偉大なる畫とは何

矢代幸雄抄譯
『みづゑ』第七十七
明治44年7月3日

 普通世間で高尚なる美術と云ひ、下等なる美術と云ふで區別をして居る。此區別は随分漠然たるものではあるけれども、中に或る眞理を含んで居る。或物が只美しいと云ふ丈では足りない、同し美と云ふ中にも、高等なるものと下等なるものとあつて、畫家は自分々々何か美を表はしはして居ても、其畫家中に自から偉大な人と平凡な人と云ふ風な區別がついて行く様だ。此事をば今少しく研究して見やうと思ふ。哲學的な難かしい方法には由らずに、極平易に解説して見度い。
 一、崇高なる題目を撰ぶこと、――即廣き趣味と深き情緒を含む思想を題目とする事である。畫の偉大なりや否やは全く此に正比例する、神聖なる事を題目とする畫家は第一流に位し、偉大の出來事を畫きし者は第二流に、普通の生活を物するは第三流に、而して罪悪や暗黒面を好みて畫にする人は第四流にも、第五流にも、否、極底に位す可きである。是は何と云ふても否定は出來まい、自分の感じた通りを、表はせれば、其でよいには相違ないが、其感じ方の徑庭を奈何せんやである、而して藝術である以上、神聖な物に觸れるまで行つた者を第一に推すは詮方なき事ではないか、ウオヅオース機微を穿つと雖も、誰か彼をダンテに比しゲーテに比しシエクスピーヤに比するものがあらう、此所に注意す可きは其撰擇が眞摯な心の底から出たものでなくてはいかぬ、世上に宗教畫家や、歴史畫家が澤山に居るが、残念な事には此眞面目な所を欠いて居る、實際彼等は眞に、此高尚な美術を解して居るのだらうか、自分の見る所よりすれば其多くは己が虚榮心をインスピレーシヨンと間違ひ自分の野心を精神か偉大なりと己惚れ、且眞の理想が分り樣筈が無いので勝手な理想を作つて喜んで居るに過ぎない樣に見える。
 其から叉眞面目たると同時に亦其撰擇が警拔でなくては困る、眞の大人物の精神をも解り難ね、偉大なる事件に遭ひながら其意氣を悟れる頭のない者は自分は是にも大美術と努力しても要するに大畫家たる事は出來ないのである。斯る人は寧ろ身の程を知つて、自然界の現象を模寫でもした方が得策だらう。畫家が畫の題日を撰擇するに仲々其勝手には行かぬもので、非常に時代の影響と需要の傾向とに支配せられる、故に斯る場合に其畫を判斷するには、――即其作者の高下は、――畫者が其定められたる題目を、如何に取扱ひ畫きこなしたかに依らなければならぬ。
 斯樣考へて來ると、結論は次の如くになる、「高尚なる美術」の特性の一たる撰擇の高尚なる事は「題目の撰擇」に顯はるゝと同時に、亦「題目の畫きこし方」にも顯はれる、換言すれば、畫中の人物の思想を遺憾なく畫き出す事が第一であつて此技倆ありてこそ、畫家は、最も高尚なりと云はるることが出來るのである、若し斯る技倆なくして、且其構圖如何とか、人物の排置とかにばかり氣を揉みて、如何したら世間に氣に入られる畫が出來るかと苦勞をなして居る樣な畫家に取つては、思想を傳へ、精神を寫す等は分外の慾であつて、到底撰びたる題目の眞意味に入ることは出來ない、寧ろおとなしく、分相應な所に止るが宜しい、斯う云ふた所が畫である以上、精神を傳へるは第一義なりと云ひながら、其他の取柄も必ず有る可きで、畫家の技倆俊秀は此所に表はれる、美しく畫く事も出來ず、繪の具の用ひこなせないでは、畫家と云ふことも出來ない、況んや偉大な題目をつかむ等、思ひも寄らぬ、只傳神の才を具へた者が、斯る技倆を得た曉に始めて、自らは知らずして撰んだ題目に深き高き感情を見出し之を己が心を通して更に雄渾なるものとする左が出來るのである、前述の様に畫題の精神をば、躍らせるばかりに傳へると同時に、其作の隅から隅に到るまで、一片漫りにする所なく、畫家としての技倆を充分發輝して居るのは、古來、實に寥々、只古くしては、ラファイル以前の諸名家、近くしては、所謂、ラファイル前派の諸畫伯のみである。特にハントが「此世の光」なる畫は、傳神の術と云ひ、技倆と云ひ、古今未曾有の物と自分は信ずる。
