寫生地案内
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
三脚子
『みづゑ』第七十七
明治44年7月3日
梅雨は六月の半より始まつて、七月十二三日には上ろのが年々の例であるけれど、十五日頃迄は時々驟雨などあつて、まだ安心は出來ない。七月中旬から八月初旬迄は、天氣はよく續くやうである。
夏は山へ徃くも海へゆくもよい、併し旅行の好時節といふのではない、色彩が單調であり、暑くして遠方へは出られず、宿やでは蚤や蚊に責められるといふやうに、夏の旅は相應に苦しいものである。
便利のよい海岸、または温泉地には澤山の人が集つて、宿も混雜するし、宿料も高くなり、不愉快の事が多い、あまり多く人のゆかぬ場所をいくつか並べて見やう。
東北の方では、岩代猪苗代湖畔は景色をよく凉しくもある、たゞ少し遠方に過きる。猪苗代から磐梯山の麓を廻つて二三の温泉がある、川上温泉は秋元湖が近い。その奥には湖水がいくつもある、夏でも寒い位ひの處だから、避暑兼帯の寫生旅行にはよい。上州沼田から越後街道を、藤原村にも温泉がある、不潔ではあるが宿屋も相應のものが得られやう。溪流の水は美はしい。信州には、田中停車場から四里、淺間山麓上州境に鹿澤の温泉がある、ツガの林などあつて幽遽の境地である、澁温泉の奥、ホッポも、夏の綠はなほ春の如く柔らかで感じのよい處である、そこにも温泉がある。越後には、妙高山の麓に關や燕など云はるゝ温泉が幾ヶ所か在つて大した景色も無いが一夏位ひの材料はあらう。越後の海岸は、色が乏しく少しく單調ではあるが、鯨波あたりは寫生の材料に富むでゐる、近處の寺へでも頼めば快よく下宿をさせてくれる。直江津から西へ、今度汽車の通じた名立の邊は、雄大な景色が澤山ある、天氣のよい朝は信州境の雪の山も見えやう。糸魚川と松本との街道、信州木崎湖附近も夏居るによい處だ。以上の地は多少平凡を脱してゐるのだから、諸君は地圖を展いて、其何れへかへ往つて見たまへ。