日記抄

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第七十六
明治44年6月3日

 午後、太平洋畫會展覽會出品鑑別のため谷中眞島町の研究所へゆく、油繪水彩合せて六百點に近く、それを一々見てゆくので中々昨間がかゝる。まづ誰れも異議のない佳作と、到底陳列に耐へない劣作とを區別し、其中間のものを幾度も討論して及落を極めた。
 いつも鑑査會で感することは、藝術品は感興によつて出來たものに價値の多いのは勿論ではあるが、素養の不充分な人の所謂ナグリ畫きは、素人は欺くことが出來ても、具眼の士には一顧だにされない。上手の人の不親切な繪よりも、下手な人の眞面目の製作に多く同情があり、また眞面目といふ精神上の作用が確かに或者を語つてゐる。
 畫幅の大小といふことは、少しも其繪の美術上の位置に差等は無い、五尺六尺の大作で可なり努力されたものでも、其樣式が古かつたり、取材が惡かつたり、調子が整つてゐなければ、再考迄も無くどんどん刎ねられるし、板寸や八ッ切九ッ切の小作でも、面白いものは異議なく及第する、實際いくら大きくても、貰つても困まるものもあり、小さくても金を出しても欲しいものがある。かうなると大きなものを畫くのは損で、時間も入らず骨折も少ない小さいもの、方が及第も爲易いし大に都合がよいやうではあるが、併し、これは大きなものを纏める力のない人が、無謀の試みをしたり、また共力があつても、用意の缺乏から仕事に不親切な場合であつて、大きくて立派な出來であるならば、無論小作よりも人の注意を惹くことも多く、すべてに於てそれだけの報酬に受くる譯である、小さな繪の方が得だといふて、大作を輕むずる風は助長したくない。
 鑑査に立會つた人は五六人であつたが、それ等の人々の共通の意嚮として察するに、取材に新らしみがあり、調子が極端でなく、色調が大膽で、筆の伸々したゴマカシや輕薄氣のないものなら喜んで歡迎したので、それに反對のものに好まれないのであつた。
 今年の太平洋畫會に陳列さるゝ油繪水彩四百餘點、そのうちには甚だ面白からぬ作も少しく混つてゐるが、これは其現はれた成績よりも、筆者其人に對する事情、タトへば今年出品が出來ぬと國元から送金が絶えるとか、非常の勉強で多数の鑑査を受けたので、其中から特に一點だけ取つたのだとか、又は遙々遠方から送り越したゝめにとか、多少の事情附である。鑑査といふことを嚴密に解釋すると、此やうな事は出來ぬのであるが、そこに私立團體たる一の自由があるので、深く咎むることではあるまい。
 鑑査が濟むでからカタログ調製にかゝつた。私はその方の委員といふのではないが、手傳ふことにした。一々出品目録と引合せて番號をうつてゆく、それを清書して活版所へ廻はすのである。番號だけて夜が更けたので、更に明日を期して十時過雨中を歸つた。(四月十七日)
 午前、永地邸にゆきカタログの清書をする。夜分は彌生町新海邸に太平洋畫會展覽會の招待状發送の手傳にゆく。年々五百有餘の招待状を發して、當日參會さるゝ人は僅に五分の幅にも滿たない、サロンなどでは、開會第一日の招待を受けないのは、不名譽としてゐる、また此のサロンを見ないと、交際場裡に幅が利かない、それゆゑ當日は會場前は馬車自働車で見動きも出來ぬやうな騒ぎである。吾國では、文部省の展覽會すらまだ左樣はゆかぬ、美術に注意を拂はない世人の罪か、注意するやうな製作を澤山出さない美術家の罪か、恐らくは双方に罪があるのであらう。(四月十八日)
 春まさに老ひんとして、吾が庭園は一年のうち最も艶麗なる色彩を呈してゐる。白き紅き紫の躑躅、うす紅ゐの乙女椿、ゆかり色濃き木蓮の花、柿や楓や樫欅の新綠と、うち混りて目が醒めるやうに美はしい。江戸川を越して、遠く早稻田より矢來あたりの木々の梢は緑りに烟りて、醜いトタン屋根は日に日に隠れてゆく。
 

