瀬戸内海

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第七十六
明治44年6月3日

 大阪前記
 梅田驛に汽車の停まつたのは夜の八時過であつた、ホームへ下ると去年來お馴染の岡本さんの顔が見える、商船會社の方が二三人、大阪毎日新聞の方が五六人、日本水彩畫會大阪支部の北山さん、ほかに二人ばかり顔知らぬ方も來て居られる、皆さんは吾々を迎へられるため態々御出になつたのだ、御禮をいふ暇もなく俥に乗せられて、堂島の魚岩といふ料理屋に連れてゆかれた。
 昔し昔し自分が初めて大阪へ來た時は、俥はカタンカタンと隨分エライ音をさせてゐたものだッたが、其後音だけは無くなつた。併し不相變發條が強く、隨分乗り辛いものであつた。今ではゴム輪が多い、大さう進歩したものだと思ふ、この上ふところを廣くしたら申分は無い。
 魚岩樓上で女の聲をきく、まだ耳に馴れぬので言葉が異樣に響く。女主人の、絹のべて席畫を請ふに、誰れも起つものがない、宴に待する仲居に剛の者が居て、まづ手とり足とり未醒子を引張り出す、この筆法で二三人引出されて、否應なしに筆を執らされた。
 魚岩の床の間は氣に入つた、懐ろが一間もある、美人畫の懸物に彼岸櫻の生花、天井裏からの電燈はよい思ひつきで、朧ろに花をてらす風情は月下の感があつてよかつた。
 小西といふ宿は、ヂミな落ついた家だ。こゝの女中も中々氣が強い、お上りさんは屡々譴突を喰ふ、『おい姉さんこれをいわへるのだから何か紐をくれないか』『それをくゝるのならこれでようますやろ』『もつと長いのは無いかい』『そない言ふたとてせわしうてあきまへんなア』連中は絶えず叱られ通しだ。
  大阪商船會社の倶樂部で、内航部の方々に逢つた。此度の旅行に吾々が大なる便宜を得たのは、此人達のお骨折だ、煖爐の傍で熱いコーヒーを飲むで、いろいろの打合せをする。室内を見巡はすと、玉突の臺もある、碁盤も澤山ある、月並ではあるが、吾々の倶樂部にもこんな設備はあつてもよいと思ふ。
 暫らくすると川口方面を寫生しに往つた連中が、二三歸つて來た、俥で川口の先迄乗廻さうと思つてたのに、車夫は會社迄だといふて應じない、こゝでもお上りさんは少なからず嚇されて、手近でスケッチを濟ませたといふ。但これは先方が惡いのではなく、俥を雇つた人が、大阪の車夫を馬鹿にしてよくも極めなかつたからだらう。
 大阪の三越では、四月一日から太平洋畫會の作品展覽會を開くので、その下見分に往つた。店は東京の四分の一位ゐしか無いが、よく整頓してゐるし、お客樣も大入で繁昌の樣子だ。晝飯を上げるといふので、日本ホテルといふのに往つた、叮重な御馳走だ、シヤンペンを抜いて一同の健康を祝してくれた、あまり詰込むで今夜の船に酔つては耐らぬと、差控へた人もあつたらしい。
  神戸
 京都に博覧會のあつた年、この地も見物した。歐洲から歸つたおりには、こゝで二晩泊つた。廣島に遊むだ時には、尼ケ崎に用があるので、神戸驛で汽車を下りたが、阪神電鐵の停車場の遠いのに困つたこともあつた。近くは去年小豆島へゆく時、三ッ輪の神戸牛で、一行には滑稽な印象が殘つてゐる。
 揃つて湊川神社に參詣する、不相變賑やかだ、活動寫眞館の立派なのが目につく。彌次り屋の未醒君は、新加入の審也君を保險會社の勸誘員、南浦君を鑛山技手と綽名をつけた。あまり遊び廻つたので船の時間が氣遣はしい、停車場から俥に乗る、一臺金九錢五厘也。
 吾々の乗るべき香川丸は、桟橋に横づけになつてゐる。香川丸へは、去年高松から歸る時に乗つた、よい船だ、乗客本位だから室も整ふてゐるし、運動場も廣い、汽船特有の厭やな臭氣もない。
 未醒君は早速輪投げを始める。中々入らない、彌次りやが多いからいよいよ入らない、併し練習の効は爭はれぬもので、終には八ッの輪を四ッ迄入れるやうになつた。南浦君もやる。審也君もちよつかいを出す。八郎君は去年の失敗を取返さん勢で熱心にやる。今日は海上卒穏と見込をつけて、一同は大ハズミだ、甲板の上を跳廻てゐる。
 三時を過ぐること四十分、船は錨を揚げた。穏かな波の上を辷るやうにゆく。和田の岬はあれだ、あすこが須磨寺、あの屋根は住友の別荘、須磨花壇に敦盛の墓、一の谷鵯越はあちらでございと、春河君の説明振は、活動爲眞のそれにも似てゐる。景色は漸く動いて、ゆき違ふ眞帆片帆の數繁く。
 須磨舞子といへば音にきこえた名所、その名所も、近年は大きな別荘に破壊されて、たゞの海岸と異りはないが、海から見たのでは、鐵拐鷹取と、背景の山も面白く、ホテルのペンキ塗りも畫中のもので惡くはない。それよりも西の空、淡路島山うち霞む、夕暮の風情はまたなくよい。黒き帆、白き帆、鏡のやうな水にうつりて影ながく、吾等の乗れる船は、之を亂しつゝ進みゆくので、この變化ある眺めは、陸上では得られない。空ややくもりて、風の寒きも厭はゞこそ、くれゆく景色を見捨てかねて、ボーイがお茶によびに來ても、誰れもサロンへ下りるものはなかつた。
  高松
 夜の九時半、紅き青き燈の、水にうつりて美はしき、高松の港に船は着いた。桟橋に下りたつ間、デツキから見下すと、三等客目あての、菓子や果物賣る商人の、提灯の光あかく、蜜柑林檎にさす火影の彩りは、またなく面白い。
 畫嚢を肩に、三脚を携へた未醒子、まつ棧橋に出れば、吾が寫生團よと、見當つけたる出迎の有志の面々、忽ち四方から取まいて、御苦勞さまで、市長がどうやらでと口々に挨拶する、こんなこと大嫌ひの君のことゝて、ハアハアとばかり、段々尻込して、今一歩、棧橋を踏外して海へ落ちさうなり。
 高松で誇るべきものは栗林公園である。面積十六萬坪、築山もある、池もある、嶋もある、橋もある、樹木の多くは松で、やゝ單調の觀もあるが、手入がよく届いてゐるので心地がよい、背景としての紫雲山は、形のよい山で、これあるがために、此園をして數倍の美を增さしめる。
 表門から左に、梅林橋あたりから、北湖の後嶼といふ島の方を見た處が面白い。此島にある五六の松は、其幹の色に趣がある。更に進むで、掬月亭の前、五葉松のほとりから南湖中央の楓嶼を見るもよく、池を一週して、偃月橋を渡り、橋畔かち大女嶋を見ても畫になる。
 池の水は清く澄むでゐる。掬月亭の縁側から麩を投けると、澤山の鯉が集まつて來る、紅いのも黒いのもある。池に浮ぷ二羽の白鳥は、鯉と餌を争ふて、鯉よりも速く啣へて逃げる、入り亂れて麩を逐ふありさまは子供ならぬものにも興ある眺めであらう。
 此池に居る鯡鯉は珍らしき種類のもので、千金にても得難きがあるといふ。いざ千兩に買ふかと、鯉一尾を掴み出したとて、誰れも相手はあるまいが、兎に角それ程に珍重さるゝ尤物が居るのだらう。元より禁漁ではあるが、内しよで鯉を釣るのには、太い竹筒を通して針を流し、魚がかゝうと、水中に筒を入れて引上るのだと、こんな經験のあるらしい人が話してくれた。
 物産陳列場のうしろへ廻ると、蓮池がある、荒れた池がある、冬は鴨が澤山下りるので人を入れねといふ、荒れた處に面白味がある、南の園はあまりに人工的だ、この北の園は自然の俤を存して置きたい。
 明治の初めには、此公園全部を、僅か五千圓で市人に拂下げたさうだ、松を伐り石を賣つたが、中々租税にも足りないので、持あまして、更に縣廳に買上を願つたといふ。いま此池に居る鯡鯉五尾で、此十六萬坪の林泉が買へた時代もあつたかと思ふと、妙な感がする。
 公園の裏門を出ると小流がある、古雅な石橋がある、何やらのお宮がある、桃の木や柳の木がある。右の方は紙漉場の古建物で、土管を丸太で支へた煙突が立つてゐる、溝の上には箱やら桶やら並むで、男女の工人が紙の原料を洒してゐる。軒下には幅の廣い板が行列してどこ迄も續いてゐる。其板には、眞白なのや。まだ乾かぬ鼠色の紙が、二枚三枚づゝ行儀よく貼られてゐる。水に近い空地には、緑りの若葉がまばらに生へて、茶色の鶏が二三羽餌をあさつてゐる。松があれば石があり、築山があれば泉水のある、極まりきつた公園から出て、此裏門のあたりを見ると、何だか解放されたやうで、氣がのびやかになる。『こりやァ面白い、こゝで繪巻物を作るのた』と、未醒君は大喜びだ。
 高松には城の櫓が殘つてゐる。高松城といはずに玉藻城とよぶさうだ。天守の跡は藩祖を祀つた社が建つてゐる、荒れてはゐるが境内は廣い、繪の出來さうな處もある、開放して士民の運動場にしたらよからう。
 夕飯の濟むだ後であつた、新常盤で一杯あげたいから來てくれと、市の有志のお招きである、その儘でいゝといふので、旅なれば御免を蒙らうと、宿屋のドテラの上に羽織を借りて着てゆく。いくら高松第一の旅店でも、貸勿織までの用意は無い、御主人のもあらう、番頭さんのもあらう、さすがに女物をまぜずにどうやら數が揃つた。黒の五ッ紋のいかめしいのや、大名縞の意氣なの、大島の人柄なの、何とはなしに手當り次第に着込むだ。ユキの短かいのも、タケの長いのもある、可なり面白か體裁だ。
 新常盤は寺院の跡だといふ、縁側が馬鹿に高くて少々陰氣臭い家だ。高松美人が四五人來てゐる。盆踊りの所望がある、仲居達も交つて七八人、三味の音に連れて舞ひ出した、素敵なものだ、凄いものだ、手振り腰つき、頗る刺激的で、長く見るに耐えぬ、しなやかに輕く無邪氣なものでなくて、面白いといふよりも恐ろしいと言ひたい。
 拳を鬪はす人、唄うたう人、座は亂れた。サイダー黨は氣が利かぬ、一足お先に御免を蒙つた。
 旅店角田は理想的の家だ、取立てゝ何處がよいといふのではなく、萬事に行届いてゐる、次の間の机には、料紙もあれば硯もある、紙切小刀から糊迄備へてある、頼むだ用事は直ぐ便ずる、召使の氣の利いてゐること無類で、料理は高松中で一等だといふから、申分のありやうが無い、こんな宿屋なら、いつ迄も泊つてゐたいと、我儘揃ひの一行も充分滿足してゐた。
 高松では、酒の肴を少し宛皿に盛つて、前のを平げた時分に順次に持つて來る、膳の上は淋しいがあとが樂しみた。
 飯蛸といふものを始めて食つた、東京にも在るが試みたことは無い、何だか無氣味で好もしく無い。
 鯛はこのあたりの名物で、四月になると小槌島のあたりで網にかゝる。多い時は、圍ひ網に入つた魚の上を歩行けるといふ、それこそタイしたものだ。
 梧東彫の塗物は、此地の名産として誇るに足るものであらう。
 京阪に近いだけに都雅の趣きもあるが、一體に消極的の處らしい、市中も靜かだ、定めて人氣もよいのであらう。
  屋島
 春雨のしとしとと靜かな朝、俥で屋島に向つた。高松の市中を離れると、青柳の淺みどり美はしき橋の袂に出る、そこを過ると間も無く屋島道に入る。
 幌の中から前に見る屋島は、霧にかくれて其頂きが少しばかり、實に其名の如く屋根の形をしてゐる。用水溜の傍を過ぎると麓の村で、俥はこゝより先へはゆかぬ。
 道がわるいといふので、靴の上に草鞋をはく、靴が大きく草鞋が小さいからうまくゆかぬ、數歩にして片足を失ふのもある、曲りなりにも一二丁は着いてゐるのもある。どうやら頂上迄絡みつけて來たのは、二三氏に過きなかつた。
 道は思つたより急ではない。松林の間をゆく、屡らく登ると海が見える、霧が多いので高松あたりは朧ろだ、鹽田やら島やら、所謂雲煙の間に出没してゐる、わるくない景色だ。更に少し登ると茶店がある、こゝに不食梨といふ木がある、石梨の類で、弘法大師にやらなかつたから、翌年から食へなくなつたといふ、こんな傳説は、大師の徳を傷けるものだ。更に更に登ると、疊石といふのがある、層を爲して重なつてゐる處が奇觀だ、これより數町、終に頂上屋島寺に達するのである。
 屋島寺は八十四番の札所で、仁王門あり四天門あり、堂々たるものだ、仁王四天、誰れの作だが知らないが、共に佳い出來である。
 客殿に入つて寳物を見る。源氏の勝軍に村民が餅を搗いたといふ勝臼といふもの、眞僞は知らぬが虫の喰つた處が面白い。源平合戦の屏風は印象の深い繪だ。弓一張、これはさすがの八郎先生も引けないと仰やる。江漢筆の油繪もある。外國繪の模寫らしい。
 有名な雪庭を見る。石灰岩の平らに露出したもので、雨そほ降る今日のやうな日にば、特に感じがよい、淡雪のふりつむだやうに見える。前栽、熊笹のぬれた色もよく、垣に沿ふて咲ける紅梅も趣が深い。
  芳名録に名を書す。寶物よりも何よりも、此庭が佳いと書いた人がある。何れも賛成と裏書をする。翌日此處に登つた人子君は、雪庭は詰らないものですといふ、カンカンと晴れ渡つた日に見ては、存外詰らぬものかも知れない。
 寺門を出づると、前に可正櫻といふのがある、可なりの老木で、枝振は面白い。右にゆくと屋島運動場がある。更に進むで少し下ると、獅子靈巖といふのがある。岩の形が獅子に似てゐる、此處から見た景色が屋島第一だといふが、雨が降つてゐて下りられない、下りても霧で見晴しは出來まい。
 談古嶺といふのは東の方にある。前には五劍山が聳えてゐる。
 此山も雨か霧の日、さては朝早くか日の暮れ方に見るべき山で、花崗岩の膚に粗なる松林では色の落つきが惡い。下は壇ノ浦の入江深く灣入して、鹽田もある、用水池もある、鹽たく家、泊り舟、鳥渡繪になりさうだ。左の方を見ると、遠くは小豆島、近くに高島稻木島など、穏やかな海に臨むで眺めは惡くはない、前景にするものが無いので繪に畫くには困るが、登臨觀覧を目的なら、屋島はたしかによい處であらう。
 屋島の上には二三軒の茶屋がある、料理兼宿屋として高松可祝の支店がある、離れ屋五六、小座敷などもあつて、連込みで遊びに來る處だらう。一行は此處に泊る積りであつたが、繪を畫く興も起らないので、終に下山することにした。
 屋島にに屋島焼がある、可なり面白いものも出來てゐる。櫻花漬、蘭の花漬がある、後者はおつなものだ。平家蟹は壇ノ浦の名産、源平餅は牛皮が土臺で、都人士の口にも合ふだらう。
 一行の登山した翌日、博君と人子君が登つた。山麓潟元村役場に、案内さすべく、高松からの手紙を持たせてやつたら『勝手にしなはれ』との挨拶で、少なからず感情を害した、これは前日の一行が、繪も描かずあまり褒めもせぬので、附添の村役人の御機嫌に觸れたゝめであらう、この事あつて後、『勝手にしなはれ』との言葉が二三日流行した。
  王墓
 雨の中を屋島を下つた。屋島神社を左に見て、細い道を辿つてゆくと、水靜かな川の岸に出る、岸には鹽燒きの藁屋があつて、白い煙りがたち昇つてゐる、川には手褶のない橋がある、橋の上には傘さした人が往來してゐる、雨にかすむ五劍山は、背景となつて景を引締めてゐる、よい眺めだ、『佳いなア』と立停まる、ボケツトからスケッチブックが出る、三脚をひらく人もある、水筒に水を酌む人もある。
 

