日記抄

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第七十七
明治44年7月3日

 九日の朝上野を發し、岩代飯坂に七日、野州鹽原に一泊、五六枚のスケッチを得て夜分歸京した。飯坂は温泉地として有名であり、交通の便もよい。風景としては材料が豊富とは言へまいが、残雪の美はしい吾妻山も見え、不原を前にしてゐるので眺望もあリ、廣い繪を畫くのによい處である。新綠は少しく遲れたが、山には藤あり躑躅ありて、初夏の美は充分昧はふことが出來た。鹽原は飯坂よりは寒いかして、渓間の雜木は淺綠に、まことに快よい眺めであつた、どういふ譯か、鹽原へはあまり洋畫家は徃かぬ、偶〃此地の寫生を見るに、月並の詰らぬものばかりであつたが、來て見れば存外畫材に富むでゐる、秋か春か再び來りて、會津地方へも廻はつて見やうと思った。
  (五月十七日)
 太平洋畫會は十八日閉會された、今日は跡仕末のため上野へゆく。今年は例年よりも繪の賣約高が多い、宮内省の御用品も十餘點あつた、洋畫が漸次世人に解されて來たのだらうと頼母しくも思はれた。
 會場の前の廣場では、某小學校の運動會がある。尋常一二年位ひの小さな兒童の徒競爭、五六年位ひの男女生徒の各種の競技がある、私は見てゐるうちにさまざまの感想が浮むだ。
 敎育家の立場から言ふたら、運動會といふものは必要であらうし、競技競爭といふことも、人心を興奮せしめ、元氣を增進させる上に、無くならぬ事であらうが、私個人としては、好もしくないものだと思った、何だか一擧一動規矩にあてはめ、自由の行動を許さぬ、そして種々なる運動をさせるのは、汗と塵埃とに苦しむ生徒自身のためでなく、大人が見物して喜ぶためのやうにも思へた、また一組四五十人の生徒の中には、白の運動服を持たぬ二三人が必ず混つてゐる、それ等は紺飛白や縞の着物を着けてゐる、是等の生徒の運動服を持たぬのは、家が貧しいからであらう、平等を主とする初等の教育場で、此晴れの運動會に、此不平等の現象を示すのは好もしい事ではない、屈辱とは言へないまでも、生徒自身の小さい心を痛ましむるのみではなく、其父兄の心迄も害ふものであつて、私には實に惨酷であるとさへ思へた。
 私はまた、自分の性質の上から、競爭といふことを好まない、勝者に對して愉快を覺えずに、敗者に向ふて氣の毒の感に耐えないからである、私が社會の劣敗者であるから言ふのではない、衆人環視の中で技を競ふ、勝つものは徒らに小さな虚榮と驕慢とを增長せしめ、負くるものは差耻と嫉妬とを感ずるであらう。一のゲームあれば、必ず幾人かの心を動かす、此時此際、勝者にして自から損抑し、勝を永久に期し、敗者はまた、他日の成功を誓ふて、益々勉めんの奮發心を起すことあらば幸なり、されど、事實は或は反對の結果に到着せずや、私は兒童心理をよく知らぬ、たゞ今日この競技を見て、敗者のために同情の感を抱いたゝめ此言をなすのである。
 更に思ふ、多人數の競技を見るに、徒競爭に在ては、出發時の第一歩に於て既に大勢は定まつてしまふ、遲れて發して、中途から前者を駈け抜けるのには、非常な勞力が入るであらう。また組を分つ競技に於て、たゞ一人の失策の爲めに、其組全體の敗に歸することがある、組合といふものは、相手を選ぶ上に、最も注意を拂はねばならぬ。一枚の繪を畫くにも、第一筆は、實に其繪の運命を司つてゐる、また一枚の繪の中に、一ヶ所不自然な處があつたりすると、全畫面は、それが爲めに見られぬものになることがあらう。今月の運動會は、私に種々な事を數へてくれた。(五月十九日)
 日本水彩畫會研究所の相田寅彦君は、其製作には多少の批難あるにもせよ、青年美術家として、他に一頭地を抽いてゐるのは事實である。富豪今村繁三氏は、豫て氏の畫風を愛してゐたが、今回、常に水彩畫會に同情厚き中村春二氏を介して、相田君に年々若干の學費を支給することを約せられた。今村氏の此擧は、ひとり相田君のためのみでなく、美術界にとつても感謝すべき事である、相田君たるもの、宜しく當に自から相省みて身を愼しみ、孜々として勉強せねばならぬ、己れの才に誇つて、意を安むじ心を緩めて、空しく悠々たるがごとき事があつては、啻に今村中村兩氏に對して濟まぬばかりでなく、それがため美術家を保護する人が無くなるから、世間に對しても害を及ぼすやうにならう、私は相田君の幸福を祝すると同時に、特に苦言を呈して置きたい。
