三脚物語[第八回]
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
汀鴎
『みづゑ』第七十六
明治44年6月3日
僕の同類は近來いよいよ殖えて來た。この間靜岡へ往つた時は、汽車のボーイが腰掛けに使つてゐた。京都の圓山には花見茶屋で客用に置いてあるとの話だ。いまに宴會にも用ひられるだらう、散歩にも携帯されるだらう、吾が一族は到る處の家庭に備へられるやうにならう、三脚萬歳と大呼したい。
大阪の某君は、三脚の廢兵院を作れといはれた。臺灣の石川先生は、曾て三脚の折れた時に、多年の功勞を思ふて、知友を招いて三脚祭りをしたとの事だ、このやうに敬意を拂はれるとなると、僕等も一層忠勤を勵まねばならぬ、將來は年功加俸や、養老金もつくことにならうかと樂しんでゐる。
僕がお喋りを初めて以來、主人のお供で田舎へでもゆくと、『みづゑ』の讀者諸君に『へーこの三脚てすか』とか、『これがあんな皮肉を言ふのですか』なんて、しげしげ見られるのて閉口する、止しても貰ひたい、きまりが惡いぢやないか、中には『實に面白い』なんてお世辭にも褒める人かある、いよいよ恐縮だね。
それはそれとして、今度から、今の世に時めき給ふ洋畫家諸先止の勉強時代を少しお話したい、中々面白い事實があるのよ、それには、主人が繪を始めたころの事情を語つて置かないと分るまい、少し長くならうがまア辛抱して聴いて下さい。
二
僕の主人の少年時代は、ムッツリの病身の、おとなしいといふよりも寧ろ氣の弱い意氣地なしで、神田の小學校へゆくころ迄阿母さんの跡を追廻してゐたさうだ。大勢の中で遊ぶことが厭さに、いつも家の中ばかりに居る。床屋へゆくことが大嫌ひで、髪の毛を長くし、机にこびりついてくさ草紙の挿繪のすき寫しなンどして日を暮したもので、お母さんが近處のお友蓮にお小遣をやつて、毎日遊びに出した程、それ程内氣であつたのだ。五ッ六ッの頃は、人から女の兒とさへ間違へられた位ゐ、まアクスクスした陰氣な好かない子供だつたのだらう。
九ッの年に阿母さんに死なれてから、一層弱蟲になつた。獨樂を廻したこともあらう、紙鳶を揚げたこともあらう、相撲をとつたこともあつたらうが、それは極めて少しばかりで、あとは例のくさ草紙と首つ引だ。學校ではよく繪を描いて友達にやつたさうだ。
主人の阿父さんといふ人は、福澤式に、人間は何でも出來ないといけぬといふ意見で、主人が小學校を出た後は、家事萬端一切をやらした。帳つけもさせた、家賃や地代の取立もさせた、借金の言譯もさせた、廣い地面があつたので、畑仕事といふ程ではないが、豆を播いたり芋を掘つたり、そのやうな事もさせた。薪も割らした、飯も炊かして見た、家には乗馬が飼つてあつたので、その世話さへもさせられたさうだ。
主人はこの間に、普通學講義録によつて、所謂中學程度の學問を獨習した、英語の獨習もした、主人の志ではなかつたが、東京法學校といふのに入つて、二年ばかりボアソナード先生や富井田尻等、法律家の講義も聽いた、何の罪は刑法の第何條にある位ゐのことは暗誦してゐたのであらうが、元來が權利義務を爭ふべき性質ではないのだから、あまり勉強はしなかつたらしい、それに家の事情が勉強を許さなかつたかも知れない、日曜日は家の用をするための日で、學校が午後からあるのは、午前中はやはり家事を手傳ふべきものだとば、阿父さんの意見であつたから堪らない、自我を立つることを好まない主人は、親孝行といふ意味でなしに、この命令に從つてゐたのであらう。
