風景畫法 繪具
石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ
石川欽一郎
『みづゑ』第七十七
明治44年7月3日
繪具のことは凡て畫家各自の數寄數寄であるから。自分の考で一番良ささうなものを撰ぶのが宜い。今日行はれて居る畫の種類と云へば先づ三で。パステルと水彩畫と油畫とである。テンペラは今は全く廢れて仕舞ひ。フレスコは今では外に一層完全なる方法がある。
パステルも水彩畫も亦た油畫も。夫々特有の長所がある代はりに亦短處もある。其内でもパステルは最も面白味のあるものであるが、取扱が中々六つかしい。繪具の方にも種々缺點があるので、充分熟練した上でなければ能く此短處を避けて永久保存に耐ゆる畫を作くることが出來ない。永久不變と云ふことが美術品には第一の要素であるが。一體パステルは極めて脆いもので。フィキザチーフ(止藥)をかけるにも。後で結果がどうなるかと云ふことまで能く心得て居らぬと。繪具の表面が荒れて。折角のパステルの妙昧が無くなる。殊に畫面全體に厚くパステルを使ふやうな描き方には。是非とも止めて置かぬと落ちてしまう。若し薄くかけて外面の繪具は皆拭き取つて仕舞うやうな遣り方ならばパステルでも別に擦れる憂はないからフィギザチーフをかけなくとも宜いのである。
パステルの最も不完全なる點は段々褪色することであるが。之は繪具の製法が悪るい爲めであるから。充分信用ある繪具屋の品を使用することである。
水彩畫はパステルと同じやうなる面白味のある上に別段の缺點もない。永久に保存の出來ることはラフェールやレオナルドの畫稿を見ても克く分るのである。華やかに冴えた面白味は迚ても他の方法では出來るものではないが。併し此長處が即ち短處で。繪具は濃く着いたやうでも乾いてから薄くなるから、毎も不安心の氣もするが。之も追々熟練すれば色の調子を見るに大して困難でもないやうになる。尤も水彩畫は餘り調子の強い畫には向かず。又た深味と重みとが足りないから大きい畫を描くにば適せぬが。繪具に鉛分がないために、何れの色も安心して使へる上に永久に保存も出來るのである。
併し今日まで在る畫術の内では何と云っても油畫の右に出つるものはなく。叉た結果に至つても極めて好いのである。檜具の力次第で如何なる畫でも描ける上に、良いものを撰べば永久に保存も出來るのであるが。併し繪具の談になると未だ我々の理想までには前途遼遠である。
科學の進歩したる今日の時世に、畫家の用ゆる繪具はと云へば、依然十六世紀頃のもので。變色を氣遣ひ乍ら畫を描いて居る有様である。之には毎も議論が出ることだが。畫家が夙くに繪具の改良に就て一同主張する處でもあつたならば、今頃は既に完全なる色が立派に出來て居ることであらう。之は決して無理な註文ではない。近世の科學者の力では大して六かしいことでもなく鋼銕とか電氣とかを研究するから思へば何んでもない事で有らう。併し事柄が事柄であるから等閑に付せられるのは仕方がない。之を見ても畫家と云ふものゝ勢力の無いことが分かる。先づ意地で畫家として立たうと思はぬ人ならば中途で止めるやうなことにもなるだらう。甞て或る美術ずきの人があつて。之が十何人かの主なる畫家を招待して宴を開き。當夜の主賓は或る化學の大家で有つたが。此宴會の目的は畫家が何なりとも希望の事柄を此化學の先生に克く談して見たら宜からうと云ふことで。私も招かれて行つたのであるが。畫家は各自思ひ思ひの要求を提出し中々の騒ぎであつたが遂に何の得る處もなくして終はり。完全なる畫具の製造のことなどとうとう談す折が無かったのであつた。