 柏屋といふ宿に着いた、二階の廣間がよからうといふ、時々村會を開くといふ五十疊敷程の座敷だ、障子を開けると見晴はよいが、寒くて閉口する、五十疊敷の一隅に七八人で、脚のとれさうな火鉢をかゝへて、小さくなつてゐる圖は繪にもならない。お湯が沸きましたといふ、浴衣なンていふ贅澤なものは無い、シヤツ一枚で風呂場へゆく、母屋を離れて一段高い處に小さな浴室がある、五右衛門風呂だ、底が浮き出したので始末に困つた人もあつた。
 税關が不潔だといふて、妙な顔して我慢した人もあつた。
 飯を盛る茶碗が眞黒で、感じが惡いといふ人もあつた。
 飯を盛る茶碗が眞黒で、面白いといつてゐる人もあつた。
 漬物が馬鹿に旨いといふて、幾度もお代りをした人もあつた。
 コソリと階下へ下りて往つて、内藝者をよむで藝盡しをやつた人もあつた。
 夜に入つてから風雨が烈しくなつて來た、障子が雨で濡れるので戸を締めさせた、強い風は忽ち二三枚の戸を吹飛ばして行衛不明、まごまごすると障子迄も飛ばされさうだ。ドツト吹く風、サツーツと戸をうつ雨の音、入り亂れて物凄い、みんな一處に集る、五十疊敷はいよいよ廣くなる、たつた二つの燈火では、隅迄も光りは届かない、そこに一人先に寝た審也君の小さな姿は、見すぼらしいものであつた。
 床を敷けといへば、たつた一ッ敷いて往つてしまうといふやうな、氣の利かない女中を叱り飛ばして、一同漸く寝に就いた。蒲團が足りないといふ、お二人御一しよに願へませんかといふ、一人でさへ狭い小さな蒲團に二人寝られるものかといふ、オイ枕を持つて來いといふ、何だかムヅムヅしますといふ、一タイ蚤といふ奴は今頃でも居るものかねと奇なる質問をする、ムクムクと起き出す人があるから、何をするのかと見ると、座蒲團を五六枚運むで來て敷蒲團の上に並べてゐる、よい趣向だか、眞似たくもあとに座蒲團が無い。風の音、雨の音、明日の天氣を氣遣ふ人、角田をヅクヅクありがたがる人、身體が痛い、足が出て寒い、なんのかんのと言つてゐる中に、かすかな鼾の聲もきこえ出した。
 神櫛王の墳墓があるので、こゝを王墓といふのだ。村端れに佐藤繼信の墓がある、名馬太夫黑の墓もある、平家陣屋の總門もある、屋島より此邊へかけては、源平時代の古戦場で、歴史の上に興味ある遺跡が澤山殘つてゐる。
  志度
 『吾が戀る妹はあはさず玉の浦に衣かたしきひとりかもねむ』と、萬葉集のその玉の浦は志度の別名だ。海に近く立派な町をなしてゐる。四國八十八ケ所廻りの、所謂お遍路さんがしきりなしに通る。
 町の突當りは志度寺で、阿波街道はそれから左へ曲る。寺は大して立派なものではないが、例のお遍路さんが澤山來るので賑やかだ。寺内には有名な海人の墓がある、龍宮から面向不背の玉を取らしたとか、此ほとりの海中から大蛤を引上げたとか、種々な傳説があるが、とに角墓のある處を見ると、何事か人の視聴を惹いた海人が居たのに相違ない。墓は晝なほ暗き密樹の下に苔蒸して、沈默を守つてゐる。
 寺の客殿に導かれた。庭は閑寂の趣があつてよい、廣縁に足を伸して、日なたボツコをしてゐる心持は何共言へない。阿波屋の主人が來て茶を入れる、茶碗の底にボタボタと頗る苦いやッだ、菓子を摘みながら番茶がガヅガヅ飲みたいなといふ。
 幸ひ住職がお留守だといふので、寶物拜見の難は助かつた、寫生一枚、こゝで晝食をすまして多和神社へ向つた。
 多和神社は志度町の外れにある。小高い處で眺望がよい。
 額堂には天狗の面が澤山懸つてゐる、傑作もある。
 神官松岡氏を訪ふて氏のコレクションを見る。曲玉、古印、石器の類をはじめ古文書なども數多くある。いづれも珍らしいものばかりでよい學問をした。
 多和文庫、藏書四千巻。これまた珍本のみであるといふ。文庫の中の珍本も結構だが、文庫の入口の庭の一隅は忘られないよい感じがした、低い土塀、小さな車井戸、二三本の蜜柑の木、地には一面に緑の苔が生へてゐる、石の配置も極めて自然で、時間があれば一枚描きたいと思つた。
 眞珠ヶ島といふのに往つて見る。こゝも志度から近い處だ、小さな出島がある、小笹の道がある、其下に僅かばかりの洲がある、昔しは島になつてゐて眞珠が取れたのだといふ、村の人が重い口調で案内してくれた、私達は島そのものよりも此案内人に少なからず詩興を覺えた。
 このあたり、五劍山を遠景にした景色は繪になりさうだ。
 『志度のおば剥ぎ』といふ諺がある。志度には遊ぶ人が多いのか、遊ぶ機關が完備してゐるのかどちらか知らぬ。『長尾の遍路剥ぎ』といふ諺もある。長尾とは何處か知らぬが、精進潔白のお遍路さんでも、見過して通れぬ處らしい。これは高松の掬月亭での話であつたが、全體、四國遍路の行者は清浄でなければならぬと或人が言ふたら、仲居の一人は、夫婦づれならどんなものでせうといふ、夫婦でもいけぬといふ、すると『しやアけどなア・・・道でなア・・・・』と、あとは言にずに笑ってしまつた。しやアげとなア』に高松の方言だ、此言葉は屡々同人の口より繰返された。『雨も降るまいよ――往かうぢやないか』『しやアけどなア――道でなア』
  津田
 津田の松原といふ名は四五年前から聞いてゐた、去年小豆島迄來た時も、時間があつたら寄りたいと思つてゐた。
 高松から六里、志度から三里、平凡の道を俥で走る。鴨部を過ぎると間もなく小さな坂がある、上りてまた下ると夢から醒めたやうに景色が一變する。
 下り坂のハヅミで車の走る事急、もつと緩つくりしろと叫びたくなる。道の兩側には千年の松の古本があつて、そこに建ち並ぶ家は、繪に畫くために態々作つたかのやう、頗る雅味あるものばかりた。黄なる土の塀には、砂糖黍の殻が山と積むである。形と云ひ色と云ひ申分の無い處だ、松原はどうでもよい、この街道だけて澤山だと思ふ。
 幾千本とも數知れぬ太い太い根上り松が、白く黄を含むだ廣い廣い美しい砂原に、枝を交へ幹を並べ根を絡むで生へてゐる、松原の間には汐入の小流がある、松原を透して穏やかな海が見える、其海には島もある、自い帆をかけた舟も通る、松原の後ろには山がある、其山は四時うす緑りに霞むでゐる。津田の松原とはどんな處かと人に問はれたら、これ以上に答へやうが無い。
 舞子は遠く及ばない、三保のやうに黑づむだ荒いものではない博多の千代の松原はまだ見ぬが、恐らく吾國に松原として津田以上の場處は無からう。
 津田の松原の貴い處は、たゞに其木の數の多いばかりではない、大なる爲めのみでもない、砂の美しい故でもない、實に此松原の生命は其處女的なる處にある。手入らずといふことに、吾等には最も嬉しく感ずるのである。いやなペンキ塗りの建札も無ければ、赤い毛布の茶店も無い、頭に白手拭のせた落葉掻きの、彼方此方に優雅な姿を見せるばかりだ。
 津田町の長者上野氏は、松原の一部に閑雅な別莊を建ててゐられる、晝はいつも此別荘で食事をした。主人は公共心に富むでゐられる方で、吾等のためにも少なからず便利を與へてくれた、早晩縣の公園として、松の枝一つ伐らせぬことにするといふ。松といふものは、根を露はせば益々勢よく、根に土をかけると忽ち枯れるものだといふ。町の入口のあのよい並木も、日があたらぬとか邪魔だとか言ふて、村人が年々故意に木を枯らすので困ると歎息されてゐた。
 津田にぼ娯樂的の設備が無いから、永くは飽きもしやうが、此松原を逍遙してゐたなら、たしかに命は延びやう。月の夜のいかに趣き深きことぞと想察される。雪は稀れに降るが、其眺めは一入であるといふ。
 旅店には掛鯛といふのがある親切な家だ。
 津田でば二枚の寫生を得た。急に冬が歸つて來たか風が非常に寒い、寒いけれど景色がよいので我慢して繪を描いた、終には雨になつた、雨でも畫きたい、どこか雨のかゝらぬ處は無いかとさがす。南浦君は一日に十二號を畫き上げやうといふのだ、風が冷たくても、雨がふり出しても、平氣でやつてゐた、とうとうパレットの上に迄瀧のやうに降りそゞくので、殘り惜しさうに中止した。
 翌朝高松へ歸る時、俥上より見れば、小豆島神懸山の頂上には雪があつた。
  琴平
 『名物はこちらにございます、おみやげを買つていらつしやい』『繪葉書は十枚五錢からあります、スタンプを押すのにに下から御持にならないと上には賣つて居りません、繪葉書をお持ちなさい』右からも左からも、同じやうな言葉を浴せかけられつゝ石段を登つてゆく、此石段の數はいくつあるかしらぬが隨分長い、未醒君は面倒がつて二ッ宛登つた、いくら往つても石段は盡きない、足が痛くなつて來たが今更一段宛登るのは忌々しい、大に反抗心を起して最後迄二段登りで通したさうだが、可なり苦しかつたといふ、詰らぬ負惜しみをしたものだ。
 社務所に入つて、主典宮内氏の案内をうけ寳物を拜觀する。去年參詣のおり、額堂に名畫なきを憾とせしが、それ等の目欲しいものは皆社務所の廊下に懸つてゐる、諸名家の筆もあつて見飽かぬ心地がする。客殿の装飾畫はいづれも近世大家の筆で、應擧のものも少なくは無い、一番奥の岸岱の筆になれる金襖は、快よき迄雄健に出來てゐる。
 琴平は景色として面白くないが、社務所の後庭から見た處は規模大にして振つた繪が出來さうだ。讃岐富士を通して、遠くは海も見える、春は麥浪草花に、秋は黄金色なす田甫の眺めは實に惡くはあるまい、月の夜は殊にと宮内氏はしみじみと語られた。
 社務所から人をつけられて金比羅社に參詣した、昇殿を許さるゝといふので階を上る、縁に座して白衣の神官からお祓を受ける、導かれて神前の薄き茣座の上に座ると、更に拍手再拜。
 金幣を執つて頭上に舞はすこと兩三回土器に、神酒はつがれる、恭しく頂戴して退く、容易に昇殿は許されぬものときくと光榮の至りであるが、何だか別世界に入つたやうで妙な氣がした。
 公園内にある備前屋の別荘琴平花壇に泊つた、靜かなよい家だ、庭を流れて小さな瀧となる水の音も嬉しい、これで電燈が明るかつたら申分はあるまい。
 高松といひ津田といひ此處といひ、床の間に生けてある花はまことに面白い、文人流とか聞いたが他の土地ては見かけない、投げ込み式の自然のまゝて、どれもこれも其儘靜物畫の材料になる。
 金比羅さまの名物に銘酒がある。飴がある。飴は特に有名で、天氣の惡い日には『金比羅みやげでまたアメか』といふ諺さへある、竹の皮包みの一つが五錢と十錢、その五錢の奴を、去年人子君が買つて汽車の中で開けて見たら、薩摩芋の切干のやうな、圓い薄いキタナイ飴か數知れず、そして粘りつかぬやうに糠が澤山入つてゐる、糠を叩いて口にして見ると、味も何もなく鉋屑でも噛むやうで、徒らに糠が口中を刺激するに過ぎないこれを東京迄持歸つた人子君は、誰れも食べないので犬にやつた、その犬も見向もしなかつたといふ厄介な代物だ。
 南浦君は此飴を買はうといふ、よしたまへと留めた、見ると厚い板飴を皮に包むでゐる、十錢の奴はあれだらうといふので三包を買ひ込むだ。
 親切な南浦君は、此飴を令夫人の許へ小包で送らうといふのだ、多度津の宿で試みに其一包を開けて見た、不相變糠が一ぱい入つてゐる、板飴の厚いつもりの奴が、包むである竹の皮よりも薄い、それでもどんな味かと一口やつた、旨からう筈がない、さアかうなると他人にも食はせたい、誰れを見ても勸める、何れも此樣子を見て御免を蒙る、南浦君は糠ではない豆の粉だ、まア旨いから鳥渡やつて見たまへといふ、席に居た藝者は『豆の粉ぢやアありません糠ですよ』と笑つてゐて手を出さない、南浦君は口惜紛れに、糠をはたきはたき千切つては口へ押込むが、さて一向捗取らぬ、終には兜を脱いて、殘念さうに宿へ殘して置た、これを糠喜びだといふて皆ンなで笑つた。
  善通寺
 善通寺は琴平の手前の驛で、列車は一時間毎に來るから、丁度參詣して次のへ乗ることが出來る。
 停車場を出ると廣い路がある、兵營の出來たゝめだといふ、元の道は西の方に附いてゐる、狭い横町には小溝があり、白壁があり、木のよいのがある、繪になる處の多い町だ。
 十二三丁ゆくと右へ曲る、そこが弘法大師の誕生地といふ、即ち善通寺である。
 變つた形をした惣門を入ると、右に五重の塔がある、左に大きな楠木があつて何やら祀つてある、金堂の前を左へゆけば、正面に本堂がある、お遍路さんは此處にも群をなしてゐる、昔しは此邊迄海であつたとか、今でも屏風ケ浦の名が殘つてゐる。
 

