パレット物語

シシウ生
『みづゑ』第七十七
明治44年7月3日

 僕の主人は近來何に感ずッてか俄に勉強する樣になッた、時に依ると朝未明に飛び起きて引つ張り出すこともある、夕方星がキラツく頃までお伴をさせられる事もある、これ迄は主人は曇り日が大嫌ひであッたが、此頃は曇りは扨て置き雨の日でも風の日でもドシドシ寫生に出かける、御蔭で僕も忙しくて眼が廻る様であるが、之れでも一月も二月も暗い箱の中に燻つて安眠を貧つて居るよりか、張り合ひがあッていゝか知れない。こんな譯で『みづゑ』の方も酷く御無沙汰して仕まッたが、今日は幸ひに隙だから叉少し紙上を拜借する事にしやう。實は研究所の發達を系統的に話して行く筈であッたが、この前の紀念號に委しくその發達史が乗つて居たから、之れは止めて談片的に御話する事とする。扨て最初講習所で一番早く主人の親しくなッた人は、その隣りに居て主人と仝時に着色を許されたエス君と云ふ攻玉杜の中學生であッた、知り合ひになッてから二人は盛に來往して繪のことばかり話し合つて居た、暫くすると二人で水彩畫の寫生を始める樣になッた、無論未だ先生から許された譯ではないが、内々で主人の下宿やエス君の宅で、果物など買ッて來ては妙チキリンなものた畫いて居た。それでも熱心は恐しいもので、段々と二人で研究し合ッた結果、兎も角少しでも物の説明が出來る迄になッた。サアかうなると二人とも圖に乗つてとうとう品川、田端と郊外スケッチに增長する樣になッた、この二人は殆んど仝時に講習所に入ったので、これから歩調を揃へて何處までも一しよに進んで行かうと堅く誓つた。エス君の御父さんは郵船會肚の事務長なので、エス君が中學を卒業したら商船學校にでも入れる積りであッたが、エス君は駄々を捏ね通して、翌年中學を出ると專問にパレットを握ることになッた。
 エス君が畫家としての目的を定める時には、僕の主人も少なからずエス君に味方して、御父さんや御母さんを説き付けたとの事だ、エス君の御兩親は共に極めて優しい、人柄のいゝ人達であッて、遊びに行く度、温い家庭の空氣に心を和げられて來るのが常であッた。エス君はその一人息子である爲めに、あまり親の愛を受け過ぎたのか、稍もすると突飛な人並外れた思想に驅られ易い方であッた。それが原因して其後水彩畫研究所の方を去り、今は美術學校に居るさうである、主人はエス君の爲めにその常識的でない事を悲しんで居る。藝術家たるものは無論人の世に超絶して何處までも詩的感想を練らなければならぬが、これが極端に陥つて電車の中でまで、仙人を振り廻す樣になッては仕方がない。巳藝術家は一方何處までも着實と云ふ事が必要であるとは主人の持論であゐ、こんな主義の上の相違から、エス君と主人とは激論した事もあるが、それで友としての感情には少しも影響しなかッた樣だ。主人とエス君とは其性質の異る如く其畫嵐も異ッて居た、主人は先づ物の形を見た、エス君は直ちに其色を見た、主人の繪は線の集合でエス君の繪は色彩のマスであッた、主人はどんな繪でも兎モ角纒めて仕まはねば氣が濟まなかッた、エス君は繪のユニットにはあまり頓著しなかッた、だから始めの内は一寸見ると主人の方が繪しく見えた、主人も心の内ではエス君は無器用で自分は畫家たるの素質あるものと自惚れて居たらしい。而かも其内エス君の方は段々と著しい進歩をして來たが、主人は美事その背後に落ちて仕まッた、併しエス君は財政豐かで、その時代からニウトンの上等色を惜し氣もなく使ッて居たので、負け惜みの主人は、エス君に向て、君のは原料がいゝから色は甘いさなどゝヘラズ口を利いて居たが、とうとう主人はエス君に追ひ付く事は出來なかッた。一昨年の公設展覽會にエス君の繪が出品された事を新聞で見た時、田舎に居る主人は人知れず深い溜息を漏して居た。エス君の記録はそれ丈で止める。
  其五
  それから矢張り、男學生の内で、二十四五の四角な顏の人があるとと云ふ事は、以前に一寸話して置いたが、その人は僕の想像通り逓信省の御役人様であッた。講習所の生徒の中でこの人位逸話に富んだ人は無からう。主人はこの人とも早く懇意になッて、その四角な顏を主人の宿に見出す事は度々であッた、日頃瘠我慢の主人も、この四角な顔には酷く敬服して居て、二言目には君は豪いよ豪いよと感心して居た、いやロンドン兒の僕でさへこの人には實に感心して仕まッた。いざこの隠れたる奇傑を天下に紹介する事にしやう。四角な顏君は本名をテー君と言ッた、中國の産で少年の時から通信事業に從事してるのださうな。實にどうも早恐ろしい精力家で、其處が即ち感心の要點である、生活の傍ら畫道研究を思ひ立ッて、大なる決心の下に東京の方に轉任することになッたのださうな。晝は毎日役所に通ッて、終日繁劇な通信事務に心身を勞し、歸ッて來ると大急ぎで夕飯を濟まして、直く白馬會の溜池研究所に出かけて行く、そして白熱の瓦斯の下に一心不亂デッサンの稽古を遣る。