寄書 三越洋畫展覽會を觀て

富岡洗帆
『みづゑ』第七十五
明治44年5月3日

 雨で寫生に行けない日を利用して三越へ行つた。會場は例の店の奥なので、僕等のやうな書生は下足迄預けるのを一寸氣兼に思ふ。光つた板の間へ泥足の形が付はすまいかとぬき足して上つた。太卒洋畫會の出品丈けに水彩畫が多い、それに小豆島の寫生畫があるので錦上更に花だ。油繪水彩と見に行くと、大下先生のがあつた『麓』と、處で僕が「これは『みづゑ』に出て居たよ」と同行のM君とS君に云ふ、二人共『みづゑ』を見て居ないので。外國人が二人觀に來た、早口に何か云つて氣に入つたのが無いのか急ぎ足に行つてしまふ、僕は赤城氏の『午後四時』藤島氏の『銚子海岸』瀧澤氏の『雨后の夕』等の前で、さつきの様な事を繰かへした。S君は『みづゑ』を持つて來ればよかつたね」と云ふ、「どれが出てるか知らなかつたから」と云つた。?雨の故か見に來る人があまり無い、鹿子木氏のクレオンの西洋婦人があまり好いから寫してやらうと思つてスケッチブツクを出すと、後から足音、吃驚して見るとS君である。隣室からパチパチと算盤の音がして居る。雨はまだ止まない樣だ、二三回も見まはつたので歸つた、今日は寫生にも行けなかつたが、より以上益する處があつた、僕は三越呉服店が、自巳の營業に有利の爲であるにもせよ、斯道不振の當地に毎年斯かる催しあるを喜ぶ者である。

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