  多度津
 汽車の窓から見ると、多度津は詰らぬ處らしい、地圖で見ても面白い場處とは思へなかつた、さて親しく此地を踏むに及むで、存外變化の多い畫境の饒かなのに驚いた。
 案内されて稻荷山の傍から硯岡山といふのに登つて見る、此あたりの磯を筆の海とよむだので、山に此名があるのだといふ、山上の見晴しは素敵によい、屋島のやうな月並のものではない、もつと晴々しくもつと纒まつてゐる、鹽飽島を遠景に、多度津の町を見下して、あの松林を前景に、明日はこゝから繪を描くのだと、早速取極めてしまつた。
 讃岐は松の國だ、高松に名木として松の大なるものが何本もある、津田は言ふ迄もない、志度へ往つても多度津に來ても、樹といへば松ばかりだ、東京で名高い高田の鶴龜松や、根岸の五行の松のやうなものは、田の畔でも畑の中にでもある、それは何れも枝の伸びた葉の繁つたものだ、多度津硯岡山の松はいさゝか趣を異にしてゐる、ヒヨロヨロと高く伸びて枝が無い、葉が粗らだ。多度津は燃料に乏しい處で、里人は山に入つて松の枝を拂うのだといふ、これがために却て風情を增して面白い。
 波止場の近處もよいが、町中の入江に大小の舟が繋かつてゐる、その混雜のさまはスケツチの好材料だ。汐が干て黒い泥の現はれたところへ、小さな舟が着く、舟には紺の着物をきた若い女が十四五人乗つてゐる、これは惣嫁又は船饅頭といふので、夕方舟で運むで來て、朝はまた舟で連れて歸る、船頭さん相手の賣女であるといふ。
 東へ丸龜に近く萬象園といふのがある、海岸で深い趣は無いが、池もあり亭もある、女でも連れて一杯やるにはよい處だらうが自分達にはつまらぬ、此處からは飯野山も正面に見える。
 萬象園よりも、多度津から此處迄來る海岸の道は面白い、松原もある、漁村もある、砂の上の舟には網が干してある、其間から高見島が見える、護岸の石垣の上をゆくと、其下の淺瀬では貝拾ふ男女の群が動いてゐる、赤い褌の色は春の海によく調和してゐる、遠い沖合を淡く煙りを吐いてゆく汽船も畫中のものだ。
 

