寫生地案内

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

三脚子
『みづゑ』第七十六
明治44年6月3日

 六月は所謂梅雨期で、中旬頃からよく雨が降りたがる、日本海に面した海岸は、秋は雨が多いが初夏には天氣がよく續くといふ、遠く遊ぶことの出來る人は、越後秋田の方面で殘雪の山を寫すのも面白からう。
 雨の多い時には、雨の景色のよい處へ往くべしだ。雨中でも、家の軒下や、宿屋の二階、または大きな洋傘があれば、寒い時分ではないから寫生は出來る。
 雨景の佳いのは水郷だ、霞ヶ浦沿岸なら何處も繪になる、潮來のあたりは、唄にもあるやうにアヤメも咲いてゐやう、十六橋の下を舟でゆく心持もよいが、その橋のほとりから、廣い水を見た感じは惡くはない。町の裏の稻荷山へ登れば、枝振のよい松を前景に、パノラマ的の繪も出來る。
 水國の緑りが雨中に烟る。その感じは霞ヶ浦何處として惡い處は無いが、浮島の邊は特に趣があるやうだ。松原のよいのもある、漁村のさまもよい、小舟の往來、網干す樣など、實に晴れにもよく雨にもよい、
 古渡邊に來ると、景色は少し異つて狹くはなるが、整つてゐる。水溜りに多くの家鴨の遊ぶ圖、長い橋に夕陽、柳のみだれ、そのやうなものが畫題となるであらう。
 霞ヶ浦の沿岸にゆくには汽車は佐原迄か土浦迄で、それから先は、汽船もあれば和船もある、小舟を雇つても僅かの賃錢ですむ。宿はどんな寒村でも一二軒は在つて、有名な物價の安い處だから幾日でも氣樂に旅が出來るであらう。

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