日記抄

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第七十五
明治44年5月3日

 東京府主催の觀業展覧會を池の端で見た。総數二百十五點の西洋畫のうちに、水彩は僅かに十四點を數ふるに過ぎない。油繪には和田英作、中澤弘光、東城鉦太郎、パステルに岡田三郎助、水彩には石川欽一郎、南薫造等の諸君の出品もあるが。あまり力の入つたものとに思はれない。西洋畫が五百點も集まつたと旅行中新聞紙上で知つて大に樂しみにして居たが、これでは去年よりは增しといふだけて、多少失望の念を抱いた。猶その上私をして不快に感ぜしめたのは、其陳列場が、美術部として區劃されてあるとはいへ、傘や下駒を並べた同一館内に在つて、觀工場風に順路を通りつゝ見るといふのであるから、展覽會へ徃つて繪を見たといふ心持がしない、博品館の二階を素通りした時と同じ印象であつた、如斯取扱は、啻に美術品の神聖を害するばかりでなく、觀者に快感を與へず、筆者にも不親切ではあるまいか、是ではよい繪も惡く見える、今後若しこのやうな會があるならば、美術品だけは別館に陳列するやうにして貰ひたい。
 東京府觀業展覧會の、徒らに複雜なるに比して、金工協會の展覽會は、陳列方法も整頓してゐるし、参考品にも珍らしいのがあつて大に快感を覺えた。
 夜分竹の臺茶話會の幹事會に臨み、晝を欺むくアーク燈の下に落花を踏むで家に歸つた。(三月三十一日)
 第一高等學校の山宮君からの手紙に、(前略)リーダー傳『みづゑ』に御掲載被下候はゞ洵に滿足に存申候。一人でも多くリーダー氏の如き摯實敬虔なる藝術家に就て知る人を得るを得ば、小生に此上なく滿足にて、又小生の小なる努力は充分の報酬を得ることに可相成候(中略)
 藝術家にオリヂナリチの必要なるは申迄も御座なく候へども、所謂この天オ者は百年にして一人千年にして二人之を覓むべきものと被存候につき、少くとも私共は、高山博士の説の如く、摯實と敬虔とを以て藝術に對したきものと存じ候、此意味に於ても、リーダー氏の敬虔にして努力的なる態度は、吾等の以て範とすべき處と被存候。ホイッツスラー氏の如きイムプレツシヨニズムも洵に面白く候得も、决して一般の巵從を許さゞる處、以て範とするに適したるものと存せられず候(下略)
 リーダー氏の繪をローヤルァカデミーのカタログによつて寫眞版を通じて見たのは十數年前である。當時其搆圖の壯大にして其筆致の精密なるに少からず敬服してゐた。後年ロンドンのテイトギヤラリー又はアカデミーに於て、親しく氏の筆た接した時、其搆圖のいつも相似たる、其筆勢の強からざる、其色彩の沈靜に過ぎたる等、是等の上に私の期待の少しく大なりしを思はしむる程、滿足を感じ得なかつた。併し、飜つて英吉利の天然英吉利の風景を見て、更にリーダー氏の畫に對すると、氏は實に、眞面目に親切に英國のローカルカラーを畫面に寫してゐる。氏の繪が英國的である如く、畫かれた風景が英國であり、氏自身が英國人であることば爭はれぬ事實となつて、其繪に表現されてゐる、私はこの點に於て深く大なる敬意を氏に捧げざるを得なかつた。
 太李洋畫會展覽會委員會のため、夕刻豊國へ徃つた。外出嫌ひの無性者も、不得止出掛けなければならぬ。歸途電車の窓から見た江戸川の櫻は滿開で、堤の上には紅白の幕を張つていろいろの店が出てゐる、水上には紅い提灯つけた小舟がいくつとなく上下してゐる、新小金井の稱ある此地は年々其繁昌をましてゆく、今年は例年よりも四五日開花が早いとの話だ。(四月二日)
 『みづゑ』四月號の不足の原稿は、族から歸ると直ぐ書いたので、校正も終り既に本丈は刷上つた。然るに、石版を多くしたので、其方の校正が濟まぬ。五枚のうちの一枚は、どうしても思ふやうに出來ない、五色で刷上るのが八色かけても出ない、版を最初から改めると三度に及むだが、それでも出ない。『みづゑ』の發行が遲れるばかりだから氣ば焦つか、數さへ揃へば何でもよいといふ譯にはゆかぬ、更に製版師を代へてやらせるをにした゜この石版の原畫は、敢てむづかしいものではないのに、何故このやうに手數がかゝるのか、其理由は製版師の無能に歸するのてある。色彩あるを知つて、明暗の調子といふことを知らぬからである。一枚の繪の大きな濃淡を掴むでしまつて、まつ其印象を寫し、次に明ろい中の明るい色、暗い中の更に暗い色と、其明暗の大きな塊の中から刷り別けるやうにしてゆけばよいのに、最初から一局部にのみ偏し、徒らに色のみ似せやうとして、原畫では弱い色の上に弱い色がついてゐる場合に、弱い上へ強い調子の色を重ねるので、發色に似てゐても感じに相違を生じて來る、こんな理屈は墨繪を稽古すると分るので、この素養の無いものは製版師として一人前と言へない。
 繪も同じ理屈である、調子にオチッキの無いのは、明暗の研究が足りないからだ、初學者の反省を求めたい。(四月五日)