 屏風ヶ浦は松原續きの景色の美しい處、彌谷は『二度は彌谷』といはれる程登るに苦しみはあるが、眺望はよいといふ。未醒君の登山した日は、丁度接待日で握飯をくれるのだ、それを食べると夏煩ひをしないときいて、一つやつて見やうと思つたら、其處へ癩的らしいお遍路さんが來たので、恐れて廢めたといふ。
 『エー當節は警察が喧ましいので、十錢は十錢、五十錢は五十錢と、ちやアンと正札附で懸値は致しませぬ、角袖巡査が見張つてゐるから、金比羅樣でも安心して買物が出來ます』そんなやうな言葉が中庭一つ隔てた座敷からきこえる雨戸が無いのだから耳元で喋られるやうで喧ましい、電燈の光で時計を見るとまだ四時前だ。
 多度津の宿屋は店に大きな提灯を出して、金比羅參詣のお客を相手に商賣してゐる。夜の九時に着いた連中は、朝四時頃に出發する、そして其夜にまた船へ乗るのだ。團體相手の宿屋だけに行届かぬこと非常だ、頼むだ用事は容易に捗取らぬ、マゴマゴすると自分で飯までも盛らなければならない、靴が泥にならうと誰れも掃除してくれない、急にお客でも殖へた時は、材料欠乏で一品の料理さへ出來なくなる、仲居のお千代さんは一生懸命に奔走してくれたが、何分家の割に働き人が少ないのだかう詮方がない。
 支店主任の白石君が、多度津の參考品を御覽に入れろとの命令のもとに、集まつた體格のよいのが三人、お座持のいいのや、よく喋るのや、義太夫の上手なのや、連夜の騒ぎに隣室の客はさぞ迷惑であつたらう。飯を食ふと厭やな顔をされる、コツチも少々降參した。
 今治へゆく船の多度津を出るのは夜の十二時で、その日は晝のうちはよい日和であつた。丸龜へ往つて未醒君に、暴風の警報が出てゐると氣遣はしさうにいふ、此天氣でと思つてゐると、夜になつたら雨が降り出して來た、ピカツと光ると程もなくゴロゴロと來る、甚だ物騒な光景に、船嫌ひの一同はやゝ不安の思ひをした。
 船へ乗る時は風は無かつた、雨の中を傘さしかけて、參考品が棧橋迄送つて來た、大に光榮と感じた人もあつたらしい。
 景色の組立が、其土地によつて相違があるごとく、住人の骨格や顔面の構造など、それぞれ特徴のあるものだ。大阪には大阪タイプがある、名古屋にも仙臺にもそれがある、讃岐へ來て別に研究する迄もなく氣のついたのは、土着の人の鼻の低い、所謂團子鼻の多いことだ、希臘風の鼻筋の通つてゐる男女を、殆ど見ない。次には婦人の體格のよい事で、柳腰纎手、昔しの美人のやうなのは市中を歩行いてゐても眼に入らない。
  今治
 多度津から今治まで陸路をゆくと、讃岐には觀音寺町があり、其西の琴弾公園は、景色のよいので有名だ。伊豫へ入ると、西條が畫趣に當むだ處だといふ。闇から闇を船でゆくのでは、島の風景さへ見ることが出來ぬ。
 宿毛線のうちでも一番大きな厦門丸のことゝて、客室も立派だ、スクルーの音に夢は淺く、ウトウトしてゐるうちに今治へ着いた、まだ夜は明けぬ、出迎の人と共に旅舘順成舎に入つて再び枕についた。
 今治には、蒼杜川に近く城趾がある、吹揚神杜があるので吹揚公園とも云ひ、城を美壽賀と呼むだゝめ美壽賀城趾ともいふ。高い石垣、深い濠、石垣の上には櫻樹がある、濠の中には牡蠣が養殖してある、櫻の花は風景に乏しい今治人士の眼を娯しますによく、牡蠣は廣島にも勝りて味ことによしといふ。
 城内の一角に某氏の別荘がある、四方見晴しの眺望に富むだ處だ、此處から見た今治は煙突の市街だ、白綿ネルは其水質によるか、洒し方の巧なるためか、純白雪を欺くので評剣よく、年々多額の産出があるといふ。今治は山水の美を誇る京都ではなくて、活動の氣に滿てる大阪である。
 蒼社川は町の東にある。花崗石の砂の押出して來て、堤の外は山のやうに高くなつてゐる、水は河中に乏しく、砂に漉されて堤外に清き流れを作つてゐる、堤上の松原は變化に乏しいが、對岸の背景たる土佐境の山々に面白い。
 何處にも茶人といふものがあつて、いろいろな研究をしてゐる。この蒼社川の水は、橋の上流と下流では味が違ふ、また其水をくむ時、桶を流れに逆らつて汲むだのと、下流に向けて汲むだのでは、同じく味に相違があるといふ、上流がよく、流れに逆らつて汲むだのが茶の水として結搆であるといふ。
 海岸には低い松原がある、前に横はる島の影も靜かに、松吹く風の音もせぬ霧の多い日は特に感じがよい。この松原は何處迄續くか分らぬが、今治から二里、櫻井村には網敷天神の社が在り、立派な松原も在るといふ。
 今治から東へ二十餘町、近見村の港に桃山といふのに登つて夏蜜柑の寫生をした。土地の人達は、此山上から見る瀬戸内海、島々の景を天下に冠たりとして、吾々がそれを寫さないのを不思議がつてゐる、尤もの次第だが、景色は見てよいのと畫いてよいのとある、見てもよく畫いてもよい處はあまり澤山はない、海や島の眺望は見るのによい、併し是等の景色は此土地にのみあるものでは無い、尾の道邊から見ても嚴島邊から見ても同し樣な眺めである、吾々はむしろ其行先々の土地のローカルカラーを寫したい、讃岐では特有の且普通の松の木を多く寫した、伊豫では柑類の畑が面白い、白塀も面白い、瓦燒く小屋もスケツチブックのものになつた。
 今治と大島との海峡を來島ノ瀬戸とよぶ、大下島の先には大下瀬戸がある、大島と伯方島の間には宮窪瀬戸がある、大三島に近く花栗瀬戸がある、睦月島には睦月瀬戸がある、中國筋へゆくと笹岡の冲に狹瀬戸、鞆津にに阿武兎瀬戸、布刈瀬戸がある、忠海に三原瀬戸、竹原に桃瀬戸、猫島近くに猫瀬戸、音戸に有名な音戸ノ瀕戸がある、西の方下ノ關と門司ノ間を早鞆ノ瀬戸とよび、豊後水道を早吸瀬戸といふ、阿波と淡路の鳴門の瀬戸は誰れも知らぬものはない。
 瀬戸内海の名稱の因つて起りし譯はこれで知れやう、鳴門に次いで潮流の烈しいのは今治の來島瀬戸で、折抦滿潮のころ桃山に立つて見ると、風に逆つて上り來る潮は、沖に白波を立てゝ凄まじい、潮が滿ちて來ると、烈しい風の吹くのに海は平で雲の影がうつる、潮が退き初めると、衝にあたる島々の岸は、水が捲き上つて雪を吹いてゐる、いつ迄見てゐても飽くことを知らない、今治は好風景に乏しいのを憾むに及ばぬ、此來鳥瀬戸の奇觀一つで天下に誇るに足りやう。
 海上十五浬、大三島といふのには、大山祇の社があつて、寳物には有名なものがある。大三島の有志は吾々にも遊びに來てくれよといふ、今治の人達も一日同行して島で酒盛をしやうといふ、今治はあまり寫生する處は多く無い、これはと思ふ場處は要塞の許可範圍外である。高松で中國組に分れる時、何處かで一度會合しやうと約した、大三島は至極適當だと思つたから電報を出した。
 美壽賀城趾で晝食をしてゐる時、鞆津に居る中國組から返電があつた、「ケシキワルイヤメヨ」といふのだ、大三島へは二三日前人子君が往つた筈だ、人子君が景色がよいと褒めた場處で失望した例がある、人子君がよくないといふ場處は却つて面白いかも知れないと、妙な處に反感を起して、中國組は勝手にしなはれ、大三島で傑作をこしらへて驚かしてやるぞと、連中一同凄ましい勢だ。
 島へゆく約束の朝、早く起きて見ると、天氣はよいが風が吹いてゐる、五六十噸の小さな舟で、揺られることは望ましくない今更廢めるのも殘念だが、此風に往くのも考へものだ、『どうしやう』『極めたもンだから往かうよ』こんな問答をくり返してゐると、會社の人が來て、生憎なことで、大三島通ひの横須貿丸は修繕のために今日も明日も休みですといふ、それは困つたナといふたやうなものゝ、實は銘々内心大喜びであつた。
 風は午後になつて一層烈しくなつた、港の桃山へ往つた人達のうち、曳舟で歸つた二三人は、頭から潮を沿びて中途で上陸したといふ、往かなくてよかつたと、横須賀丸の破損を心から感謝した。
 歡迎會を開くから華山へ來てくれ、衣類は其儘でといふので、例の無禮講の、宿のドテラに羽織の借着、狭い町を幾曲りか會場へ乗込むだ、今治の町の代表者ともいはるべき紳士二十餘名、吾等を待受けてゐられる、やがて縣會議員某氏は、欝乎として蒼々たりなど、極めて荘重な挨拶がある、こんな筈ではなかつたが今更詮方がない、自分蚤不得止一場の答辭を陳べた『今治は諸君の愛郷心に對しては御氣の毒だが、吾々の目から見ては景色の上に格別注意すべきものが無い、乍併、景色の秀美ならざるは、やがて人をして事業に對して興味を持たすのであつて今治人士の活動振りは、吾々のやうな世外人にもよく分る、今治は益々此方面に發達すべし、同時に其勞を慰むべきものは、高尚の娯樂でなければならぬから、公園其他の設備を完うして天然美の不足を人工美を以て補ふやうにしたい』こんなことでお茶を濁して置た。
 未醒君は、酒豪と許されるかどうか知らぬが、酒の席の面白い人である、自身でも大に飲むで大に騒いて面白く遊ひたい人である、未醒君にとつては、このやうな席は多少窮屈の感なきにしもあらずである。然るに、半白の一老人が君に隣つて席を占めてゐる、老人は未醒君をよき談敵として頻りに話かける、『私は貴君方が氣に入つた』『私には丁度貴君位ゐの年の子供があります、子供の前ではあまリ酒もやれません』例のハアハアで無性に頭を掻いてゐるが、先方は一向お構ひなしだ、偶々お酌をと美人が前へ來ると、お盃を頂きたいと紳士方が美人を押退ける、未醒君はいよいよやり切れないといふ顔をしてゐる、酒の席で飯を食はれるより猶々苦しいだらう、『オイ痛くして且快よいナ』と冷やかすと、先生苦笑してゐる、終には我慢が仕切れなくなつたと見えて、盃を手にして席を離れてしまつた。
 此夜伊豫藝者の絃で伊豫節をきいた。
 旅店順成舎はキレイな家だ、新築の三階には後藤さんの額が懸つてゐる、去年の秋お宿をしたのだらう。縁側から見た海岸の景はよい、惜むらくは風が強かつたので、硝子入りの雨戸が閉切であつた。
 女中の綾さんは親切ものだ、『ちよつと待つて遣はされまし』との伊豫言葉が氣に入つた、土佐あたりでも言ふさうだ。
 今治の名物には鷄卵饅頭がある、小さいがよい味だ。市中の道路は狹い、よく車が代はると思ふ。『疊こしらへる處』といふご叮嚀な看板が出てゐる。『今夜より相撲見たりとつたり』の建札は振つてゐる。
  今治の港は船の出入の夥多しい處であるが、東風には荷揚か出來ない、會社の船も一里半先の波止濱に錨を下す、吾等出發の日も風があるのでどうかと危ぶんだ、せめてもう一日滞在しろと勸められる、よい氣になつて遊むでゐると、別府へ廻らずに歸らねばならぬ、波止濱へも往かう、俥で松山へ往つてもよいと決心は固かつた、幸に船に寄つた。
 蛸釣といふのは、波止濱の沖にある、九州から陶器を積むだ舟が沈むだ處で、章魚を括って底に沈め、やがて引上ると、一つの陶器を掴むでくるといふ。慶長の頃から海底に在つたので、錆がついてゐて面白い、今は殆と取り盡して容易に得られぬといふ。
 吾等の乗船、第十宇和島丸の甲板から來島瀬戸を見る。強い東北の風が吹いてゐるのに、湖上をゆくやうに靜かである。御手洗島の桃林を右に見るころから、船はローリングを始めた、馴れてしまつたので一同平氣だ、酒も飲めば飯も食ふ、興居島が見えて來たので一層元氣だ。『汀鴎君や南浦君が船に醉つたといふても人は怪しまないが、冒險世界に關係してゐるだけ、僕が醉ては何だか申譯がないと大に氣を張らしてゐた、まア是で安心した』と、未醒君は言ふ。
 十時に今治を出た船は、一時過に高濱の棧橋へ着いた。
  道後
 『靈の湯、神の湯、養生の湯などいろいろあります、まア神の湯から御案内しませう』と、役場の方に導かれて、宏壮な建物の三階へ上つた、キレイな座敷だ、女が浴衣を持つてくる、着換へて三階を下りるとそこに浴槽がある、廣い槽内には濛々と湯氣が立つて、裸形の老若が蠢々と動いてゐる、肩を摩するの雜沓だ。湯に漬つて見廻すと、隅に大きな石の釜があつて、龍口から湯が出てくる、三方は石で天井に高い、西洋の牢屋はこんなではあるまいかと思ふ、モット明るかつたら愉快だらうと思ふ、三階からのお客には番頭が背を洗つてくれる。
 元の座敷へ歸ると御茶か出る、御菓子が出る、更に助役さんの案内で振鷺閣といふのに登つて見る、大きな太鼓が懸つてゐて、朝と夕に時を報らせる、四方が硝子窓で眺望が非常によい、公園の方には、木蓮の白い花や彼岸櫻がうす紅に咲いてゐる、緑を帯びたのは李であらう、一と叢の竹が雨を含むてまろく垂れてゐる、柳の芽はそよ吹く風に靡いてゐる、春雨の感じは又なくよかつた。
 又新殿は、かつて 皇太子殿下の御入浴遊はした處で、立派な設備である。
 此建物は、今から二十年前に七萬圓もかけて建築したもので、大工の手間が二十二錢位だつたといふ、時價二十萬圓、それだけの價値はあらう、心地よい程丈夫に出來て居る。
 神の湯の混雜に少しアテられて、未醒君の如きはもう温泉にはゆかぬといふ、宿に風呂はないかと鮒屋の女中を困らす、それでも湯に入らなければならぬことになつて、ある朝靈の湯といふのに往つた、幸ひ他に客は居ない、これなら來てもよいと軟化してしまつた。
 靈の湯は、入浴料が高いためか客が少ない、浴槽も狹い、三階へ上つたり下りたりするのは少しウルサイが、浴後一杯の澁茶は惡くはない。
 道後の湯はキレーではあるが、温度が高くないのと、湧出量の少ないので、宿屋に内湯を引くことができぬ、どんな高貴な方でも贅澤な人でも、一々下駄を引かけて通はなくてはならぬ、夜中に目がさめて一風呂といふやうな都合にはゆかぬ、其代り兎角ブシヨウになりたがる湯治客に、往復の徒歩や、梯子段の上下に、いやでも應でも運動を強ひられるから、一利一害として我慢すべきであらう。
 湯槽に飛込むと、サアツと四方に溢れる、湯は滔々と跡から流れ込む、惜氣もなく溢れ溢れて烈しく交代するから、底の砂も數へられる、百軒の宿があれば百軒共内湯があつて、其上一軒て五六ケ所も浴槽を持つてゐる、このやうに湯の多い箱根や鹽原の温泉から比べたなら、道後の湯は實に氣の毒な程少ない。併し關西に於て、しかも此地方に於て、有馬と云ひ城の崎と云ひ、湯が濁つてゐたり量の少ない虎と比べたなら、道後は實に誇るに足りる、特に四國としては他に一つも温泉が無いのだから、有名であるのも偶然ではない。
 