三
その頃主人の家では、陸軍の御川達をしてゐた。主人の家は大河内家の馬の師範をしたことがあつて、馬にに縁がある、陸軍省へ地方の軍馬育成所から馬が着く時、假りにそれを預る、馬糧を納める、附添の役人を泊める、まアそのやうなうるさい商賣をやつてゐた。御用達といつたとて、主人の家風は少しく他と異なつてゐた、元來主人のお父さんといふ人に、非常な短氣で、正義一遍の人だから、役人に頭を下げることをしない、間違つた理窟なら身を投げ出しても爭ふ、偶々コンミツシヨンなど請求する士官なンどがあると、頭から叱りつける。主人の姉が幼少のころ、父から算術を習つた、覺えが惡いといふて叱る、それを見てゐた同藩の某が、幼いものにそのやうに言ふのは無理だと中言したら、父は赫と怒つて、自分の子を自分に教育するに他人の入らざるお世話だと、突如床の間の大刀を執つて某を追廻したといふ、さういふ逸話のある程、氣短かの人であつたから、こゝの親爺は別物だと、陸軍部内で評判された、それか却て信用をまして、役所へ往つても普通の商人溜りでなく、奏任應接室といふやうな處で用達するといふ風で、多少の尊敬をうけてゐた、そして可なり手廣く仕事をしてゐた。
主人は此業を繼ぐやうにと、お父さんから言はれる、親類もそれが安全だといふ、けれど、主人は雜穀の仕入に商人と掛引することを好まなかつた、七面倒な請求書や請取を何通も書くことを好まなかつた、たとへ普通商人並の待遇では無いにもせよ、役所へ往つて頭を下げることを好まなかつた、家賃の取立に延期の申譯をきくのも辛かつた。勿論こちらからの借金の言譯は猶更厭であつた、一日も早くこのやうなうるさい境遇から抜けたいとばかり思つてゐたのであらう。
主人の家庭の事情も面白くは無かつた。綴母といふものは、いかに優さしくいかに親切な人でも、其子にとつては實母より善い筈が無い、まして優しからず不親切であつて見れば、そして其子が内氣の意氣地なしであつて見れば、その上何の慰籍も樂しみも前途の光明も認められぬ境遇であつて見れば、主人たるもの豈ヒネクレざらんとするも得ぺけんやではないか、僕も時々このころの話が出ると、同情の涙が吾れ知らず眼に溜まつて來るよ。
四
主人が繪でもつて身を立てやうとの志を起したのは、明治二十二年の春で、そのころは日本畫に頭が傾いてゐたらしい。淺草あたりの寺てよく開かれた展覽會へ往つて繪を見ることを樂しんでゐた。日本畫の書物も買つた、畫帖も寫した、歴史畫が好きで松本楓湖の寫眞など持つてゐた。次いては國民新聞によつて、久保田米僊の挿繪から感化され、そのやうな畫風も好きであつたやうだ。
考へが洋畫に移つたのは二十三年の博覽會を見てからだ。その時の博覽會は中々盛んであつて、本多先生の『羽衣』、五姓田先生の『苦闘』?原田先生の『観音』、其他有名な出品があつた。
明治美術會の起つたのも此頃からで、中にも原田先生の作に感心して、未來の師と心に誓つたさうだ。
しかし、家の事情は容易に主人の志を果さしめなかつた、十二色入六十錢といふ繪具箱を、神田の文房堂から買つて、雜誌の挿繪に彩色したり、または小説や新體詩に耽つて、謳つたり作つたりしてわづかに悶々の情を慰あてゐた、其間には最愛の姉も亡つた、健康も勝れなかつた、毎晩涙に枕を濡らしたこともあつた、家を出奔しやうとしたことも幾度か、果ては自殺さへ企てるに至つたとの話だ。今の樂天的な暢氣な主人の前半世に、こんな悲慘な事實があらうとは、僕にはどうしても信ぜられない。