村端(鉛筆畫)友金暉泉筆

 私は冬よりも夏の方が好き、春よりも秋の方が好もしいが、前庭の眺めとしては一年中で一番この頃を嬉しく思ふ、百合や、桔梗や、菊、月見草、そのやうな草の芽の、日々に勢よく伸ひてゆく有樣は、たとへやうもない愉快を覺えるのである。(四月十九日)
 繪の陳列のため朝から上野の展覽會々場へゆく、水彩畫の部を受持つて配置をする、掛ける間數は去年より少なく、陳列すべき繪は去年より多い、押すな押すなの勢で賑やかではあるが、體裁はあまりよくない。會場は出品數の多少によらず限られてゐるのだから、今年のやうな場合には大に困る』終日起立詰で腰が痛い、塵埃は舞ひ起ちて大掃除の時のやうだ、展覽會を開いてお客樣の御覽に入れる迄の内部の混雜は一通りのものではない。(四月二十一日)
 朝から上野へゆく。午前に番號札をつけ、會場の整理をする。午後は招待會で、知人が澤山來られる。招待日の參觀者は年々其數を增してゆくが、本年は特に多數であつた。一般によい印象を與へたらしく、委員連も一同滿足してゐた。
 水彩畫室のうちの大部分に、日本水彩畫會の人達の製作である、日本水彩畫會がこれだけの成績を學げたことはまことに喜ばしい。ある人は、其畫風の一々異なり、個人々々の特徴がよく現はれてゐるのを頻りに賞讃された。教場に於けるデッサンを喧ましく言ふて、戸外の寫生は各自の自由にやらせてある、研究所の方針が適當であることを確かめ得た。
 夜分、部下の新聞美術記者數氏を招いて、精養軒で晩餐會を開いた。吾國洋畫界の二團體の一なる白馬會が解散したについて、一應太平洋畫會今後の態度を告白すべく、私が其選にあたつて起立することになつた。
  吾が太平洋畫會は、年々幾分の發展をして、展覽會に於ても 漸々良好の成績を擧げつゝある、これは世間の氣運が然らし めたのであらう。また新聞雜誌に從事せらるゝ諸君の同情も 力あることであらう。また會員自身に於ても隨分努力した事 と思つてゐる。猶此外に白馬會といふものがあつて、多年技 術の上に競爭をして來た、それ等が太平洋畫會をして今日あ らしめた重なる原因であらうと思ふ。
 然るに、其原因の一なる白馬會は突然解散せられた、それに ついて世間のあるものにいろいろの説を吐いてゐる。白馬會 が解散したから、太平洋畫會も解散するのかといふ人、今日では毎年公設展覽會があるから、私立團體の展覽會は必要が無いといふ人、個人展覽會を盛んに開けば、各自研究の結果を發展するに不自由のないといふこと、其他にも説があるやうだが、第一白馬會の解散に白馬會の自由であつて、太平洋畫會は別に關係がない。第二の公設展覽會といふものは、言はゞ本場處の相撲のやうなもので、それもたゞ幕の内だけの取組に過ぎない。現在東京に五六ケ所の研究所があつて、百人宛の生徒が居るとして、それ等の靑年の、年々の製作といふものは、たゞ百點か百二三十點より陳列することの出來ない公設展覽會に入る餘地が無い。また公設展覽會では、自然大事をとる人が多く、引分や八百長が無い迄も、面白いものが比較的見られない、活氣のある仕事はどうしても私設の展覽會に頼らなければならない、靑年作家の奨勵のためにも、大家連の研究發表のためにも、私設の展覽會は必要である。
 本場所のほかに花相撲もあつてよからうと思ふ。第三の個人展覽會といふものは、面白くもあり有益でもあるが、比較研究といふことが出來ないから、技術上の利益が無い。それに會場も得惡いし、費用も多くかゝり、其上觀覽者が少ない。
 好事家か知友位ゐに限られて、言はゞ御庭相撲のやうなものである。美術趣味普及といふ意味から云つても、さしてよい結果は生まない。要するに、現在太平洋畫會が採りつゝある方針は、美術趣味の普及、技術の進歩、其他の點から見ても最も適當のものであると信するから、將來も此方針で進みゆき、白馬會の分迄も働いて、本邦美術界のために貢献する積 りである。云々。
 散會したのは九時過てあつた。(四月二十一日)
 午前自宅の稽古をすませ、午後から研究所へゆく。デツサンのコンクールあり、岡氏と共に撰抜をする、進歩に著しく見えるが、頭がよければ足が惡いといふやうに、兎角部分的になつて困る。
 月次會に集まつた人達に種々話をする。『近頃洋畫を學ぶ靑年間の惡風は殊に甚しい、幸に此風潮は吾が水彩畫會研究所には入つて來ないやうだが、萬一それ等の惡傾向が侵入して來て、諸君がそれにカブれるやうなら、吾々はいつでも此研究所を閉鎖して仕舞ふ決心だから、苟くも此處で學ばうといふ人は、眞面目に勉強されたい。美術書生といふと、何か特別な自由でも與へられてゐるやうに思つて、甚だ破廉恥な所爲を得々と行つてゐる人もあるが、巴里あたりの美術學生の放縦といふことは、事實無いのではないが、何れも無邪氣であつて飽どく無い、陰險でない。元氣に遊ぶのは寧ろ勸めるが、モデル相手に穢ない空氣の中で耽溺するなどは以ての外であらう、諸君はそのやうなデカタン風に感染せざるやう、各自警戒して欲しい』云々。(四月二十三日)
 