 權門富豪にして、美術家を保護し奨勵して、名を成さしめた例は西洋には澤山ある。日本に於ても、曾て鹿子木氏は、住友家の補助によつて外遊二回、充分の研究をなす事が出來た、近くは某氏の如き、同郷の素對家の援助によつて海外に遊ぶといふ噂である、私は國家や團燈の保護はむしろ反對であるが、何等の條件なしの個人の保護は望ましい、かういふ事が?々行はれて、有爲の青年をして其恩に浴することが出來るなら、美術の隆盛、期年ならずして其頂に達するであらう。(五月二十日)
 研究所日曜日の別科生のために、谷中墓地裏にゆき寫生をさせ、夕刻から、田端に新設された太平洋畫會有志の倶樂部へ往つた。連中は皆集まつてゐる、新聞の美術記者諸君も見えてゐる、庭には樂焼の設備があつて、湯呑や花瓶に繪を描いてゐる人もある、大弓を引く人、テニスをする人、鬪球盤に對ふ人、ドメノーを弄ぶ人など、中々賑やかであつた。
 席を白梅園に移して、酒間、倶樂部の名を投票によつて極めた、ゆくゆくはポプラーを植ゑるといふので、其木の名を冠して倶樂部をよぶことになつた。
 勝負事を好まず、烈しき運動に耐えず、また時間の餘裕を持たぬ私には、こんな立派な倶樂部が出來てもあまり便宜を得られないのは残念である、(五月二十一日)
 坪内博士は、一身を擲つて演藝のために盡されてゐる、私は演藝そのものに、さまで深い趣味を持たないが、博士の熱心なる元氣には動かせられぬ譯にはゆかぬ、それで、文藝協會の一員となつてゐるのであるが、其協會の公演として、帝國劇場に於てハムレツトが演ぜられることになつた。
 ハムレツト劇は、かつて本郷座に於て試演せられた時參觀したが、今回は、前よりも一層期待が多かつたに拘はらず極めて愉快な印象を受けて満足した。世間では、此劇を見て、少しも分らぬといふ人もあるとか、我々が戸外で寫生してゐる時、一木一石、正直に目の前のものを寫して居てさへも、見物人は何處を畫いてゐるのか分らぬ、却て小さな子供達は、よく其場處を知つてゐることが往々ある、見慣れないものを觀、聞馴れない言葉を聽いたのでは、分らぬのも無理はないが、併し、これは演者や脚本家の罪でなくして、必竟は見物人の無能に歸すべきものではあるまいか。
 帝國劇場の内部は初めて見た、あまりにぎらぎらしすぎてゐて荘重の趣が無い、巴里オペラの建物と比較するのは間違つてゐるかも知れないが、もう少しオチツキが欲しいと思つた。
  (五月二十二日)
 松山忠三君は、正午横濱發の加賀丸でいよいよ渡歐することになつた、新橋へ徃つて見ると、研究所の人達が三十人あまり見送りに來てゐる、横濱迄同行する人もある、松山君が乗つた汽車が動き出すと、一同で萬歳を三唱した、これ等の人達は、研究所への出がけであるから、寫生箱を肩にし、辨當箱を下げてゐる、畫家の見送人としてはこれに上越す粧ひはあるまい。
 松山君は、旅券の下附が遲れたゝめ、丸山氏と同行することが出來なかつた。初め松山君の旅費の幾分を補助してやるといふ人があつたが、其人の不注意から、松山君はそれを受取事が出來なくなつた、然るに此事を聞いた研究所の同窓達は、銘々の身の上が、決して豐でなく、また既に、分相應の餞別を贈つてあつたのに拘はらず、同情のあまり、各々出來るだけの金を出し、なほ知友に説いて忽ち數十金を集めて同君に贈り、心安く出發することを得せしめたのである、私はこの友情厚き諸君の立派な態度に向つて敬意を表し、同時に、松山君がこの美はしい情に酬ゆるため、一層奮發して成果を收め、一日も早く歸朝せられむことを望まざるを得ぬ。(五月二十四日)