五
春と秋の家業の多忙な時を除き、毎日半日宛の時間を貰ふやうになつたのは、主人にとつてはいかに嬉しい事であつたらう、主人は早速原田先生へ手紙を出した、十日過ぎても返事が無い、すうと知人に中丸先生を知つてゐるものがある、紹介してやらうといふので、其方に通ふことになつた、それは實に明治二十四年の夏で、主人が二十二歳の時である。
主人はこの時のことを次のやうに語つてゐる。
其時分は美術界の有樣など、何が何だか分らず、繪に風景と か人物とか、それぞれ專門のあることさへ知つてゐない、誰 れが上手なのか下手なのか、それも一向不案内、その上、畫 家の住所などを調べるのにも容易では無かつたから、繪を教 へる處とさへ言へば、無我夢中に飛込むだので、今日から思 ふと、實に一世紀も前のやうな氣がする。
そんな工合だから、主人の就いた先生が肖像畫の大家であるといふことは後に知つたので、またその肖像畫が主人の趣味に合ふのだかどうかといふことも、主人自身でも知らなかつたことと思はれる。幼稚といへばそれ迄だが、當時社會の事情がさうだから止むを得まい。
主人の日記を鳥渡拜借する。
七月二十二日
少しく雨ふる。山島氏の紹介駅を携へ、神田仲猿樂町に中丸 先生の邸を訪ふ。昔しの旗本屋敷の跡らしく、堂々たる構へ なり。左の方に白壁の土藏あり。玄關脇の格子戸ある處に立 ちて案内を請ふ、やがて先生の居間に導かる。廣き座敷三間 程開け放ちあり、?間には水彩油繪の額など懸けつらね、床 の間にも半成の油繪あり、卓あまたありて骨董品の數々も並 ベり、かなたに寫生用の男女模型あれば、こなたには石膏大 理石の半身像立てり、庭はこのあたりとしては手廣く、池あ り、蓮の花咲けり、美はしき薔薇軒をめぐりて植えられた り、別の世界に入りし心地せり。
師とたのむ方は五十あまりの痩せたる人なり、いろいろと油 繪のこと話さる、吾れ歳二十二、あまりに晩學にもやと氣遣 ひ問ひしに、師は三十才にして油繪を習ひ始めたりと答へた まへり、今は夏休なれば九月より通學することゝして辭し去 る。
六
こんな次第で、主人は九月から中丸塾に通ふことになつた。通ふこと極まつたあとで、原田先生から手紙が來たが、跡の祭りで何にもならない。
この時分に西洋畫の塾を開いてゐるのは、小山先生の不同舎、原田先生の鐘美館、曾山先生の家塾位ゐのもので、二三の門弟を養ふてゐた人は、他に少しはあつたらう。そして世間の口の端に上つた大家といへば、小山正太郎、松岡壽、原田直次郎、山本芳翠、五姓田芳柳、本多錦吉郎、淺井忠、加地爲也、曾山幸彦、安藤仲太郎、河村清雄、まアかう言つたやうな人達であつた。
家塾といつても今の研究所とは大ぶ異ふ。不同舎が一番盛むであつたが、モデルは皆な着衣の半身、又は顔だけで、裸體などなりてもなけれは、畫く人も無い。鐘美館、曾山塾、何れもモデルは使つてゐたが、今のやうに周旋屋はない、生徒が常番で、順次自分達で探してあるくのだ、そして談判してモデルにするので、半身四時間十錢位ゐのものであつた。單り裸體のモデルを使ふことの出來たのは、山本芳翠先生の塾で、何でも唖の娘を一ヶ月五圓で傭つて置て、着衣や、裸體や、自由に製作又は研究の材料に使つたとの話だ、併し精しいことは知らない、何分僕が此世に出ない前の事だから。
