羅馬と水繪

石井柏亭イシイハクテイ(1882-1958) 作者一覧へ

石井柏亭
『みづゑ』第七十七
明治44年7月3日

 予が羅馬へ着いて間もなく見舞つたのは“galleria D'arteModerna”と云ふ近代の諸作を集めた美術舘であつた。予は其處に書架を立てゝ全く遊び半分としか見えぬ、模寫をする御嬢さんから羅馬の最も良い繪具屋の何處であるかを聞いたのであるが、其處に陳列された水繪としては、たゞ名を忘れた一人の畫家の念入な大きな肖像の、稱見る可きがあるばかりであつた。
 予自身も幾度か仕事した、ボルゲーゼの園を過れば人は?其塵に筆を執る娘、若しくば婆樣の水彩畫家を見るであらう。傍に坐つた友達にチユーヴから繪具を出して貰ひながら、規則正しく植えられた草花を、まだるく寫すやうな暢氣な類だと云へば、大凡想像はつくであらう。或時予と電車を共にした一人の婆樣は、其七つ道具の仰山なのを抱えて、サン、パオロの門で降りた。サン、パオロの御寺まで行つて面白くないので引返した予は、道傍に坐つて眞正面から其門の肖像を畫き始めた彼女を見たのである。而して粗雜な輪廓に下塗りなどをして居る、それが決して纒まりさうには見えなかつた。
  ボルゲーゼの園の中程に、ピアッツア、ヂ、シヱナにある時計臺を戴いた妙な建築のなかの“Associazione degli Acquar-ellisti in Roma”の常設的展覽會へも入つて、其處の番人にこれは伊太利亜の水彩畫を綱羅して居るかと訊いたら、さうだとは答へたが、其處の陳列もまた徒らに予の失望を增さしむるより外何の効もなかつたのである。水彩畫會であるにも拘らず、そのなかで予の氣に入つたのは寧ろパステル及パステル臭い水彩畫の極少數であつた。Giuseppe da Pezzoと云ふ人の『娘の像』及『秋の夕暮』と云ふ風景などペンや木炭で下描きした上に、具入りの色を用ひて居るのであるから、パステルに接近するのは當然のことである。
  昨日予がヴイア、マルグツタの美術家街を過ぎつた時は丁度午であつた。其辻には田舎風をした男女のモデルが澤山集つて、或者はパンなどを噛つて居た。此間使つた女も居て、今日も雇つて呉れるかと予の方に進んだが、予は手を振つて今日は要らないと曰つた。これもモデルかなどであらう、二人の娘が今外を流す町音樂に合せて手を取り合って踊つて居る。其家の門口にシムプソン氏水彩展覽會縦覽随意と云ふ張札がしてあるので、如何なものか知らむと云ふ好奇心から、予は彼れの畫室に導く階級を昇つて行つた。
 案の定それは甚くだらぬ畫ばかりであつた。何處から持ち出したか古い懸毛氈をぶら下げた室の四周に希膿や伊太利亜の諸作が鼠色の臺紙に入れて掲げられて居るが、何れも街頭の繪葉書屋などに見るやうな名處畫ばかりで、構圖着眼に何等の創意もなく、忠實精到な自然の観察もなく、ただ日中を黄色く陰を紫にした大軟弱な大甘もので、殆一枚として取るに足るものはなかつた。
  隣室で皿をガチヤガチヤさせて妻君とでも物を食つて居たらしかつた彼れは、予の足音を聞きつけて出て來た。見ると餘り才能のあるらしくも思はれぬ平凡な英吉利の青年で、彼れは先づ林大使から聞いて此處へ來たかと云ふことを予に訊ねた。予はたゞ通りがゝりに看板を見つけたから入つたまでだと答へた。
 予はまだ大使に會はないのであるが、彼れは頻りに大使との關係を述べて、此展覽會に就いても大使が盡力して呉れたと云ふやうなことを話す。少し人の悪い次第ではあつたが、予は此瞬間に於て旅の一興と云ふ意味から一芝居を思ひついた。さうして予は畫の學生だが、途中で畫いたものを明日此處へ持つて來るから先生の批評を願ふと曰つて分れたものである。
 今日になつた。態々では少し厄介だが、夕方恰度共近邊の伊太利人の處へ予の畫を持つて行つて見せる約束になつて帰るから其序でもあるし、それに林大使との關係もあると云ふことだから、縁なさ衆生でもないと思つて、甘んじて俳優となつたのである。
 幕を開けて見たら俳優の数は意外に殖えて居た。何故かなわば、此午後其畫室には予とシムプソンとの外に彼れの妻君ともつかぬ女が一人と、婆樣が一人居たし、待設けなかつた林大使の令嬢が、他の年上の娘と共にこれに加はつて居たからである。
  シムプソン畫伯は忙はしく予の諸作を通覽して、黄、赤、紫、と云ふやうな色の配列が出る毎にそれを賞め、黒、鼠、のやうなものが出る度に色が死んで居ると曰つた。さうして畫家と自然物との川にはいつも空氣がある、貴君の色には往々空氣が欠乏して居る。鳶色を貴君のパレットから御除きなさいと云ふやうなことを彼れが述べると、周圍に居る並び大名――否並び女中と云ふやうな連中が、割臺辭のやうな調子を以て『鳶色を』『パレットから』『御除きなさい』と云ふ。
  たとへ予が名言に感じたやうな風を装ふことに於て充分成功しなかつたにもせよ。次して『さあそれは』『さあ』『さあ』『さあ』の詰め開きにはしないやうに計らつたのである。
  シムプソンが彼自身の畫を指して『普通の水畫とは少し違ふでせう大分近代的だから』と曰つたのに予が『それ程とも思ひませむ』と答へた時、彼れは『まだ解らないな』と思つたかも知れぬ。
  彼為が此夏ヴヱニスに水畫のクラスを設けるから其處へ來て習つてはどうだ、きつと進歩するに相違ないと曰つた時予は實に返答に窮した。『さう願へれば結構ですがまだ伊太利亜の滞在日數が不確なので』と云ふより外に面白い文句がなかつた。
  大使の令嬢の御連れの人は、予に對つて親切のつもりなのだらう、『貴君の御作のなかでは人物の方が結構です。風景を止めて人物ばかりなすつたら』と曰つた。あまり生意氣であつたから予は『今日日本には随分洋風の畫を描くものがあつて、其或者は西洋人に匹敵することが出來ます』と曰つてやつた。併し彼女に其當てこすりが分つたかどうかを知らない。
  芝居は漸く終りに近づいた。牧野某の畫が霧のヱフヱクトを出すに巧みだとかパルソンスの畫はたゞ奇麗と一訳ふだけのことだとか云ふ鑑賞家氣取りの婆樣の文句があつた後 シムプソン『呉々も鳶色を除かれるやうに御忠告します』 予『ありがたう御坐いました』其見得よろしく幕 (終)

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