道後温泉靈の湯下村爲山筆

 道後の湯は貴族的だといふ、設備の整餅てゐる事は申分が無い、高濱には何處からも船は着く、高濱から道後迄は汽車で僅かに四十分、交通の上に於ても道後は優勝の地位を占めてゐる。
 道後は神代よりの温泉で、さすがに四邊に名所も多い。石手寺はすぐ近くにある、五十一番の札所で、塔がある、仁王門鐘樓がある、特別保護建造物は一見の價があらう。東照宮の社は、建築の形式に面白い處がある、山上からの風景もよい。石手川は公園の裏手を流れてゐる、堤上には松が多い、櫨の木の古いのもある、秋は美しからう。
 道後湯の町の後ろには御手洗川がある、小さなものだが、此一廓は鴉溪とよばれ、水亭などがあつてオツだ。未醒君はこゝで一杯やりたいといふ。
 河野通治の城趾たる道後公園には櫻が多い、蕾の綻びそめたのもある、今を盛りにさき揃ふたものもある、雨少しふる朝、此臺上に登つて花の露に濡れるのも一興である。眼下に見ゆる廣野には、菜の花の黄なる、麥の畑の緑なる、恰も繪のやうに霞むで見えた。
 道後に停まること六日、鮒屋を宿とした。初め着いた時は、かつて伊藤公の居間とした室に通された、金襖入側付の廣間で、御簾の下つた書院もついてゐる、黒塗の源氏窓を見ると、紫式部でも出て來さうだ、次の間は二十疊も敷からる、一間の入側の外には、板縁があつて、人工の粹を凝した庭園に續いてゐる、我々の身分には過ぎた部屋だ。
 座敷は立派だか何となく暗い、雨の故もあらう、築山が近い故でもあらう。電燈が明るくないといふては別にランプをつけさせる我儘者だ、暗いのは不愉快だといふので、鴉漢の別荘に引移る。
  別荘は靜かな處にある、女中が二人留守をしてゐて世話をやいてくれる、二三丁離れた本家から一々料理を運ぶのだから容易のことではない、平素は人を泊めぬので特別の待遇だときいた。廣くはない不便でもある、併し明るくて心地がよい、入口もシモタヤ風で、ほかに客が無いのだから、何となく自分の家に居るやうに思はれて、他から歸つた時など特に氣持がよい。鴉溪の水聲は一層一我等を喜ばせた。
 道後に居る間は一夜として所謂美人を見ぬことに無かつた。道後松山をかけて、婦人の容貌に一種のタイブがある、眉が長く目尻が少し吊れて頬の骨が稍高く出てゐる。伊藤公のお伽をした蔦子もこのタイブだ、道後で三味を彈いた女もこれだ、松山市中で氣をつけて見ると此顔立ちの女が多い。
 未醒君は明日發足つといふので、酒宴が始まつた、客もある、二人の美人も來る、そこへ中國筋から人子君が着いた、『ヤアどうも恐れ入つた、コツイは要領を得てゐますナー、中國組は謹嚴なもンですゼ』といひながら、ニコニコして席に着いた。二度も雪に降られたこと、大三島は實は景色がよいのだが、鞆から徃くのが不便なのでアンナ電報を出したといふこと、博君が不相變山へ登りたがること、審也君がおつき合に困つてゐること、絶えず手なぐさみをしてゐるといふことなどきいた、手なぐさみとは何かと思つたら例のトランプの事であつた。
 未醒君の發足した跡へ春河君が來た、不相變賑やかにくらした。畫は名所見物に寫生、夜は御招待の御馳走、其間にいろいろの仕事もある、忙はしくて手紙一つ書けない、毎晩寝るのは一時過だ、どこかでゆつくり休息がしたいと思ふ。
 聲のよい藝者をよんで、名物の鰻をお馳走しやうと、商船會社の國安さんから招かれた。聲のよい藝者は伊豫節を唄つた。
  伊豫の松山名物名所、三津の朝市道後の湯、音に名高き五色 素麺、十六日の初さくら、吉田さし桃小杜若、高井のさとの ていれぎや、紫井戸の片目ふな、うす墨櫻や緋のかぶら、ち よと伊豫がすり。
 東京できく伊豫節よりも調が低い。
 『道後の温泉』といふ小さな書物がある、書いてあることは道後のよい方面で、九州の別府温泉と比較しては、頻りに別府の惡口を並べてある、自分達は此書を讀むだ時少なからず反感を起した、別府はそんなに惡い處かも知れないが、道後だとて此書にかいてある程でもあるまい、若し自己を擧ぐる手段として、他人の惡口を言ふものがあつたら、小人はそれを信ずるかも知れないが、君子は組すまい、此書の如きは所謂贔負の引倒しである。速かに絶版にした方が、道後温泉のために得策であらうと思つた。
  松山
 高濱から汽車で道後へゆく時、車窓から松山の城が見えた。城は孤立せる丘の上にあつて、昔しの儘なる天守閣は、巍然として空に抽出してゐる。
 丘には緑樹が密生してゐる、雲低く垂れて、その丘のたゞ一色に淡く見ゆる雨の日の眺めは、一入雄大の觀を呈せしめた。
 

 城はいま公園になつてゐる。大手の東雲神社の前から登つてゆく、城門も此儘である、五層の天守閣に登れば、四方の見晴しは實に天下無比と言ひたい。東北は道後方面の連山を見、西南は遙かに九州の山々も見えやう、東南は遠く雪を戴く石槌山、西北は瀬戸内海を臨み、近く興居島が横はつてゐる。腑瞰すれば松山市街は城の四周を取巻いて、黒き甍白き粉壁、層々として連なつてゐる。自分は此大景に對した時、此處に住まはれるのなら、大名といふものになつてもよいと思つた。
 市中を歩く、高松よりも繁昌してゐる。港町通りには東京風のハイカラの店もある、濠端へゆくと情景が一變する、有名な八ツ股榎の下には、小さな祠が祀ってある、國旗、提灯、旗、鳥居のやうなものが在るかと思へば、切つた髪の毛が結むである。油揚や赤飯も上つてゐる、線香には細い煙りが立つてゐる。
 松山の八百八狸といふて、昔しから怪談に富むだ處、此八股榎の神さまも、老狸を祀つたので、藝者や仲居などが、夜中ひそかに參詣するのだといふ、心に悶えのあつた時、此處へ來て神さまに話をしてしまうと、サツパリしますとさる老妓は語つた。
 松山の怪談を聽きたいものだと、今治に居た時分から希望してゐた、誰れか話上手はあるまいかと、逢ふ人毎にたのむだ。按摩といふものはよくそんな話を知ってゐる、按摩に限る、按摩を招ばうといふ、誰れが揉ませるのかとたづねたら、誰れもまだ經驗が無いかち厭だといふ、それで此話はお流れになつたが、曾根君の親切で、怪談百種といふ新聞に出たものを讀むだ。
 市の南を石手川は流れてゐる、石手川の兩岸は廣き堤で、堤上には榎の巨木が林をなしてゐる、市の中にこんな幽邃な佳い處があらうとは思ひも及ばなかつた、未醒君は松山から子規の出たのは偶然では無いと大に感心される、南浦君は西洋の繪にあるやうだと三嘆された。
 道後に近い方や、出合のほとりは松が多いが、立花から新立橋邊へかけては、殆と落葉樹ばかりでまだ春寒きこの頃でも、此眺めがある、初夏新綠の朝、晩秋紅葉の夕を思ふと耐らない心持になる、も少し東京から近かつたら幾度も來るのにとぢれつたくもなる。
 榎の林の美しいばかりではない、中央を流るゝ石手川は、此あたりの花崗石の砂で埋もれた水の乏しいもので無くて、淺くはあれど岸迄も澄み渡つてゐる。此水が在つて此木も引立つ。雨の日新立橋の上に俥を停めて、川の上下を見た時の心持はいつ迄も忘れぬであらう。
 伊豫鐵道で、郡中の町に下り、五色ケ濱といふのに往く。風の寒い日であつた。濱は五彩の小石が雨にぬれて美はしい、遙かに西の方を見ると、丘の下に並ぶ松原の岸によする絲のやうな白波、雨に霞むで宛も蒔繪を見るやうに、極めて優雅な景色である。
 こゝに來る道の松前といふ處も、景色は面白さうだ。松山あたりを、五郎櫃を頭に載せて魚を賣りに來る女を、タダといふさうだが、皆この松前から來るのだといふ。
 陶器で有名な砥部へゆく道に、森松といふ處がある、重信川に架つてゐる橋は頗る長いものだ。兩岸の景は廣過て纒りがつかぬ、風のつよい日に此處で寫生をしたが、終に失敗に終つた。
 伊豫鐵道は、このほか横河原にも通じてゐる。松山を中心として汽車で寫生して歩行たなら、面白からうと思ふが、時日が無い。
 この鐵道は輕便式で、一等と三等とあつて二等が無い。曾て梅ケ谷が來た時、入口が狭くて車内に入れないため、貨車の上に蒲團を敷いて座つてゐたといふ。某といて代議士は、あまり肥えてゐるので、宿屋で倍の族籠料を取られた、そして御一人樣二人分といふ書出しであつたといふ。此人また田舎の宿へ泊つた時、風呂に入れない、何故かと聞いたら、貴方に入られると、湯が溢れてしまつて無くなるからだと言つて断はつたさうだ。あまり肥大でも不自由な譯である。
 伊豫鐵道會社の井上氏に招かれて、一夕其邸に晩餐を共にした。邸内の庭は極めて立派なものである。夫人も席へ出られる、令息令嬢たちも出て來られる、珍らしく家族的の温かいもてなしを受けて、一同大に滿足した。美しい人も見えたが、絲の音をきかずに濟むだ、これも却て嬉しかつた。
 松山市の有力家連が、歡迎會をするからといふので、御遠慮なく梅の家といふのに往つた、百疊に近い廣間には、歴々の方が並むで居られる、膝組合せの極々手輕な會合であるといふ約束だつたが、來て見れば半公式の招待で少々恐れ入つた。
 此處でも一場の御挨拶を致さねばならぬ次第になつた、『此度の旅行に於て、松山附近を一番アテにしてゐた、想像は果して事實となつて、景色は頗るよい、出來る事ならいつ迄も居て寫生をしたいが、行先を急ぐので思ふに任せない、ひとり自然が吾々をして滿足せしむるのみでなく、吾々の相會した人達は、皆親切な方々のみであつて、殊に今夕は、眇たる吾々のために、かゝる盛宴を張られてお招きに預ることは、光榮として厚く御禮を申上る』こんな席に必ず出る、光榮といふ文句は言ふまいと思つてゐたが、不得止出してしまつた、未醒君が居たら定めて微笑することであらう。
 酒を深く參らぬと見て取つた幹事諸君は、吾等の前に、高坏へ盛つた菓子を置かれる、サイダーを持つて來させる、終には善哉がよからうといふので、態々取よせられた御心遣ひには、甘黨の感謝を禁じ得ぬ次第である。
 此地の藝者は、東京のやうに御座附を彈かない。イキナリ清元の地で舞をさせる、その清元も、東京に比べるとずつと調子の低い澁いもので、清艶の趣きはない。
 松山は景色のよい處だけ、それだけ今治邊から見ると沈滞してゐる、從つて都雅の趣がある、人氣も讃岐あたりから比べたならよほど穏やかの樣に思はれる、『アカン』とか『こうせんと勝てン』など、言葉の上に氣短かな調もあるが、ゆくことを『オイキル』することを『どうおしる』など、物事に『オ』の字をよくつけたがる、聞いた心持は惡るくはない。『おまいはいくつだ、十八?十九?』こんな問に對して、間違つてゐると、東京では『イヽヱ』と答へるのだが、此邊の女は『違ひます』と早々に言ふ。『ケツタイ』は耳によく響かない。
  高濱
 高濱の景色のよい事は八郎君からもきいてゐた、港の前に横はつてゐる興居島は、たゞに防浪のためのみでなく、景色の上からも、高濱に多大の御用を勤めてゐる。
 讃岐では、多く圓錐形のノツタリした火山系の山を見た、伊豫に入つてから山に雛が增して來た、ひとり興居島は火山系であつて、伊豫の小富士とよばれ、鯨の背のやうに海に泛むでゐる。
 島の周圍には桃が多い、花さかりには紅ゐの幕を引廻したやうになるといふ。
 四國靈場五十二番の札所なる大山寺は、高濱の近くにある。此處にゆく道の山上かち、西南長濱の方を望むだ景色は壮大である。
 花崗岩の頂上の明るく兀げた山、小松の繁茂した山、それを越して海が見える、海には白帆がうかぶ、遠くは出石山脈が紫に霞む、何といふことはなく、身に泌みて忘るることの出來ない眺望である。
 