瀬戸内海丸山晩霞筆

 小閑を得て妻と共に日比谷公園へゆく。江戸兒の東京見物で、日比谷の躑躅の盛りを見るのは今日が始めてゝある、門を入つて其埃りだらけの花を見た時、甚だ殺風景なのに驚ろかされた、少し風のある日はグラウンドの砂が舞ひ立つて、少時も園内に居られないといふ、東京のやうに風のある處では、砂を小砂利に代へたなら少しはよからう。躑躅の赤いのは卑しいもので、久しく見てゐられない、白い中に僅かに混れるのはよい、赤のみでは決して美觀とはいはれない。
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 八官町吾樂に、畫報社主催の小品展覽會を見る。案内状には畫と共に會場も見てくれと書いてある、成程會場は狭いけれど氣が利いてゐる、個人展覽會場として最も適當であらう、バックの布も色に面白い、凡てが洒々として心地がよい。
 陳列された所謂小品には、印象を受けたものは一つも無かつた、小さい故ばかりでなく、何となく散慢であるためだらう、所々には、やゝ大きな骨折つた作も交つてゐたなら、比較が出來て小品の面白味が一層よく分つたらう。
 繪畫のほかに彫刻が數種ある、石井鶴三君の木彫東北風俗は、奈良風の荒彫で刀が面白い、欲いと思つた。
 階下にほ小道具の類がある、參考品には趣味の深いものがある。
 時々は見にゆくのによい處だ、展覽會として格別の感じは起らなかったが、吾樂といふ建物からは快よい印象を受けた。
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 歌舞伎座の春狂言を見た、月曜といふのに非常の大入で、よい席は得たが、場處が狹く苦樂相半した。
 私は新派よりも舊劇を好む。新派の劇を見ると、何だか自分が舞臺に立つても出來さうに思ふ。あすこはあゝしたいと物足らなく思ふこともある、種々な希望も起る、併し、舊劇、特に時代物や所作事など見る時は、たゞ美しいといふだけに滿足して別に其の動作の上に望が起らない、馬鹿々々しいと言ふ觀念は起らずに、相應に愉快な感情のもとに、舞臺に向ふことが出來る。
 吉野拾遣の二幕目、芝翫の伊賀局のスタイルはよかつた。中幕勘進帳では、段四郎の辧慶の運動の烈しいのを見て、役者といふものは中々勞働するものだ、さぞ暑いことだらうと同情した。
 仁左衛門の沼津の平作は手に入つたもの。大切五人男の、羽左衛門の辨天小僧は、お嬢さまから菊之助に變る時、亂れた高髷に、緋縮緬の長襦袢、片肌抜いで赫し文句を並べる處は、悽艶譬ふるに物なしであつた。
 日本劇場の短所は、座所の不便と、開演時間の長過る事だ。有樂座や帝國劇場のやうに、椅子でなくともよいが、も少し窮屈で無いやうにしたい、また時間も、せめて四五時問で濟ませてほしい、組合せによつては半分見て歸るのも殘念なり、不殘見るとなると、一日暇潰しの上に少なからず疲勞を覺えるのである。(四月二十四日)
 常番で、午後から展覽會へゆく。母子らしい婦人連の客が、一枚の水彩畫を買つた。アメリカあたりで繪を買ふのは殆ど婦人といふてよい位ひだが、吾國では珍らしいことゝ思ふ、いづれポケツトマ子ーであらうから、高い繪でもなく、また好みの程度も婦人相應ではあつたが、とに角、こんな氣運になつて來たかと思ふと頼母しい心地がする。(四月二十六日)
 寫眞研究會の展覽會を見た、繪の會と比べると、色が無いのと容積が小さいのとて淋しい感じがする。日本人は墨繪を好むから、寫眞のあるものは歡迎されさうなものであるし、また其印畫の中には、繪も及ばないやうな、面白い位置や光線を捉えてゐるのがあるが、現左では寫眞を好むといふよりも、寫眞撮影を好むといふ側が多數であるらしい。私のやうな門外漢には、どの位ゐの程度に進歩したのか分らぬが、外國の製品に比べてまだまだ發達の餘地があるやうに思はれた。
 陳列品中に、萩生田文太郎氏の作を二三點見た、何れも構圖の上に群を拔いてゐる。氏に元來畫家で、現に太平洋畫會へも出品されてゐるが、遠慮の無い處、繪よりも寫眞の方が面白いその面白い寫眞の出來た原因は、やはり畫の素養があつたからであらう。
 畫家は寫眞術を學ぶ必要はないが、寫眞家は、少しでも繪の事を心得てゐた方が利益が多からう。
