寄書 京城寫生
横田塔村
『みづゑ』第七十六
明治44年6月3日
風無く暖く四邊の山々紫に靑に彩られし四月の日、内地にありては岡の畑の菜花には黄白の蝶の舞ひ、輕き風は緑なす麥を吹きて海の如く、これただ海外の人に眼前に現はるゝ故郷戀しき念。
庭のポプラも漸く元氣附き來りしが、まだ梅も咲かぬ朝鮮ではあるが、今日は馬鹿に好い小春のやうな日なり。
南大門通りに出た僕は、路を長谷川町へと韓國銀行新建築場の左を辿つた。支那式の家屋が列んで居る、左側の芝土手に白壁の塀が廻つて、中には温かい温室の如き家の硝子屋根が太陽の光で美しく光つて居り、西洋舘の建物もあり窓とは赤ヘカーテンが引かれて、漸く芽を出して來た木は庭一帯に植込められてある、暖國の別荘の樣な家、門前には歩硝が立ち居る軍司令官の官舎であつた、其の前には大隊兵營があり、右側には廢宮があつて、高い五十の塔は寂しく立つて居る、露道に入ると紅燈軒を列らべた温突家屋、之れが京城の不夜城で長谷川町なり。
大漢門前に出た、質素な宮殿である、朝鮮の近衛兵が銃を持して二人哨して居た、此處は李大王殿下の宮殿なり。
此の宮殿は西署にあり、往時圓山大君の邸跡なりしと云ふ、正門を大漢門と稱して一度火災ありて再建せられたると聞く。
朝鮮式の石塀が園つて居る、塀の側を行けは西洋の繪などに好く見る橋門がある、左側には赤い煉瓦の洋舘と青く塗られた洋舘が建つて居、之れが度支部て、橋門をくゞれぱホプラ樹の林の如く茂りし處ありて、中に英米佛露の各領事舘が有る、所々のマストの上には各國旗が暖き肩の光をあびてダラリと下つておる。
右を見ると慶運宮の中に、御影石にて作られた、一見西洋の離宮の如き洋舘が、窓も暗い程に見える、仲々立派な家であると思つた、此處で李大王終日の勞を慰するであらうか。
足はいつしか領事館通りに入つて居た、ソレタケホテルと云ふ看板があつた、行くと西洋婦人が林中に逍遙するを見て、一種の印象を與へられた、西洋女の子を乳母車に乗せて來るのでスケツチ帳を出して寫した、女はジロジロ僕を見て過ぎた。
西大門に出た、門は小さいが天井の繪だけは他の門より明かに見える、火を掴みたる猛虎口を開いて何物にても來れよと後足にて立ちたる樣は面白く、昔時を想ばしめる、附近の城壁は崩れて石の間よりは茨が茂つて居る樣は五百年前を想はしめて亡國の悲しさが胸に迫る。
明治四十年に日韓協約發布せらるゝや、門外にありし朝鮮兵營に在りし兵隊は皆憤怒して武装し、門内に入るや反旗立てて我が軍に抵抗して戰ひし時は、我軍肉薄して門内に爆裂弾を投じ、突進して大ひに叛賊を破りし處、時に我が梶原歩兵大尉の戰死せし事は諸君の知る處ならん、爲めに城壁には機關銃及小銃の彈蹟を存ぜり、されど今は漸くにして昔時の面影を残すのみ、電車鍾路より來り此處を通じて麻浦に到る。
門を寫生して外に出つれば、右に舊朝鮮兵營、又我が砲兵隊の居リし處、左に西大門驛を遠く見て、道を義州街道に運べば、小山の上に洋館の散在するありて心地好く感ぜり。
獨立門及獨立館あり、門は正面に獨立門なる三字を記したる凱旋門の如き門なり、館は洋風にして、又韓家屋も存ず、亦僕をして此の歴史を語らしめん乎。
初め館を慕華樓若くは武二所と稱し、武料の登用試験所たりしことあり、後明使の口説に隨ひ門を迎恩門と改め、送迎を此の門に於て行ひたりしが、明治二十八年日清役後、全く淸國との關係を絶ち、獨立國を宣揚し、獨立門と改め、同時に慕華樓を轉稱し獨立館と爲す、更に傍に國民演説臺を設けて、專ら一進會の會場に充てたりき、街道を辿れば義州に到るなり。
歸りに慶熈宮を見る、西大門内にあるなり、來て誰れでも眼につくは高架橋なり、進み行けば則ち慶熈宮に到る、門前には總督府立中學校の看板掛り居れり、門内廣き空地にして、兒童の遊場となり居れり、裏の小山には小松茂りて、空地に唯一つの朝鮮家屋あり、左向に中學校の校舎聳ゆ、宮は本朝元宗の舊邸なり、光海君の建造に係りて、外壇の高さ二十五尺、五門を有せしと、現時は皆廢毀せられ唯前面の興化門を有するのみ、然るに、明治三十三年に及んで、慶運宮の後苑を造らんとして、宮壇を別所に改築し其所より此處に高架橋を架し虹橋と稱す。
(四月四日の記)
