分で、新綠の感は乏しいが、それでも湖邊には靑い水草も見えやう。石楠花も咲いてゐやう。新綠と一口に言へど、綠ばかりでは無い。春の芽の美はしき、紅の色もある、黄もある、萠黄もある。樺もあれば朱もある、紫も茶もある、それが、何とも言へぬ軟らかな感じで萠え出る有様は、色彩に暖か味があり、調子に落つきがあり、研究の材料としてにこれに上越すものはあるまい。
日光の宿は、小西神山の立派な家には及ぶまい、談判すればいくらでも泊めてくれる宿屋に、鉢石邊に澤山ある。少し長く居やうといふのなら、橋を渡つて日光ホテルの近處へ往けば、下宿をさせてくれる家がある。紹介があれば寺でも置てくれる。
馬返しの蔦屋はよい家で、吾々には特に親切にしてくれる。中禪寺では泊つたことは無いが、湯本には會津屋板屋など、何れもさして高くは無い。
日光では、稻荷町あたりの河原から、赤薙山を寫すがよい。形のよい山で、この河原から見るのが一番よからう。瀧の尾も杉を寫すのによい處だ。馬返し邊は、大水以來畫材が少なくなつた。劍ケ峯邊には、道端に面白い樹が多い。華嚴は繪にならない。大平の深林は面白い。こゝ迄來ると白樺がある。湖水は、中禪寺よりも湯の湖の方が遙かに神秘的で良い。男體山を戰場ケ原から見た處も、立派な繪が出來やう。湯本の奥に小さな悽い湖水があるとの話だ、一人では長く居られないといふ。何れにしても日光は畫材に富むでゐらから、失望して歸るやうな事はあるまい。