 (四月二十七日)
 太平洋畫會では、展覽會毎に、研究所生徒の作のうち、優秀なるものに奨勵賞を出すことになつてゐる。咋年は取り立てゝよい作が無いので見合せた。さて、今年になつて見ても、皆似たりよつたりで、所謂拔群の作が無い。ある人は、水彩畫研究所 の某氏の作を推薦したが、これとても比較的といふだけで、非常によいものといふのではない、それで、終に彫刻の部に賞が落ちて、堀進二君の老人の立像が其選に當ることになつた。
 奨勵賞は、單に其時の出來榮えがよいばかりでは與へられぬ、いつでも其位ゐの作は出來るといふ腕があり、且平素勉強家で、人格の上にも批難なき人に限られてゐる。奨勵賞は其場限りのものではあれど、一度此賞を受けたものは、會員の候補者として待たれるのであるから、容易に與へられぬ譯である。
 下谷の伊豫紋で開かれた評議員會で、奨勵賞のことを極め、更に新に評議員を選擧すべく打合せをなして散會した。(五月四日)
 朝、横濱へゆく、停車場に田中君が出迎はれる、ふりしきる雨の中を伊勢山大神宮前の新教場へゆく、敏場は寫眞屋の跡で、幼稚園と割烹の稽古場である。家は狹いけれど少數の會員には充分である。
 三ヶ月間の休みで會員の繪がタイブ溜まつてゐる。批評が濟むころ雨が歇むだので、前の太神宮の境内で寫生をさせる。
 横濱には遊園が少ないので、いつも伊勢山には人が集まる、今日も雨模樣であるのに均はらず、遊山の客が多い、寫生してゐる人達の周圍には見物が絶えない。
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 夜分、神田の教育會に開かれた山岳會大會に出席する。三角點の話、火山の話などあり。次に志賀重昂氏のピラミツドの話がある、其終りに、『久しく日本に居たチヤンバレー氏が常に言ふ事には、日本人は何れの方面から見ても敬服に價するが只一つ、何か仕事をしても、それが實益にならないと廢めてしまう、ブランコに乗つてゐる西洋の子供に、何のために乗るかときくと、面白いからと無邪氣な答へをするが、日本の子供は、運動になるからとか、消化がよくなるからとか答へる、これが缺點だと言ふてゐたが、實に量見が小さい、山に登るのに、何のためだ、何の利益があるなんどいはずに、どしくやるがよい』と。繪を畫くのにも、直ぐに利益方面から打算する人がある、味ふべき言だと思つた。(五月七日)
 三宅克巳君の歐洲滞在中のスケツチ展覽會は、先頃交詢社に開かれ、多數を賣却したが、更に三日から十日迄吾樂で開かれて ゐる。私は一々招待を受けてありながら、毎日忙しいので見にゆけない、最も畫は三宅君の畫室で拜見したが、額像に入つたのを見たいと思ふ。
 三宅君のスケツチについては、賞する人もありクサす人もある。また、畫風が變つたといひ變らぬといふ。私の考は前にも言つたが、畫風は變るまいが、場處の感じの相違で變つたらしく見えるのであらう。
 畫風の變らぬといふのは惡い事であらうか、畫風の變るといふのは進歩を意味するのであらうか、私はさうは思はない、私の考では、畫風は其人の個性の發現であるから、濫りに變るべきものでにあるまいと思ふ、また變ることを希ふものでもあるまい、たゞ其變らんことを欲するは、世人が飽きるからである、世人は畫家をしていろいろの事をさせて見度いので、一種の好奇心である。いま迄暗い繪を畫いてゐた人に、明るい畫を畫かして、どんな風に結果を現はすか見たいといふだのである。芝翫に勸進帳の辨慶をやらせたがるやうなものである。私は、畫風の變ることを望まない、タトへある刺激によつて、畫風が一變しても、いつかまたもとの個性に歸るのが常である、私の望む處は、其人の畫風は其儘でもよいから、益々其奥堂に入つて、他をして服さしむるだけの技倆を具へさへすればよいと思ふ』三宅氏は日本風景の水彩畫を携へて渡米し、それを賣つて歐洲に遊むだ最初の一人である。いままた、歐洲で畫いた繪を、反對に日本で賣られて、好結果を収めたとの事である。その爰に到つたのは、三宅氏の伎倆と社會の進歩とが然らしめたのであらう。(五月八日)

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