 高濱を西へゆくと梅津寺の海岸で、夏は海水浴の人で埋まるといふ、新道の中程から西の方を望むと、『吉田さし桃』と伊豫節にうたはれてゐる、その吉田の里で、桃が多い。
  別府へは往つて見たいと言ふてゐた未醒君は、終に往かずに歸つた。人子君も別府へ往くのだといふてゐたが、此處から歸らうかと言ひ出した。『往きたまへ』、『さうしませうか』、『往くと極めたまへ』、『歸つた方がよいが徃つても見たいし』、こんな押問答は、道後に居るうちから幾度も繰返されて、結局別府迄往く事に極まつてゐた、それだのに、高濱へ來て船を見たら急に氣が變つてしまつた、『男らしくもない』と大に反抗心を起させやうとしたが、無益であつに、東京によほど強い引力があると見える。
 春河君も中國筋へ鳥渡徃く、別府でまた落合ふ筈だ。京都から河合無涯君が來る、寒い寒いといふてふるへてゐる。
 四國は暖かい處だと聞いてゐた、一行のうちには合服か何かて洒落て來た人もあつた、津田の松原に居たころから天候一變、毎日毎日東北の風が吹いて、用意のシャツを重ね着してもまだ寒い、無涯君は船の中で風邪になつたといふて、火鉢をかゝへて縮まつてゐる。
 第十一字和島丸が、高濱の港を出たのは朝の九時半であつた、空は曇つて北の風が吹いてゐる。
 二時間程して長濱の港に着いた、山が近く狹い處らしい、松原があり漁村が見える、此處でも招かれてゐたが、別府滞在の日が無くなるので遺憾ながら見合せた。
 船は四國を離れて九州に向ふ。吾等にこの頃の寝不足を補はうといふのて、船室に横になつた。
  別府
 船が守江に着くといふので甲板へ出て見る。低い山、赤い砂、何となく四國と調子が異つてゐる。更らに斷崖に沿ふて走ること二時間、日出に碇泊した、日出は灣形をなして浪靜かに、小さいがよい港である。丁度この日が九州鐵道の開通式だといふ、港口には白い烟を吐く汽鑵車が見える。
 日のくるゝ頃、別府の港に船は停まつた。出迎の小舟には假屋根もあり椅子も乗つてゐる、海はウネリが高く、一上一下、心地わるくなる程舟は揺れた。
 別府は温泉上の市街といはれてゐる、湯の豊富なことは驚くばかりだ、何處からでも出る、鳥渡一尺ばかり地を掘れば熱い湯が湧き出す、湯よりも却つて水に不自由する程で、湯の使用に何等の制限が無い、學校や役場に浴槽のあるのみでなく、巡査の交番所に迄温泉のある處だ、別府濱脇と通じて數ヶ所の壮大な共同湯があり、また貮百の旅舘にはそれぞれ内湯を持つてゐる。
 雨が降つて寫生に出られないといふので、市中の温泉見物にゆく。不老泉といふのは、道後に似た建物があつて、それよりも明るい大きな浴槽がいくつもある、裏の方には湯瀧もある中々振つたものだ、二階三階と休息所があり、道後と違つてこゝでは酒食も自由に出來る。
 三階からの眺望は非常によい、屋根に遮られて海の方はよく見えぬが、三方を取まく山々は目睫の間にある、鶴見山、扇山、吉備山、四極山とうちかすむ中に、音原の瀧が幽かに白く見える、山は霧のために呑吐せられ、濃くなり淡くなり、絶えず變化してゐる、面白い眺めだ。
 三階の縁に起ちて不圖下を見ると、雨に光る往來を、蛇の目手にした二人の女性がゆく、裾高くかゝげて、紅い蹴出しに水たまりに映じて美くしい。粹人藤田君は、ハタハタと手を拍つてよぶに、傘傾けて見上げた二人は、知れる人にもやと疑ふさまなり、粹な人は『歸りにお寄り』といふ、頭傾けつゝ引返すこと數歩、思ひ返してはまた前みゆく、停徊去るに忍びずといふ風情である。恍としてこのさまを眺め居たる春河君は、『あゝ春雨よ』と感嘆の聲を洩した。
 楠湯といふのを見る、大きな楠の根から湯か出るので名づけられてゐる。不老泉のほかは無料といふので入浴者が多い、男湯も女湯も見る、女湯を覗くことは、束京ではヤカマシイが、こゝでは見るものも見らるゝものも平氣だ。靈潮泉といふのは海岸に近い、潮の干滿によつて湯の量に相違が出來る、こゝには砂風呂もあつて、半身を暖かい砂に埋めてゐるのもある、全身を埋めて寢てゐるのもある。
 

楠温泉吉田博筆

 川一つ隔てた町續きの濱脇へゆく。西温泉といふのは、不老泉のやうに三階があつて、上等湯の設備もある。東温泉は無料の湯で、こゝにも砂風呂がある、無料湯は多くの人の入込むので別に門戸に締りが無い、體裁はよく無いか、湯の多いので決して不潔ではないやうだ。
 暖かになると海岸に砂浴を試むる男女が多いといふ。潮が干ると砂から湯氣が立つ、掘ると温泉が出る、其中に半身を埋めて、ジツトしてゐるとよい心持だといふ、繪葉書で見るに、大きな傘を立てたり幕を張つたりして、幾人となく砂の上に轉ろがつてゐる、これこそ天下の奇觀であらう。
 龜川温泉といふのは、別府から一里半の北にある御越の温泉とも云ふて、こゝにも二層樓の浴場が設けてある。別府と龜川の間の景色は快活でよい。
 別府から一里、石垣原から二十町程細い道をゆくと、鐵輪の湯といふのがある。幾軒かの旅店があり、共同湯もある。共同湯の中には蒸風呂の設けもある、湯瀧もある、朝鮮のオンドルのやうに、床に蒸氣を通はせてある處もある。
 

別府海岸の砂浴

 小さな佛壇めいたものがあつて、何やら祀つてある。花が上げてある、線香が燻つてゐる、躄が全治したといふので、こゝ迄突いて來た杖を奉納してある。其下の小さな穴に莚が垂れてある、そこが蒸風呂の口で、中には十六の枕が在つて、其枕の數だけの人が入れるやうになつてゐる、春河君が莚をあげたら、肥つた女のおゐどが見えた、更に南浦君が開けたら、おゐどは一層深く這入つて往つた、詰らぬイタヅラをしたものだ。
 

鐡輪の湯滿谷國四郎筆

 湯瀧は男と女と一日置きにかゝるやうになつてゐる。湯槽を前景に、瀧をバツクにしたなら面白い繪が一枚出來さうだ、南浦君は長い間スケツチをしてゐた。
 鐵輪の村では、家の入口近く、徃來の隅に、一尺程の茶碗の底をぬいて伏せたやうな土の筒がある。其中から盛むに蒸氣か吹いてゐる。土瓶に水を入れてかけて置くと、忽ち湯になる、飯も炊くのだらう、菜も煮るのだらう、魚は燒けまいが、高熱の蒸氣は火の代用をすると見える。
 この蒸氣井戸を、土人は地獄とよむでゐる。こゝで造つた饅頭は名物とあつて、『地獄製造極楽饅頭』といふ看板がかゝつてゐる、こちらの障子には、『湯練羊羹、地獄の月』なんて、變妙なことが書いてある。
 鐵輪の奥を五六丁ゆくと、製紙の洒料になるとかいふ白土の産地がある、セメントのやうな色の土が流れてゐる、軟らかな處からは、弗々と音して熱湯――てはなく、熱い泥土が、恰かも澱粉を煮た時のやうに泡を立てゝ噴出してゐる。傍を通ると、顔へでも跳ねて來はせまいかと危まれる。橋杭の周圍にもこの熱湯が噴き出してゐる。何でも穴さへあけば直ぐ熱い奴が飛出すものと見える。よくこんな危險な處に住まへたものだと、村人の大膽に感心する。
 海地獄といふのを見る。一の池二の池三の池とあつて、熱湯の湧出するのは一の池で、可なり大きなものだ。二の池へ流れ出す量を見ると、隨分澤山湧くものと見える。濛々と湯煙が立騰つて風の無い時は湯の面が見えない、風があるとパッと吹かけて來て、一尺先も見えなくなる。湯の色淡緑色を呈して恰かも海のやうだ。
 こゝでも、土瓶の水は見てゐる問に沸く、生の鷄卵は三分間で半熟になる、阿蘇や島原の噴上湯は見ぬから知らぬが、世にも不思議な處が在つたものだと感心する。
 海地獄を距ること十數丁、柴石といふ處にも、湯瀧と蒸風呂がある。柴石には木の葉石があるので、地名となつたのだといふ。土地狹くして景色の見るべきものが無いが、此處と鐵輪の間の丘上は、別府灣を眼下に見て、一歩々々繪になるやうな纒つた好風景に富むでゐる。
 柴石から龜川の方に下る道に血の池地獄がある。海地獄に似てやゝ狹い。昔しは湯の色が赫色であつたさうだが、今は深緑色に變はつてゐる、たゝ一部底の淺い處に赫色の泥土が殘つてゐて、里人に其泥土に白布を浸して、種々の絞り型を置き、温泉染を造つて賣つてゐる。此ほか、坊主地獄、紺屋地獄、堀田地獄、觀海寺地獄と、數へ上げたら際限が無いが、たゞ規模の大小あるのみで、孰れも似たものだといふ。
 觀海寺の温泉場は、別府の北に當つて一里を隔てゝゐる、別府公園、躑躅園、ホテルの敷地脇などを通つてゆくのである。ホテルは今建築中であるが、前は別府灣を一望の下にあつめ、遠く伊豫の山迄見える、背後は由布鶴見の高山に圍まれて、實に理想的の地である。
 觀海寺は、其名の如く海に對する眺望は別段によい。こゝにも名物練羊羹があるから、甘黨は困らない。
 別府はこのやうに温泉が多いから、從つて種類にも富むでゐる、どんな病氣でも、温泉はそれに適したものを供給することが出來るといふ。
 町の有志は、別府繁榮には非常に熱心であるらしい、ホテルも作るがよい、各種の遊び場も設けるがよい、淺草的にならうとも構はない、出來るだけ俗にするがよい、徒らに高尚がつてゐた處で、自然の大勢が許すまい、何處迄も積極的に發展するがよい。
 試みに道後と比較して見るに、湯の量に於て、近傍の風景に於て、別府に長所がある。温泉の設備と交通の便利の上に於て、道後に長所があらう。近後近傍の風景も惡くはないが、別府のやうに明快でない。別府も近くに汽車も通じて、交通は良くならうが、京阪地の客には大迂回をせねばならぬから、道後に一歩を譲らねばなるまい。別府は大に積極的に發展する餘地がある、道後は肝心の湯が限られてゐるのだから、消極的に是迄の名聲を保つやうにしたらよからうと思ふ。
 別府の西北一里強に扇山といふのがある、正面から見ると眞に圓錐形で、火山の好標本である、鶴見岳の麓からかけて大なる裾野が開けてゐるので、何處からも海が見えるし、眺望が雄大である。
 東南に聳えてゐる四極山(一名高崎山)も、また別府灣の景をして美ならしむるに大に力がある。其上、楠や、樫や、柑類の常盤木が非常に多いので、廣い景色でありながら、内容がよく充實されてゐる。
 四國は迷信の國である、怪談の多い國である、悽く恐ろしい國である。犬神は四國の特産で、弘法大師の何とやらいふ怪しげな傳説は到る處にある。人間の上に暗い影のあるばかりでなく、瀬戸内海に面した四國の海岸の景色も、また暗い感じである、これは海を北に受けてゐるためかも知れない。
 かつて中國の沿岸を汽車で通つた時、此地方の山水は明るくして且透明であると思つた、それから聯想して、瀬戸内海といへば、何處も同じ感じてあらうと考へでゐた。中川君の大作『興居島』を見た時も、暗過にせぬかと心の中で否定してゐたが、今度實地を見て、氏がローヵルカラーをよく現はしてゐたのに感心した。いま九州の一部、別府に來て其風景を見ると、四國のやうに暗くない、中國のやうに弱くない、明るくして且強い感じてある、此處で繪を描けば愉快なものが出來るに極まつてゐる。
  別府には、甞つて西洋畫をかく人は來ぬといふ。石垣原で四極山を寫生してゐたら、一人の老人が、『誠に失禮ですがこのやうな繪は別府の町で賣つておりませうか』ときく、『賣つてはゐますまい』と答へたら、『それはお賣りになりますまいか、貴方は別府の方ではないのですか』といふ、西洋畫はよほど珍らしいと見える。『あの山を幾度も繪の具をかけた、寫眞のやうな詰らないものではない』と、頻りに感心してゐた一農夫は、向から來かゝつた中學生を見て、『生徒共來ておがめ』と言つた、甚だ光榮の至りではないか。
 別府は故獨歩國木田氏が青年のころ居られたさうだ。伊豫の今治には、嘗て徳富蘆花氏が來てゐて『思出の記』の舞臺は彼處だといふ。嗽石夏目先生の『坊ちやん』を讀むだ人は先生が松山に初めて學校教師として來たことが分らう。今度の旅には、不思議にも文豪の足跡が多い。
 別府はやがて市制が布かるゝといふ程あつて、毎日新しい家が出來る、田や畑も遠からず市街地となる見込をつけて、碁盤目の區劃が出來てゐる。町は賑やかでいろいろの産物を賣る店が多い、芝居小屋もある、玉突もある、射的もある、娯樂に不自由はない、流れ川に貸座敷のある處で、夜分通ると白首がうろついてゐるが、取つて食ふとも云ふまいから、近づかなければよい。別府ば淫靡の處だと世間で云ふが、他府縣からの來浴者の間にある出來事は知らず、別府町自身は決して左樣では無いと、町役場の人は大に辯護してゐた。
 旅館日名子は第一流の家で、吾等はこゝの三階に泊つてゐた。着いた翌日、宮島から春河君が來る。二三日後には高濱から無涯君が來る。續いて中國から審也君と博君が來る。東京から滿谷桂夢君が來る。大に賑やつた。
 宿の内湯は五箇所ある、多く人の入るのは、湯が澄むでゐて美しい、其奥の小さな奴は、少し濁つてゐるが靜かなので度々ゆく。温度の低い時には、裸體のまゝ他の浴室に飛込む。一段高い處には砂風呂がある。
 ある朝、早く目さめたので、一風呂と奥の方へ浸つた。暫らくすると若い婦人が入つて來る、一人かと患つてゐると、手拭や齒磨楊子を持つて、あとからもあとからも續いて來る、またゝく間に十四五人、うら若い娘が玉の肌を露はにどんどん押込むで來る。毎週一二度はモデルを見てゐるから、女の裸體は珍らしくもないが、こんなに澤山來られては、自分の居る處が無くなるので、早速退却した。あとできくと、此家には十六人の若い女中が居て、それが押かけて來たのである、此話を某々君にしたら、そいつは見物だらう、あすの朝は早く起してくれと大分御熱心であつた。
 三階は女中三人の受持で、階子段の傍に一人宛火鉢を置いて番をしてゐる。おらくさんにおきぬさん、さだえさん、何れも物言ひがハキハキしてゐて心地がよい。
 春河君は、姉さんとよばずに娘さんといふ、初めのうちは返辭をしなかつた、後には娘さんと呼ばないと返辭をしないやうになつた。
 娘さんに繪葉書を賣つてゐる店をきく、娘さんは松原町の芝居トコの近處ですといふ、芝居トコのトコが分らないので大笑ひをした。
 また招待會だ。會場の不老泉へと出掛ける。入口には國旗が建てゝある、樓上には旗が引廻してあつて、装飾萬端中々大變だ、ズラリと並むだ有志の方々の前を通つて席に着く、町長さんの歡迎の辭がある、こちらからも挨拶なかるべからずだ、博君は自分の袖を引ばる、詮方がない、まづ御禮を申上て、『さて私達の經驗によると、風景の美は人情の美と伴はねはならぬ、いくら景色のよい處でも、また最初から長く居る積りで來ても、車夫に金をゆすられたり、宿屋が冷遇したりすると、直ぐ厭になつて景色迄も詰らなく見える、一日も早く逃出したくなる。別府は景色もよいが、私共はまだ不愉快の事に逢はないから、人情もよからうと思ふ』と、正直感じた處を陳述に及むだ。後に席上の某氏は、味ひある言だ、土地のためには大に風儀をよくせねばならぬと、頻りに言はれてゐた。
 隣席の人はナモシを連發して話しかける。別府の町は曲りくねつてゐるが、いつれそのうち市區改正をするのだから大目に見てゐて欲しいといふ、自分にはまた其曲りくねつたのが面白いので、遊客の町を散歩する時、眞直な道では趣味が無い、迂曲してゐて歩いてゐるうち、道に迷つて二度も三度も一つ處へ出てくるなど、却つて興がある、市區改正などは決して爲すべきものでないと言つて置いた。
 疊の見えぬ迄、並ぺたてられた珍味佳肴は、拜見したばかり、振袖紋付の別府美人を尻目に、一時間程して席を辭した。
  筑豊線
 東京へ歸るのに元の航路は興が無い、門司迄汽車、それから下關線で、船で中國沿岸の景色を見て往からと考へた。
 別府の濱から日出迄、鐵道の聯絡船があるといふので、時間前に往つたが既に出てしまつた、詮方なしに三里の道を俥で走らせた。
 俥は龜川を經て、小さな坂を登る、豊岡といふ。此あたりの海の景色は非常に佳い、入江があり、舟がある、四極山が朝霞にぼんやり見える、何ともいへぬ爽快を覺える。
 道端の農家では、軒下に臼を置いて、小さな娘が足で米を搗いてゐる。門口に莚を敷いて、女房が鐵槌で何か壞してゐる、見れば大きな石を細かにしてゐるのだ砂利といふものが無いかして、道路は割石が敷いてある。
 一時間あまりで日出の町べ着いた。汽車の出るのには間があるので、廻漕店に荷を預けて海岸へ往つて見る穏やかな海で、こゝからも四極山は美しく見える。八幡の社がある、其前に大きな楠木がある、枝振が面白い、ゆつくり描いて見たいと思ふ』町は幅が廣いばかりで淋しい、繪葉書を買はうとしたが賣つてゐる店が無い。
 