裸體のモデルを使ふことが出來るやうになつたのは、是から五年もたつてからの後で、それも半身か又は腰巻をしたものだ、胸の肉色がよいなンて喜んでゐたので、腰の線の美は味はうことが出來ない。美術學校でも同樣であつた。赤坂の何とかいふ待合の娘が、美術學校の歸りに、ある畫室へ二時間程づゝ來たことがあるが、其時のモデル料は、たしか一回一圓位ゐであつた。
今から思ふと裸體は高い。何だか話がモデルの方へ外れて來た、モデル談には可なり面白いことも知つてゐる、機會があつたらまたこそ語らめ、本丈へ戻り。
七主人が最初に通つた中丸塾では、モデルに使はなかりた、工部大學かち拂下げた墨繪の臨本を、コンテイで模寫するのだ。模寫連は四五人居た。主人と前後して入學した人もある、油繪をやつてゐる人も二三人に居る、別室には女の生徒も居た。寫生といふことは誰れも爲ない、油繪の人は寫眞を見て想像で着色するのだ、かうしたものかと主人も一向不思議にも思つてゐない樣子だ。
別に稽古場といふものは無かつた、畫室は十五疊ばかりの大きさな奴が一つあるが、冬は寒く夏は暑いといふ、それに馬鹿に明る過る、若し戸外の子供が石でも投げると、天井の硝子が墮ちるといふので、誰れもこゝで勉強しない。一同は表玄關で畫架を並べた。八疊敷程だから隨分せまい。
生徒達はいろいろ先生の噂をした。先生は一度も教室を見巡はつてくれないといふ、輪廓や出來上りを見て貰ふのにも、極まつた日といふのが無い、先生の都合を見はからつてゆくのだ、若し機嬢の惡い日にでも出逢ふと詰らぬ小言をいはれる。其他さまざまの話もあつた。主人の師匠の惡口を言ふと叱られるから、これは此位ゐにして置かう。
主人は九月から、二ヶ月程稽古をして、三ヶ月程休むだ。家の事情が許さぬから詮方がない。休むでゐる間にも、手本を借りて來て暇々に勉強した、そして同輩より遲れまいと勉めた。
晝間は墨繪も油繪も、模寫か想像で畫くのであるが、夜の長い時分は夜學もあつた。その時は石膏像の寫生をした。晝と夜と二度分の辨當を持つて通ふ耆もある、主人は一度家へ歸つてまた出直した、その頃主人は本郷眞砂町に住むでゐた。
八
二十五年の二月に、主人は清水某といふ青年に知り合になつた。此青年は曾山改め大野塾の生徒であつたが、この一月に先生が死むだので、不同舎に通ふことになつて、主人の家の座敷を借りに來た。主人は此人から種々な新しい話をきいた、寫生を充分やらなければ上達せぬこと、戸外寫生の必要であること、大野塾では毎月研究會のあること、また廻覽雜誌も出してゐること等であつた。稽古の單調に倦むでゐた主人の心は大に動いた、續いて其人の手に成つたといふ寫生畫を見るに及んでは、一日も現状に滿足が出來なくなつた。
手初めに戸外寫生をやらうといふので、塾へ往って同志を募つた。先輩顔してゐる連中に相手にならない、あまり新參も話が合はない、相談に應じたのはKM君、HM君、JM君、KH君、で、主人と合せて五人の組合が出來た。
僕に、此時初めて京橋の伊藤といふ繪具屋から、主人の手に渡つたのだ。その時分繪具屋といへば、伊藤一軒と云ふてよい、文房堂は中西屋の隣りの、一間半間口の小さな店を出してゐたが、木炭や紙はあつた、水彩繪具も箱入が二三種はあつたが、油繪具は無い、三脚なども賣つてゐない、インキやペンを賣る普通の文房店に過ぎなかつたのだ。
伊藤にはカツパブラオンとの別名を持つてゐる番頭が居て、よく塾なり私宅へなり御用聞きに來たものだ。時々は拔賣もやる、よくない男であつたが、隨分燒芋の御使ひ位ひはして皆ンなから重寳がられた。