 畫家とならうと志してゐながら、家の事情が許さぬ、それで他の學校へ入つたといふ人が來た。今の處、畫家や文人は金銭に縁の遠い仕事として、世間の親は其の子の美術家になることを好まない、それで、實用的の學問でさへあればよいとして、他のものなら何でもやらせる、恁んな親を持つた人は、元々畫がすきなら金銭に執着はあるまいから、自分が一通りの體面を保つて生活が出來るだけの程度で、なるべく時間の餘裕ある職業を撰ぶがよい、そして其時間に、娯樂的に繪を學ぶがよからう。
 鳥渡小器川といふだけで、大なる天才もない人が、境遇に逆らつて迄も畫家にならなくともよいと思ふ、そして畫家となつたら、いつでも自分の好きな繪ばかり畫いてゐられるものと思ふと了見違ひである、修業中はイヤな時でも研究もやらなければならず、一家を成して後も、生活のために心にもない仕事も爲さなければならぬ、寧ろ他に職業を求めて、衣食の心配を放れ、餘暇に思ふがまゝの筆を執つた方が、專門家よりも遙かに幸福であらう。(五月二十七日)
 研究所の月次會にゆく、出品された繪は七十點程ある、共の中のあるものについて批評をした。
 月次研究會は、從來何處の研究所にもあつたが、現在では僅かに日本水彩畫會のみである。白馬會では、一時公開の講演會さへあつて、毎月盛大に開かれてゐたが、いつか中絶してしまつた。太平洋畫會も、初めは生徒のみでなく、會員も製作を持寄つて、批評もしたり、時には解剖などの講話もあつたが、生徒の不眞面目から、繪などを持つて往つても、徒らに冷評の的となるのみであるし、菓子の奪合をするやら、散會の時は屹度下駄が紛失するといふやうに、惡弊が續いたので、誰れも來るものが無くなつた。京都の關西美術會では、互評を許した結果、秩序が亂れて、これも行はれなかつたといふ。單り日本水彩畫會のみは、創立以來、毎回相應に出席者もあり出品もある、そして今日迄、繼續してゐる。
 研究所には、毎日稽古に來てゐても、二階と下で顏を合はさぬ時もあり、畫の人と夜の人、日曜だけ來る別科生など、始ど逢ふ事が無い、それらの人達が、毎月一度集まつて、懇親を固ふするのは必要のことであらう、それに、先輩は自分の製作を後進に示すべく、初學者は教師の批評を受くべく、何れにしても、各自の月々の成績を、一室に陳列するといふのは、一般の利益であるから、月次會は永久に續けてゆきたいものである』この日は、『廣くして淺い畫風と深くして狭い畫風」につき、三十分程談話をした。(五月二十八日)
 やゝ薄暑を覺ゆる時候になつて來た、夜の明けるのは早い、今日から五時前に起き、スケッチブック一册を持つて、朝飯前に近所を運動することにする。正男も共に起きて跟いて來る。』同じ場處でも、季節や時刻によつて、其景色の感じが違ふ、早曉や夕暮は、色彩が沈み、形が軟らかに、調子が穏やかになる、消極的ではあるが、繪としては詩趣に富むだものが出來やう、晝問見て美しからぬ一本の木も、淡い朝霞に包まれた時は別種の趣がある、小ウルサイ瓦屋根の連續も、朝の空氣を透して見ると决して醜いものではない、江戸川端を霧の中に消えてゆく電車も、久世山から見る敎會堂の尖塔も、枯れた木も、露に濡れた草も、ペンキ塗りの家も、新しい板塀も、何も角も、霞の幕を一重二重隔てゝ見れば皆美はしい。自分の近所に寫生の材料が無いと喞つ人は、よろしく日出前に起きて、眞晝と異なつた光景を味ひたまへと勧告したい。(五月二十九日)
 正宗得三郎君は、六月の早稻田文學紙上で、私の畫に對して、『目に見たものを疑はず洞察せず、新藝術の聲も馬耳東風で、風光明娟の名所を趣く呑氣に紹介する』というてゐる。
 私の繪を畫く態度については、かつて『みづゑ』五週年紀念號にも告白して置た、言はるゝ通り、私は至極暢氣に、自然界の一部を、自分に視自分に感じた程度だけを紙に寫して、それで滿足してゐる。私は自然に對して盲從者である。自然界の一木一石の配置は人工を加へずして、其儘美しく私の目に映じ、私の心に感ずるのである。何故にかゝる現象を呈するかと、自然めあるものに對して、底深く研究を進め、其根本を?べて、紙面に活躍せしむるといふやうな離れ業は、私の爲し能はざる處である。そして、眞に疑ひ眞に洞察したりといふ人が、どれ程迄に自然を解して居られるか、どれ程の結果を齎らせしか、私にはまだ明らかに示されてゐない。それで、若し疑つて解されず、洞察して徹透せず、疑つたらしく、洞察したらしき、自分にも分らぬやうな、ある色彩、ある形象を畫布に塗抹して、平氣でゐることは、到底、私如き氣の弱い人間の耐へ得べきことではない。私は、私自身の平凡と淺薄とを、何處迄も抑通して、せめては畫をかく上に迄も、自己を欺くことは爲すまいと思つてゐる。