 停車場はづッと町端れの海岸にある大分あたりの學校を卒業した人達だろう、蒲團やら机やら持込むで、荷物の扱所は大混雜をしてゐる、まだ開通したばかりで何も角も新しいが何もかもスローだ。
 合造の二等室は滿員だ、赤帽に白い切符を買ひにやらうとしたら、車掌は其儘御乗り下さいと、一等室のドアを開けてくれた』汽車は山間に入つた海を離れたら景色は平凡になつた。杵築下市など、いくつかの驛を過ぎて、列車は宇佐に着いた。
 宇佐八幡は驛から一里程だといふ、參詣したいと思つてゐたが、船の乗後れで時間が無い、こゝへ着いたのは十二時過であるのに辨當を賣つてゐない、何か食物をと窓から顔を出す、物賣の小僧は聲高に『名物ウサメ』『ウサメ』と呼むでゐる、何か食物かときくとヘイといふ、菓子の名でもあるかと思つて一包を買ふ。包を開いて見れら、飴が澤山入つてゐる、名物宇佐飴といふのであつた。琴平のことなど思ひ出されて獨りで笑つた。飴も洒されてあつて白いし、粉も糠では無い、併し辨當の代りにはならない。
 次の柳ヶ浦ヘ來たら辨當があつた、折の上包には製造元滋養軒と書いてある、中には牛肉に玉子が入つてゐる、成程滋養軒だと感心する。
 此線路の物賣の口調は變はつてゐる。オッ辨ント。スッシ。マッッチ。タッバコと、一句一句叱りけるゃうに言ふ、うつかりぶつかつたらこはれさうな聲だ。
 宇佐を離れると海が見える、別府邊とはまた趣が異つて、感じが弱くやさしい景色だ。干潟などもある、細い粗らな松原もある、遠く見えるのは中國の山か。
 車窓に近く、凸凹の烈しい妙義式の山が見える、名を知らない、耶馬溪もあんなではないかと思ふ。
 讃岐では、家の外圍ひは大概壁であつた、繪に描くに面白い。伊豫に入ると、板を用ふることが多くなつて來た。別府あたりも粗ぼ似てゐたが、中津邊へ來ると、建築の樣式が劣つて來る、磨かれた壁が少なく、屋根瓦の如きも、四國のやうに美しくない、藁葺も増して來た、少し奥へゆくと、竹瓦といふて、二つに割つた竹を組合せて屋根が葺いてあるといふ。
 高松では人力車にゴム輪が多かつた、津田へゆく時など、村の人達は、音のしない俥といふて不思議がつてゐた。伊豫へ來てからこの種の俥を見ない。九州でも中津あたり迄は見ない。關西の俥は、何故よりかゝりに大きな蒲團を置くのか、原因が分らない。小旗を立てられるのもいやだ。
 門司はキタナイ感じの處だ。セメント會社が大ぶ町の美觀を害してゐやう。停車場から棧橋へ行く道傍に、果物賣が並むでゐる、色彩が面白い、外國の波止場を思ひ出させる。
  中國の海
 門司から乗つた船は武庫川丸といふ、四百二十噸の新らしくないものだ、一等室には誰れも居ない、狹いベツドを避けて、廣間を一人で寝たり起たり。
 サロンといふものが無い。食堂は、お客が濟むでから上級船員が使ふ。ボーイがパツクや文藝倶樂部を持つて來てくれる、甲板に出ると床机を据へてくれる、顔を洗ふと石鹸を出す、中々氣が利いてゐる。
 壇の浦といふ處を過ぎる、中國の山九州の山、右も左も景色が佳い、周防灘も浪靜かに、數知れぬ帆影で海も見えぬやうだ、よくこんなに船があつたものだと驚ろかされる、淡路の海より廣いだけ壮觀である。
 日没の感じも大に佳かつた。
 旅は道連れといふが、汽車は一人でもよい、船は友達が欲しい、船に乗ると詩を思ひ歌を思ふ、堅い書物は讀みたくない、考へ事はしたくない、藤村詩集が一冊欲しいと思つた。
 船の上に居ると、嘗つて乗つた船のことを思ふ。亞米利加へ往つた時は一萬二千噸であつた、太西洋を渡つた時は八千噸、歐洲からの歸りは六千噸、濠洲へ往つた時でさへ、三千噸に近い軍艦金剛であつた、四百噸の船は不安心にも思はれる。
 一萬二千噸の船でも、二日ばかりは不快であつた。八千噸の船でも、太西洋の波には吐かざるを得なかつた。ドーバー海峡は、小さな船で可なり烈しく揺られたが、甲板に立つた儘とうとう我慢をした、少し厭やな顔をしてゐると、ボーイが金盥を持つて來る、これは若干金に有つくからだ、其金盥のものを、我慢して立つてゐる自分の傍へ持つて來ては海へ棄てる、これには少なからず苦しむだ。
 ピスケー灣は事もなく、印度洋も無事に、讃岐丸では醉はなかつた、遠州灘も知らずに過した。
 百噸たらずの小さな船では、いつも無事に濟まない。房州行、上總通ひ、伊豆通ひ、皆よくない。伊東から熱田の間を、これも寒いのに甲板に立ち通しで耐えたが、艀舟に移つてから、あまり揺られたので終に吐いた事がある。船に醉ふのは不愉快極りないものだ、併し瀬戸内海は殆どそのやうな心配が無い、安心して毛布にくるまつた。
 三田尻、室津、柳井津、久賀と、そのやうな處は夢の間に過ぎた。室津に近く、佐合島には詩人が居る、せめては島の姿なりと見たいと思つたが、夜中では詮方がない。
 宮島で夜が明けたが、ベツドを出なかつた。宇品に着くころ、起きて朝景色を見た。
 似の島は、かつて廣島の江波公園から寫したことがある、小さいがよい形だ。湖のやうに靜かな多島海の、朝の感じは至極よい。
 宇品の港はよい、淺橋もある、景色はさほどでもあるまい、金輪島は小さいけれど美はしい。
 江田島を右に、威容堂々たろ軍艦あまた浮べる呉軍港を左に見て、ゆくこと一時間、船は音戸の瀬戸を通る『船頭可愛や音戸の瀬戸で一丈五尺の艪がしはる』といふて有名な處だが、壮快なる來島海峡の潮流を見た目には、敢て珍とするに足らぬ。
 清盛の墓といふのがある、あれがかと呆れる程小さなものなり。船は大小の島々を縫ふて進む、一つ送ればまた一つ、それぞれに形ち變はりて飽かぬ眺めなり。瀬戸内海の勝は、海上より船で見るべきもの、陸を汽車で走つたのでは何の興もあるまい』竹原、忠の海、何れも船着場なれど、山近くして段々畑のみ多く、畫材は鮮なからう、糸崎に稍變化に富み、尾の道は更に面白さうだ。
 『お客さん蜜柑は入りませんか・・・・正宗もビールもあります・・・・鞆の名物保命酒は入りませんかあ・・・・』果物や雜貨を滿載した小舟は、右舷にも左舷にも來る。千光寺、西國寺、船の上から見ても立派さうだ、向島があるので、狹くはあるがよい港だ。
 島を巡つて東に進むと、程もなく智左に阿武兎の觀音堂が見える、大きなものではない。辨天島、仙醉島、それを右に見て船は停まる、そこが鞆の港だ。
 是迄見て來た中國筋の船着き場のうちでは、此鞆が一番景色がよい樣だ、島もよいし、家の配置などもよい、近處にも繪になりさうな處がある、併し、四國沿岸に比べたなら、上陸して見ないから斷言は出來ぬが、變化も少なく色も惡いやうだ、その代り、島の景色は、其數に於ても、又船が其近くを走る點に於ても、四國航路の眺望よりは勝つてゐるかも知れない。
 鞆を離れて多度津に向ふ。島が粗ばらになる、海が急に廣くなつたやうだ。黒い煙りを吐いた大きな船がいくつも通る。
 漸く多度津に着いた頃は、日が西に沈むだ。船から見た多度津の景色、あの硯岡山のヒヨロヒヨロ松は中々風致がよい。
 高松からは寝床に入つた。不相變たゞ一人の、早く寝るより法は無い。この日東北の風つよく波が高い、播磨灘ではやられるだらうと思ひつゝ、坂手に寄つたのも知らず、神戸に着いたのも知らず。
 朝の七時大阪川口に船は進むだ。川口の朝景色はいつ見てもよい、靜穏な自然の中を、煙を吐き波を動かして走る小舟大船の活動が伴ふ、靜の美と動の美が面白く調和してゐる、大作も出來やうスケツチにも御誂ひだ。
  大阪後記
 川口の棧橋には、別府で別れた正三君が來てゐる。支部の北山君も居る。用達をすませ、堂島の松代君の邸で開かれた大阪支部の批評會に臨むだ。
 支部會員の繪は三四十枚あつた、筆力が弱い、色が貧しいとはいふものゝ、教師もなく、また肉筆畫を見ることの稀れな此地で、完全を望むのは、無理であらう。
 大阪の電車へ初めて乗る。速力の早いのは全國一だと、同乗の一人が云ふた。東京では太股をあらはすことといふ禁條があるが、大阪はその上に、肌ぬぎ迄も附加されてゐる。曾て阪神間の電車内に『はだかはだぬき御斷り』とあつて、その地方の人は、電車の中でも規則が無ければ裸體になるのかと驚ろかされた。大阪人ば公衆の前で肌をぬぐ位ゐ平氣と見える。