之れで一日も欠かした事が無い。せめて一週一度の日曜日丈は、下宿屋の二階にウンと足でも延して、朝寝でも遣るかと思へば仲々どうして、さうぢやない、日曜には朝早くから水彩畫講習所に遣ッて來てセッセと勉強する、孜々として夕方まで筆を動かして止まない、決して他の人のやふに無駄話に休息を貧る様な事をしない、左の手で煙草を吸ふ事はあるが、右の手は依然として活動して居る。興に乗ッて來た時なぞ、中食の食パンを左の手でモシヤモシヤ噛りなから、右の手はチヤンと繪具を溶かしてる事もあッた。君のやうに働いちや毎日時間の餘裕と云ふものは感じまい、人間の頭のエネルギーには限りがある、少しづゝは休養しないと毒だよと主人が時々心配さうに忠告すると、先生グッと反身になッて、イヤ人間と云ふものばどんなに忙しい時でも、心次第で餘裕はいくらでも出來るものだ、僕など未だ之れで土曜日の午後は筑前琵琶を習ッて居る、何なら一度聽かさうかと答へながら烟草の烟を虹と吐いで濟まして居る。實に精力絶倫だ、こんな人が物に成らなくては物になる人は無からう、僕だッて顏のタイプ丈はこの人と同じ樣に四角形で、よく似て居うけれど、乍残念この精力に至つては一歩を譲らざるを得ないと感嘆した。僕だッて水に對してはどんなにも精力を續けるが、熱と云ふ奴には何んとも叶はない、これから先き蝉が熬り付く樣に啼き出す頃、一寸でも意地悪い日光に當てられると、全くクラクラッとして仕まう、稍もすると皮膚に龜裂が出來さうで心配に堪えない、人間の皮膚は冬になると荒れるさうだが僕のは反對である、主人は傘杖を持つて居ないので時々炎天曝しに逢ッたが、近來は僕に同情して、決して日光には當らぬ様にして呉れるので安心である。話が横に反れたが、テー君に就て語るべき事は未だ澤山に在る。彼の平常の奇行が又大變なものである、日和下駄を穿いて一日の内に三十六里の道を平氣で行くと云ふ、何でも口を閉ぢて鼻で呼吸して、餘計なものを見たり聞いたり、兎に角神経を勞らさない樣にして、歩調を一定して歩くのださうな。脚と共に口の方も確かなもので、笊そばを十膳、かけ盛りなら十五杯位美事に胃の腑に收まると云ふ、主人は脚の方はお伴を仕たことは無いが口の方では一度お手並を拜見した事があるさうな。或時主人と二人連れで、牛込の眞野先主を訪問した時のことである、丁度講習所の歸途で夕方になッたので、新宿あたりの蕎麥屋で腹を拵へることにした、主人は豫てテー君のお手並を實見したいと思ッて居た處なので、君今日は一ッ蕎麥の極量を見せて呉れ給へと云ふと、イヽともくと答へて喰ふは喰ふは、主人が熱いのと藥味とのお蔭で、ボロボロ涙をこぼし乍ら、ヤット一杯のテンプラそばを片付ける間に、テー君の四角な顏の口には既に三四杯の笊そばが輸入されて、空笊は眼の前に壘々と塔を築きつゝある。帳場の主人も奥の女房も、雇女も出前持も、諸所に陣取るお客の一團、果ては窓下の小猫、梁上の鼠共に至るまで、等しく驚嘆の眼を丸くして四角な顏を見つめて居る、テー君こんことには一向平氣で、オイお代りお代りと多々益辯ずると云ふ形勢、僕の主人は度膽を抜かれて、果ては少々氣まりも悪くなッたので、オイもういゝ加減にして行かうやと無理に連れ出した事があるさうな。
 この健啖力は啻に固體ばかりで無く、液體も同樣で何か不平のある時なぞ、獨酌でグイグイ一升位を失敬するさうである、更に氣燈★★と云ッては語弊があるが、テー君の音聲の大きなことに至つても、叉實にレコード破りぢや、室内で朗吟でも始めると障子が破れさうになる。モ一ッ面白い事は、その随一の隠し藝として動物の假聲だ、寄席などで能く犬と猫との聲を聞くが、テー君のはそんなもの位お茶の子で、更にあらゆる禽獣虫魚★★マサカ魚の假音は無いけれど、兎も角色々新奇嶄新な處を唸り得て寫實の妙に迫つて居る。講習所の茶話會には何時もこの假聲が滿堂の拍手を促がしたものだ、或時など犬の假聲を遣つる最中、窓の外に本物の眷族が澤山集まッて來て、盛んに内外で鳴き合ッた事すらある。マアこんな風にテー君のことは書き立てる程限りがない、健啖力以下の事實に至ッては、或は感心しなくとも宜いと云ふ人があるかも知れぬが、其精力主義に於ては正に尊敬に値するではないか。僕は將來の講習所が偉人を生む事が有ったなら、テー君は必ず其一人でなくてはならないと信じて居たが、否今でも中ば信じては居るが、運命の神は遂にこの絶倫の精力家をも屈服せしめて、今は郷里の郵便局に味氣ない生活を送らせて居る。之れに就ては又實に一通りならざる理由が伏在して居る、テー君が如何に自己の堅固な主義の隔下に運命の神と戰ッたか、最もよくその消息を知るものは僕の主人であらう。僕はその事實をも序手に次號に於て話して見たい。(六月八日夜稿)

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