夫れで。畫家が畫具の改良に就て希望があるならば之は畫家以外の方面から出ないといかぬ。幸ひにして此要求は既に現はれて居るので。世界中の印刷業者や染色業者などは熱帯地の烈しい日光にも耐へ。叉た洗濯しても酸性や亜爾加里性の爲めに變色しない染料を求めて居るのであるが。此要求に對して或る大なる彩料製造會社は百人からの熟練なる化學者を傭入れて研究に從事せしめた結果。赤色だけは漸く出來上つた。之は朱の十倍も力が強く。全く變化を受け無いと云ふのである。畫具としても在來の赤色畫具の代はりに充分役に立つ。
此會社では外に黄色と青色の良い色を今や精密に試驗中であるから來年あたりには之亦世に紹介されることであらう。既に赤青黄の三原色が出來れば之の濃いのと薄いのとの二色づゝ。それに黒と白とがあれば立派な畫具箱が出來上がる。混合色の橙。緑。紫共他の色は三原色さへあれば皆混ぜ合はせて出來るのである。
新しい畫具が製造されることは誠に結搆のことであるから一日も早く出來上るのを望むのであるが。併し今から當てにばかりするのも愚かなことであるから差當りは在來の畫具に依らざるを得ない。在來の畫具でも美事保存に耐へることは今まで傳はつて居る古大家の作品に就て見ても能く分かる。詰り使用する繪具の種類を克く吟味すれば宜いのであるが。危險の恐があるものは鉛の種類である。夫故鉛性のホワイトを使はぬことゝし。叉たクロームの類も鉛の質であるから使はぬ方が安全である。ホワイトはジンクホワイトならば危險はないが。此繪具は乾いてから裂れるのが缺點である。鉛の質の繪具は何故悪るいかと云へば忽ち硫黄性の感じることで。硫化すれば黒い茶褐色に變つてしまう。ウアミリオンとかカドミユムのやうな硫黄質の繪具と鉛性のホワイト又はクロームの類とを混ぜれば。硫黄質が烈しく感じるから。畫は褐色叉は淡緑色に變はるのである。
夫れ故裂れが出てもジンクホワイトを用ゆることゝするか。若し叉た鉛性のホワイトを使用するならばヴァミウオン。カドミュムの類の色を用ゐぬことである。エメラルドグリーンも銅から製するので矢張硫化する。近頃ヴァミリオンの代用として製造者の名を付けたハリソンレッドと云ふ安全な色がある。又たカドミュムを用ゐずとも他の黄色で充分間に合ふから。ジンクホワイトを用ゆるにしても叉は鉛のホワイトを用ゆるにしても。一處に使用して差支へのない色は澤山ある。殊に近年は。アリザリンから製するスカーレットとクリムソンとの種類も多く出來て之は全く安全なる色である。尤もアリザリンの緑色。アリザリンの黄色などは未だ全く安全とも云はれないが併し此色は夫程必要でも無いから搆はない。
先づ使用して大丈夫なる色は二十か三十はあるが。其内で何と何とを撰んだら宜らうかと云ふに。之は人々の數寄々々であるから。研究家は種々な色を使つて見てから一番自分に適する色を撰擇するのが宜いのであるが大體から云へば、紫とか緑とかの凡ての中間色は使用せぬ方が宜い。之には二の理由がある。第一は。中間色は自身に混ぜ合はせた方が畫に光の振動が克く現はれる。第二に。若し緑色の畫具があれば。何時も其緑色を使うやうになるので自然の極りなき變化のある綠色の研究が疎そかになる。要するに段々研究が積むと段々繪具の數が尠なくなつて來ると云ふのが技術上の原則である。大家は無用の繪具を顧慮する暇が無い。有名なる瑞典の畫家ヅォルンと云ふ人は只二色。ヴァミリオンとイエローオーカーのみを用ひ。色を強くしたり弱くしたりする爲め他にブッラクとホワイトを用ゐるのみであるが之でも决して自然の風景を描くに不便を感じないのみならず。其畫に對しても色が足りないとか弱いとかの批評を聞いたことがない。有名な畫家は大抵畫具を五種類位より用ゐては居らぬ。七種類以上を用ゐるやうでは最早專門家とい云はれず。素人畫家や畫學生の部類に這入つて仕舞ふのである。(バアヂ、ハリソン稿)