 車内にては飲食を禁じてある、東京では無いことだ。京阪地方の汽車へ乗ると、よく一團となつて酒盛をやつてゐる、これも禁じなければ、電車内でもやりかれないのであらう。
 歸京は夜行と極めてた、時間があるので、御靈の文樂座へ往つた。
 場内は舊式だけれど可なり廣い、桝が二人詰なのは東京と異つてゐる。丁度菅原の配所の處から聽いた、咽喉は津太夫でよく語つてゐた、人形は榮三の白太夫が氣持よく動いた。神童が出てから、絃の音もさえ、見る方も美しかつた。天拜山の祷で、太夫が退いてからは、菅公が口から火を吹くやら、雷獣が火中を駈け廻るやら、西洋色火が燃えるやら、大ケレンに少なからずアテられた。
 寺子屋の場では越路が出て、吉兵衛の絃であつた、さすがにシソミリと嬉しかつた。
 切は戀飛脚の新口村で、太夫は攝津大椽、絃は廣助である。大椽はよほどの年だらうが、若々しい聲の出るのには、修養の程感ぜざるを得ぬ。繪かきでも修養が足りないと、老年には色が乾燥する、併し、攝津は今日本一かは知らぬが、大隅や越路に比して、非常に飛放れた藝であるとは思へなかつた、彼等との逕庭は、僅かに一二歩に過ぎないのではあるまいかと感じた』人形も面白く見た、忠兵衛が紅入裾模樣の着つけは、寫實離れがしてよかつた。梅川よりも孫右衛門の身のこなしに感心した』梅田へゆく時間が來たので中座した、大椽が高座に居る間は、どんな用が在つても出方を土間へ入れぬといふ、それを半ばで起つたのはいさゝか氣の毒に思つた。
 自分の考でに、人形芝居は最早發達の望みはあるまいと思ふ、お客は月末の故かは知らぬが、場の半分にも滿たなかつた、それも中年以上の婦人達が多く、若い人の影は見えない、現代とは縁の遠い故であらう、其上、生中寫實風の背景を使つたり、輕業風な宙乗をしたりして惡趣味に傾きつゝあるのに、自から廢滅を促すやうに見える。大阪に有名な人形芝居はいつ迄も保存したいが、今日の有樣では永い生命はあるまいと思はれた。
  東海道
 馬場からベットに入つた、日本の汽車の寝臺に寝たのば始めてだ、幸に下の段を得たが、上段は座つて首も伸せない程ミヂメなものた。
 シーツ、枕の裂、そんなものは一度々々に洗濯するのか知らぬが、折目のついてゐる糊の硬いものではなかつた、靜岡で夜が明けた。
 曉の富士はいつ見てもよい。沼津あたりは桃の花のさかりである。九州から中國を見て來た新しい目で此邊の景色を見ると、何となく墨つぽく感ずる、暗いとはいへないが明るくはない、暖かい感じに見えても、色硝子のやうに底に冷たい虎がある』御殿場で見た富士は、裾迄雪に包まれてゐた、此邊はいつ春が來るのか、知らむ顔をしてゐる。
 往きの食堂はミカドホテルであつたが、歸りは精養軒だ。主人が變つた如く、花瓶の花も變つてゐる。八郎君が梅を見て桃だといつたので、到る處梅が咲いてゐると、『中川君桃が』とことさらに言つたものだが、その梅もいつか櫻に、根締の水仙も菜の花になつてゐた。
  餘録
 一行が歸つてからある處に集まつた。審也君は別府を發足して、汽車で歸るつもりで廣島の近所迄來たら、前の列車に衝突があつて先へゆけない、廣島の名も知らぬケチな宿屋に苦しい一晩を過した。翌日は豫定通りに發車しない、大阪へ着くのは夜中になるといふので、姫路へ泊つた。こんな事なら船でゆるゆる歸つたものをと大コボシ。
 博君と桂夢君は、別府で二人切りになつた、そして頻りに温泉漁りをした、女湯の入口で畫架を据えて寫生を始める、湯の中の婦人達は逃げ出すことだらうと思つてゐたら、一向平氣で、時々は畫いてゐる處を覗きに來る、コツチが極まりが惡くなつたと言つてゐた。
 博君は別府近處の瀧見物もする、歸りは御手洗島で桃の寫生をしやうといふので、忙がしい中を上陸したが、桃は既に遲く、景色は詰らないので大失望。それで再び小豆島へよつて、たゞさい黑い顔を念入に色揚げして、一行より四五日遲れて歸つて來た。(完)
  日誌
  四十四年三月四日 晴
 午前八時十分新橋發列車に乗る。同行吉田、小杉、中川、渡部四氏及、東京日日新聞記者牧野等君――夜八時半大阪梅田着――石川氏一行に加はる――堂島魚岩に於ける大阪毎日新聞社の歡迎會に臨む――江戸堀一丁目小西に投宿。
  五日 晴
 午前、大阪商船會社へゆく――十時半、三越呉服店へゆく――日本ホテルに於ける三越晝餐會に臨む――午後一時梅田發神戸下車、湊川神社參詣――三時汽船香川丸に乗る、大阪商船會社内航部岡本氏同行――九時高松着、古新町角田に投宿。
  六日雨夜大風雨
 午前九時、高松發、俥にて屋島に向ふ――雨中登山――屋島寺寳物及雪庭を見る――山上可祝支店に晝食――午後三時下山、王墓、柏屋へ投宿。
  七月 快晴
 志度寺寫生一枚――志度寺にて晝食――多和神社に神官松岡氏の藏品を見る――午後高松へ歸り、栗林公岡參觀――角田に泊る
  八日 晴
 栗林公園寫生二枚――公園掬月亭にて晝食――新常盤に於ける高松有志の歡迎會に臨席――角田滞在
  九日 晴 曇
 午前二時發汽船にて、中川、渡部、吉田三氏中國方面に向ふ――八時、、津田にゆく――津田松原寫生一枚――掛鯛に投宿。
  十日 曇 雨
 午前、松原寫生一枚――掛鯛滞在
  十一日 雨 晴
 午前、掛鯛出發――高松角田に晝食――午後多度津に向ひ花菱へ投宿。
  十二日 晴 曇 雨
 多度津硯岡山寫生一枚――午後善通寺見物――琴平公園、花壇に一泊。
  十三日 晴 夜分雨
 琴平社務所に寳物を見る――金比神社參詣――牛後多度津へ歸る――川口寫生一枚――夜十二時厦門丸乗船今治に向ふ。
  十四日 雨 霧 曇
 午前四時今治着、順成舎へ投宿――午前城趾見物寫生一枚――城趾小樓にて今治有志と共に晝食――午後海岸寫生一枚――順成舎滞在。
  十五日 晴 烈風
 午前九時、桃山へゆく――橙の木寫生一枚――桃山にて有志の人々と共に晝食――來島瀬戸を見る――今治市中見物――夜分華山に於ける今治有志の歡迎宴に臨む――順成舎潜在。
  十六日 小雨 風
 午前九時、第十宇和島丸にて高濱に向ふ――午後一時半高濱着――汽車にて道後にゆき、鮒屋へ投宿。
  十七日 雨
 午前、道後公園及附近見物――午後、松山市中見物――郡中五色濱を見る――鮒屋滞在。
  十八日 晴
 午前、道後石手川岸にて寫生一枚――午後、松山城天守見物――夜分、伊豫鐵道會社長井上氏の招待により晩餐會に臨席――牧野氏來着――鮒屋滞在。
  十九日 晴 時々小雨あり、風つよし
 朝、小杉氏出發――午前、森松へゆき寫生一枚――夜分、松山市共進會協賛會主催の歡迎會に臨席――鮒屋滞在。
  二十日 晴
 午前、松山新立橋寫生――午後堤上寫生一枚――木屋町附近寫生一枚――夜分、大阪商船會社高濱支店主任國安氏の招きにより別荘に於て晩餐を共にす――岡本氏來着――鮒屋滞在。
  二十一日 晴 曇
 午前、道後出發高濱にて寫生二枚――高濱城戸屋支店投宿――牧野氏及岡本氏出發――河合氏來着。
  二十二日曇雨
 午前九時、第十一宇和島丸乗船、午後六時別府着――別府日名子投宿。
  二十三日雨
 朝、岡本氏來着――別府濱脇温泉場見物――不老泉にて畫食――日名子滞在。
  二十四日快晴
 午前、鐵輪温泉見物――海地獄見物――鐵輪富士屋にて晝食――午後柴石温泉及血の池地獄見物――寫生一枝――日名子滞在――タ刻、河合氏來着
  二十五日晴
 午前、石垣にて寫生一枚――正午、渡部吉田兩氏來着――午後別府公園及觀海寺温泉見物――扇山寫生一枚――夕刻、滿谷氏來着――不老泉に於ける別府有志の歡迎會に臨む――石川岡本兩君出獲――日名子滞在。
  二十六日 快晴、風あり
 午前八時、車にて日出に向ひ、同町より汽車に乗る――午後四時半門司着――五時門司にて汽船武庫川丸に乗る。
  二十七日 晴 風つよし
 中國方面の景を見てくらす――午後六時多度津着――多波津大阪商船會社支店主任白石氏高松迄見送らる。
  二十八日 晴
 午前七時半、大阪川口着――三越、桑田、並びに松原氏を訪ふ――午後、堂島松代氏宅に於ける日本水彩畫會大阪支部の批評會に臨む――御靈文樂座に攝津大椽の浮瑠璃をきく――夜八時梅田發の汽車に乗る。
  二十九日 晴
 午前九時四十分新橋着。

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