 偖、ラファイル以後の畫家、及、近代の似而非なる高尚なる(題目を撰ぶ)畫家には、二つの大きな誤りがあつて、二派に分れて居る樣に思ふ、即(A)畫の技倆を重じたる爲に傳神術の大切なるを忘れたるもの(B)其と反對に精神を傳ふるのみを力めて、畫としての技倆を忘れたるもの。
 (A)技倆に重きを置きて、精神を忘れたるもの、――ベニス派の畫に最も明かに表はれて居る、尤も極めて、平淡にやつてあるので嫌味はちつともない、此派の畫家は、精神を傳ふる事は、全く輕じて、只形體とか、色彩とか、外形上の眞を捕へんに汲々として居る。ポールベルニースに、アグダレンが耶蘇の足を洗ふて居る畫をかゝせたら、きつと全く平氣な顔をして居る人を畫いて丁度、下僕が主人の足を洗ふて居る所其儘の様にやつてのけるであらう、偖、此樣なやり方の善いか悪いかを論ずるは止めて今はベニス派の作物は、最高の美術精神を傳へる美術の中には、入れられぬと去ふと丈を認めてくれゝばよろしい、しかし、普通此誤りはもつと、精微な、而も、もつと、危險な風に犯さるゝのである、畫家は、自ら「自分は今精一杯やつて居る、其題目を高尚なるものとせん爲に、畫の規則原則を着々守り、正確な、科學的智識を應用し、(自稱ながら)理想的な美をば其中に注いで居る」と思ひ込んで居るが是は、其實、自ら詐りて居るので、實際は、自分の虚榮自惚の爲に、題目を犠牲にしてしまつて、畫の生命とする、眞をも失ひ、品位をも失ひ、感動さす威をも失ひて、得る所は只、面白い線とか、畫が一寸氣がきいて見えると云ふ丈である。
(B)精神を傳ふるに努めて、畫としての技倆を忘れたるもの、――是とても亦一種の自惚虚榮から出たものである。近世のドイツの畫の大部分は此に属して居る、畫家は只高尚な精紳を有つて居ると云はれ度さに自から美術の普通の長所を輕蔑する風を粧ひ、自尊獨り高しとしてゐる、自身の想像、感情ばかりを見、周圍の眞實の事實を見るを肯ぜず、自分獨りは、所謂、やさしき情操、けだかき敬虔の中に住むでると思ふて居る何ぞ知らん、是只、自惚鏡に寫りたる己が有りふれた性質の弱點に過ぎないのである。
 しかし此所に毛色の變つたのがあつて随分眞面目な作家中にも此誤りをしてゐるのがある。自分は、或程度まで、精神を傳へる事は出來るが、同時に、素敵な技倆の俊秀を占むるには到底力が足りないと悟つて思ひ切りよく他の方面の努力は盡く捨てゝしまひ、畫の資格として、輕視出來ない、點や線を粗末に、且不注意にやり飛ばして專心、精神を傳ふるに計り懸命に努力して居る、一方に斯様なのが有るかと思へば他方には亦一群の學者肌の畫家があつて畫の技術的の價値は却て觀者の注意を外に引くから、精神を傳ふるに害ありとなして殊更に灰色がかつた畫を作り、明暗陰影まで朧ろげにして、己が考の純潔なるを示さんと試みて居る。是等二種の畫家は、心は正しいが、随分偏狭な考へを持つて居て、残念ながら「自から知りつゝ虚偽を畫くは决して許す可らざる罪なる」ことを忘れて居る様に思ふ、自分等が清新とか、威嚴とか、手加減とか思ふて居るものも少し自然に注意して居る者から見れば、厚かましき虚飾虚偽に過ぎないことを知らないで居るのだ、婦人の顔を畫いて、眞摯な表情をさせやうと其頬をば、落付いた灰色に塗り立てた所で、叉聖人の姿を物して、敬虔な感じを起させやうと、畫を全體日の當らぬ沈重な色ばかりにした所で、心ある人の目には一目瞭然何にもよき感じを與へやしない。
 然しながら少し安心なことには、實際、大畫家たる可き人は、斯樣な誤謬に陷つて居ない、眞實に色彩を用ゐる人は、之を輕むずるやうなまねはせぬ、上に擧げた挑發的畫家や、學者風の畫家は、其の畫風の撰び方が間違つて居ると普通考へられるけれど、實は一體自分が畫をかけると思ふだけが抑々僭越な次第なので彼等は其實、繪畫に干はる資格は無い、其中の或者は彫刻をやつたら成功したかも分らない、が其大部分は何か外の實際的な慈善事業にも身を委ねて、其直きに情に馳せる特性や、温和な傾向を利用した方が宜うしい、人體の美を畫いて、其色彩を惜んだり、景色を畫いて、其光線を不充分にしたりしては、美術に關係する價値はないのである。

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