 新藝術といふことは、何を指すのであらう。原色に近き強烈なる色彩を、畫布にうず高く盛つたのがそれであらうか、デツサンの正確などいふことを、アカデミックと排斥して、形態を全然無視して、主觀のみで畫いたものがそれであらうか。思ふに、かくの如きも新藝術の一種ではあらうが、私の考へ且信してゐる新藝術は、所謂、猫の限のやうに變るといふ厭羅巴の一部に行はるゝ流行形式ではなく、もつと深いもつと眞面目な傾向を指すのである。
 私は、畫家としては、他人より多く新しい書物も見てゐる、また、新しい説を聞くことも好み、若い人達とも交はつてゐる、それで、所謂新藝術の何者なるかは、多少知らぬこともないと信じてゐる、併し、今の青年が、終には老人になるが如く、今の新しいといふ藝術は、數年ならずして、やがて古い匂ひがするやうになる。新しいもの新しいものと、それを追つて絶えず動揺しつゝ、何者をも掴み得ないよりも、寧ろ自己の能力を知つて、時代の大なる潮流に後れない程度で、走馬燈的の新流行の上から超然たる方がよいと思ふ、少なくともその方が安心である。私のやうな頭の空虚な人開は、到底時代に先だつてゆく資格は無い、たゞ行列の最後で、もよいから、伴はれて徃きたいと思ふのみである。
 以上は正宗君の評言に對して辯解したのでも何でもない、寧ろ君の言に向ふて自から裏書したやうなものだ、たゞ平素私の思つてゐることを、此機會に漏したのである。(五月三十一日)
 新しいものは、古い頭の人には解らない。今日自由劇場で見た『第一日の曉』といふ象徴劇は、何の事だか分らなかつた人が多かつた、作者と同じ年頃の人で、同し學問同し傾向の人には、よく解されたかも知れないが、他人には、たゞ幾分の稀薄な心持が受け入れられただけで、深い強い印象は得られなかつたと思ふ、見てゐるうちも、忘我の境地に引入れるだけの感興を起させず、見た後に、深く味ふだけの餘韻もなかつた。若し藝術といふものが、其時代其場處の一小部分なる同じ傾向の人々にのみ解されさへすればよいものなら、此劇の如きも上乗なるものであらう。たゞ之を演ずる俳優が、どれ程此作の意味を解してゐたか、私には今に疑問として残つてゐる。(六月二日)
 明年度展賢會々場の事で、竹の臺幹事會へ臨席した、ある人の話に、日本畫家でも今は弟子を置くことを好まない、弟子を置て面倒を見ても、一人前になると師匠の欠點ばかりを見て、自分が敎はつた幼稚時代の恩を忘れてしまう、たゞ自分一人でヱラくなつたやうに考へてゐる、忙しい思ひをして、そんな人間を幾人世話した處で詰らぬからであるといふ。
 この事は、單に畫家ばかりではない、密接の關係ある親子の間にさへ例のあることだ。師匠がいくら骨を折つても、弟子に其心が無ければヱラくはなれない、ヱラくなつたのは師匠ばかりの力ではない、それを思つたら、恩返しをせぬからとて苦情を言ふことはない。師匠は其弟子が己れより上手になるやうに、日々進歩するのを樂しむでゐさへゐればよい、其心を持つて弟子に對したなら、何も不快な事は生ずまいと思はれる。
  (六月五日)
 研究所の夜の部はコスチユームである。ある人々は、水彩や油繪で寫生してゐる、瓦斯の光りで彩色する場合に、單に色のみを見て似せやうとすると、目的は達せられない、色のほかに、明暗の調子をよく注意して研究しなくてはいけない、この明暗の調子が合ふてゐると、晝間見ても决しておかしくない、この事は、單に夜の稽古ばかりでなく、晝間景色を寫生する場合にも、色にばかり氣をとられずに、明暗遠近といふやうなるを忘れないやうにしたいと、集つてゐる人達に話をした。
  (六月八日)

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