 『謙遜といふことは美德であるが、あまりに引込思案な人は將來の發達は望めない。内心相應の己惚がありながら、私の繪はトテモなンて展覽會に出すことを遠慮して見たり、批評會などに持つて來なかつたりする人間は、絶えず機會を捉へ損つて、一生のうちにはどれ程損だか知れない。私はヅゥヅウしく無遠慮な鐵面皮の人間も嫌ひだか、ス子たりイヂヶたりする人間も好もしくない。』
 『若い人は何でも積極的にやつたらよからう。技術ばかりでは世に立てない、其技術を人に知られる方法も考へねばなるまい人が自分をさがしに來るのを待つて、暗い處に小さくなつてゐないで、誰れにも見えるやうな明るい處へ立つてはどうだ、自分の力で自分の進路を開拓してゆくがよい』と、今日は若い人とこんな話をした。
 『大勢の中で默って勉強してゐる人はヱライ、自己の才分を賴むで遊び半分浮調子でやつてゐる人は將來が危ない、そんな例は是迄に數へきれない程澤山ある』研究所で繪を見た時こんな事を思つた。(四月六日)
 山岳會晩餐會で神田の多賀羅亭へ徃つた。小島氏が見えないので大に寂寥を感じた。
 久留島子爵に、故五百城氏の描かれた山草の大幅を持つて來られた。これと同じやうなものは、嘗て本郷の松平邸で見たことがある。圖は信州白馬岳の頂上で、精密に數百種の高山植物が畫かれてある。ある人は邪道に入つてはゐまいかと言はれたが、説明的ではあるが、粧飾畫としてこんな風もよからうと思つた。子爵はまた、花のある高山植物の幾鉢かを齎らせられた。中に姫石楠花がある、山にあるものよりは其花の色か少しく淡い、これを見ると尾瀬ケ原が急になつかしくなつた。
 田中子爵が、昨年信州澁温泉の奥大沼の研究に徃かれた時は、連日の雨で通路が無い、半身を水に浸して漸く水深を量つたが、とても研究を續けるとが出來ないので長野へ下つた、すると間もなくあの大水であつた。其後同地方へ往かれた梅澤氏の話によると、古來より石一つ入れぬ神聖な大沼へ、東京から田中といふ人が來て鐵を投込むだ、それでこんな大した事になつたと大に恨でゐたといふ。田中子はこれをきいて苦笑してゐられた。研究と名のつくものは何でも困難が伴ふもので、山中の湖水などを調べる時は屡々村民から苦情があるといふ。繪は要塞のほかにかゝる迫害を受くることは無い。(四月八日)
 展覽會カタログ委員會の爲め太平洋畫會研究所へゆく。會する入々の話に、近頃洋畫の研究生は不眞面目の分子多く、東京美術學校を始め、各所の研究所にてもこれ等のデカタン學生の處分に苦められてゐるといふ。幸に水彩畫研究所にはそのやうな人物は一人も居らず、それらしき傾向の人は早くから斷るので何の心配も無いが、兎に角藝術に携はる若い人達の問に、近代人とか近代的とかいふて、趣めて個人主義の、ある意味でいふ弱い人間の多くなりつゝあるのは事實に近いやうである。
 繪に就く靑年の多くは、感情のみ高くして意志が弱い。美術學校でも研究所でも、他の學校のやうに規則的ではない、教師も絶えず側についてゐるのでなく、また修身道德の向上に關して何等の制度も無い、從つて生徒自身は少しも拘束を受けない、このやうな人達の集まりであるから、若し監督者に相應の權威が無かつたなら、どんな放埓な事を仕出來かすかも知れない、現に寄席藝人に伍して高座へ上つたとか、モデルの家から學校へ通ふとか、聞くも厭ふべき話が折折耳に入るのである。
 西洋畫は現時非常に隆盛であるが、その西洋畫を學びつゝある靑年が、このやうに堕落しては、やがて世人に顧みられぬ時代が來はすまいか、此際先輩諸君は、大に心して後進を誤ることなきやう、親切に導かれたく、學生自身は、大に行動を愼しみ、輕薄なる意味でなしの眞正の自覺を勸めたい。若し此儘で進みゆくのなら、私は洋畫界の前途を悲觀せざるを得ぬ。(四月九日)
 三宅克己氏を柏木の邸に訪ふ、外遊一ケ年間の製作三百餘點、其大半を親しく見ることが出來た、繪は大ならざるにもせよ、また密ならざるにもせよ、これだけの多數を製作された其勤勉と熱心には、まつ第一に敬服せざるを得ぬ。
 氏は勉めてローカルカラーを出すべく、繪の上に自己の作意を加へざりしといふ。この言によつて、一覽の上感じたことは、各地方各々特有の色彩調子を有すること。自己の趣味に投じた揚處が傑作を多く出すこと。境遇が人を造るごとく、場處が繪を造ること。日本と英吉利と風景のよく似てゐること。日本の風景の色や調子の貧弱なること。西洋で畫いた繪が旨くつて日本で畫くと拙いといふ批難を、是迄よく聞いたが、實は空氣の相違材題の相違で、其人の技倆に大なる關係のないこと。歐洲の景色は空とよく調和してゐること。そして建築物を多く畫かれた點より見ると、山水の風景はあまり日本人の興味を惹くものが無かつたのであらうかと思つた。
 氏は各國を廻つて來たが、日本程水彩畫の盛むな國は無く、また日本の景色ほど水彩畫に適した處は無いと思ふと言はれた。私共の理想は、やがて現實となって來る、その時期は今より遠くはあるまい。(四月十四日)

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