東大門附近朝鮮のことだから、花見の歸りではないが、四月軟風の吹く十二日に、スケツチブツクを懐に散歩かたがた出かけたのは光化門前、門内を見物する氣でもなければ。西大門に行く氣もない、西大門は前に見た。西門の方から電車が走つて來るので、萬歳門と云ふ石碑のある處から電車に乗り、朝鮮人の莨の香ひを嗅ぎつゝ、鍾路で下車し、大審院地方裁判所區裁判所檢事局と云ふ看板の門に掛つて、奥には石造の洋館がいかめしく立ち居れり。 僕の眼前には、すぐ靑い顏の罪人や髯顏の判檢事が現はれた、鍾路の十字街へ來た、此處は京城の中央に位して京城第一の繁昌地である、電車は此處を中點として南西東の兩三大門との分岐點ともなる處なり。街角に普信閤あり。之は俗に鐘樓と稱し、中に大鐘を釣るし置けり、今を去る四百年前の鑄造に係り、高さ一丈餘周圍二丈、往時之を崇禮門(南大門)に置きて、日出日没二回之を打鳴らし時を報ぜしと、後明將揚鎬更に此の樓に移したるなりと云ふ。僕小石を拾ひて鐘になげつければ『コアン』と微な響をなす。此の街京城の銀座なり、木綿紙類米穀が名高くして、鮮人禮式に用ふる諸道具は皆此處で求めるなり。電車にて東大門に走る、途中電氣會社を車窓に見れば、皇城基督靑年會の會館がある。正面の「皇城基督靑年會」なる六字は内地に遊學なされある李世王子の筆とか聞く。東亞煙草會社工場が在りて、盛んに莨を製造して居る、途中パコタ公園あり、鐵門を鎖して見物をゆさゞるなり、園内に温室あり、有名なる蝋石の塔ありて、十三層よりなる故、十三層塔と云ふ、此の塔今は十層にして、上三層は文祿役に我軍本國に持歸らんとして落せしも、重くして遂に意の如くならず、其儘放棄せられて今日に至れり。今を去る五百六十年前、高麗時代の荷物にして、佛像を各層各伯に彫刻しあり、内外人最も珍物となし居れり。又園内に龜碑ありて、花崗石より成り、十尺有餘皆上に大理石の碑を建つ、碑に龍珠な爭ふの状を刻す、横に「大圓覺寺之碑」なる六字を刻せり、碑文は鄭蘭宗の書にして實に四百二十年前の遺物なり。李王宮殿前にて電車を降り、門を見に行く。門前に歩哨二名居れり、宮を昌徳宮と稱し、昌慶宮の西北隣にあり、等しく太祖李成柱の建造なり、文祿の役に先だちて燒失せしを光海君の朝に至り再築したる物なりと云ふ、敦化門を正門とす、敷地頗る廣大にして大樹繁茂し、森をなす、三角山麓に位し、幽邃靜雅、然の風景に富み、加ふるに數堂樓門離亭連り、庭の中央に園池を造り、林泉四流龜竈郡をなし、多數の白鷺飛翔し、一度枝を闕内に曳けば歸るを忘るゝと云ふ、然し之は四年前の開放時であつて、今は觀覽を許さす、門を寫して歸りし。 亦電車にて東大門の市場に下車、門を入れば種々の商店は客を呼び引く聲面白し、田舎者の買物は甚だ好き所なり、マッチ石油が好く賣れる、次は米穀であると云ふ、樣々の顏をスケッチ帳におさめて、東大門の樓上に昇る、夕日正に没せんとして一分時光景絶なり。市中の眺めば一眸の下に集り、炊煙の市中に棚引きて、西大南大兩門方面は見えず、下なる發電所の機械の音荒々しく聞え、煙突より吐く煤煙は夕べの空に横はりぬ。そもそも門は今を去る五百年前、李朝の最初期に建て、二層樓よりなりて結構壮麗を極む。廢れし悲しさにに樓内惡書あり、板は取られ見る影もないが外部は依然として立派である、太祖李成桂の築く所にして、京城八城門の第二位にあれり、城壁は市を廻りて北漢山上に到る、門外は遠く山又山にして、夕陽に彩られし樣は筆紙に盡しがたし、門外近くに南廟あり、關羽を祭る所にして、文緑の後我軍の爲めに、朝鮮八道を蹂躪せられ、明の援兵により亡滅を支へつゝありしが、偶々豊太閤の薨するに際し、軍を引上げたるを、彼等は倭寇を國外に驅逐したるなりと爲し、明軍の聲言に惑され、是れ全く關羽遺靈の奇蹟なりと信じ、宮殿を建て關羽を禮拜するに至れり。北廟は惠化門附近にありて、南東兩廟に比し規模小なれど、諸般の設備南朝を模倣せり、先帝即位後或夜關羽を夢み、次で閔后も亦同一の夢を見玉ふ不思議により、此地を相し此の廟を建てしとあれど、南廟東廠は明兵の言に惑はされたるなり。 電車門外に走りて住十里に到る、途中並木柳ありて、附近一帯田畑、左に遠く北漢山の峯を見る、佳十里にて電車を降りて閔妃の陵を見るには、一道を山に入り、松松の間を進めば、煉瓦の綾守舎に到り、門を見る可し、門外に陵ありて、壇上に土饅頭の塚あり、此れ則ち閔妃の墓にして馬、虎、武人の石像を立てあり、附近一帯小松山あり、芝山あり、北、漢南山の兩山見えて風光美なり、僕は昨秋遊びて附近を寫生せり、詩人畫家の訪はん事を望むと處なり。 發電所の側に於て、興仁門(東大門)を寫して火葬場を過ぎて光熈門に到る、夕墓の火葬場に赤き煙空を見し時は、僕の心は唯恐ろしく感ぜられた、城壁は昔時の儘殘り居りて古城廢城哀愁の感を起さしむ光熈門外及城壁を夕陽彩りて、景のよさは筆に盡し難し。唯僕は、諸先生の早く朝鮮を訪れて、廢れし光景を寫されんこ とを切望する處なり。(四月十三日夜)