渡歐紀行[上]

丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ

丸山晩霞
『みづゑ』第七十八 P.4-12
明治44年8月3日

 病氣のため一便延ばして、次の丹後丸に搭乘する事にした、丹後丸は三月二十九日正午横濱を出帆するのであるが、自分は四月一日神戸よリ乘り込む筈で、二十九日の朝家門を辭した、家族等も新橋又は横濱迄見迭る可く申出でたが、かくては却て名残り惜まるゝ故門前にて分袂した、長女すみれ子は豫て離別を覺悟せしものゝ、この朝泣て床を離れず、見送りの人の來訪するに及び、人々に勵され笑つて送りの辭を述べられしは、自分にとりて如何ばかり嬉しかりしぞ。
 新橋停車塲には送行の人々余を待ちもうけて、既定の午前八時は過ぎて九時に間もなき際なれば、刺を殘して歸へられし人々も多く、九時五分の汽車に搭じ、「さらば」を殘し都門を辭して横濱に向ふ。
 一陽來復の春は到る處花又花を以て飾られ、殊にこの日の温暖は思案しつくありし莟を促して七八分の開花を見る。横濱に着いて早速高野氏を訪問し、埠頭の丹後丸を見舞ひ、牧内氏を尋ね、午後四時小島氏を銀行に訪問し、相携へて某亭にて離別の杯を擧げ、公園野毛山の春色を送行の松山君と土ハに眺め、午後六時平沼停車場に到り、小島牧内其他の諸氏に送られ、六時四十分の急行列車に搭じ、昨夜夢は走る三千里、翌日午前八時京都着。
 停車場よリ、古物展覽會に出陳したい樣な俥に搭じて、新門前の松木君を訪門し、それより河合君の寓居に着、一別以來を語り、黑田翁を訪問して歸ると、河合君の出した電報を握りて藤田君が膳所から新妻君を携ふて來訪さる。午後六時より圓山公園佐阿彌亭に余がために送別會を開かれる、會するもの鹿子木、都鳥、松木、伊藤、寺松及び河合諸氏、京都式の料理甘く妓婦美はし談笑且謡ひ旦つ舞ひ歡を盡して十一時頃解散、亭を出づるとずらりと並べたる俥十臺これはこれは。何とかいふ貸座敷にて第二次會は開かれた、鹿子木君は余に一泊勸む、厚意は謝するも余はこれを辭した、無邪氣なる遊を盡して河合君方に歸りしは翌午前二時頃と思ふ。
 翌日晴天午前九時の汽車にて下坂、芋仙旅舎に投、桑田松原その他の諸氏の案内にて種々の用を達す。
 翌四月一日、午前七時半の汽草にて神戸に向ひ、三の宮停車場にて下車。桑田鈴木花園の三氏に送られ丹後丸に搭乘、午前十一時神戸を解纜す。
 日本の春はと言へば櫻を偲び、櫻は春の代表者である、櫻見ぬ春は何となく物足らぬ心地せらるゝ、未だ關西の春を知らざる自分は、櫻と言へば未だ見ぬ關西を偲んだのである、然るに自分の見た京坂に、櫻の少いのには驚いた。花の都といふたら東京といふて差支ひあるまい、到る處花又花で飾られてある、然して京坂地方の春の代表者は何であるかといふたら、余は直ちに菜花であると答へる、京都を發して大坂に向ふ汽車は、實にや黄金の海を走つてゐる、櫻と言ひ菜花と言ひ外國に見られぬ日本特有の春の色彩である、自分は今日これを見捨てるのである。
 神戸を解纜した丹後丸は、航路を瀬戸内海にとりて進む、先づ眼に入りしは小豆島の鮮明に靑黛を描きたる山峯である、山は高からざるも變化多く、海岸の砂濱、漁村、絶壁を數ふ、左は四圍の山岳茫としく淡く、大小の島嶼は隠顯去來送迎に忙はし白岩靑松湖水の如き緑波の上に浮み、白帆その間に出没するの光景、山容水態美を極盡してゐる、この瀬戸内の航海は決して單調でなく、又この佳景を送迎する航海は他國に求むる事は出來ないと思ふ。夕陽に染まりし海も空も島嶼も紫色に暮れしころ余は室に歸へりて、頃日來不眠に疲れし身を靜かに横ヘぬ。
 門司に着す。關門海峡は余が初見參である。花曇の空は今にも霧降らんとしてゐる。早速門司に上陸して海岸通りの店にて必要品を求む。全乘者にヒリツピン人にてアキーノといふ人がある、この人日本に一ケ年滞留せしもの、今回倫敦まで行く筈で日本語をよく解す、この人と土ハに市街を見物し、公園なりといふ市の背後の山に登る、路には黄に紫に紅に花の草花が匂ふて森の中には鶯が歌ふてゐる、急坂を迂曲して松の茂れる間を登り頂上に達した、頂上より市街と海峡を展望した趣きは好畫題であつた。この邊にも櫻は見ない、藪椿の花や春鳥の囀とどんよりした空氣のために春らしいのである、歸途は路を轉して下ると、椿の花の紅白が足もとに落ちてゐた、側の森蔭では鷄の雛が群て鳴てゐるのが聞えた。市に戻つたときは丁度正午である、某亭にて日本料理を喫す、日本料理は何を喰つても皆廿い』食後下の關に渡り市の高丘に登る、花無くにとも春は春なり、陽春に醉ふた人々は其處此處の森蔭又は芝生席を設け、歌舞談笑に餘念無き態、吾等は其間を經て、某寺に下る、山櫻二三株咲亂れて、風無きにハラハラと散る態春なれど淋し。船に歸へりしは午後六時頃、灰色の空は小雨を降らして、濛々たる港灣の光景更に美を加へた。門司は畫題に富んでゐる、海峡の兩方は高丘にて、麓は市街を廻らし、多くの船舶は各所に停留し、その間小汽船帆船が絶えず往復してゐる、殊に濛々たる細雨の夜景は一層趣を深くした。
 翌日快晴、午前十一時拔錨、海峡を經て玄海洋に出ず、碧水浩洋壹岐對馬の間を航して西に向ふ、海上頗る平穏。翌日平穏、凪なく海は油の如し、遙に朝鮮の濟川島を望む。風少しく起りて波高く、乘船者の多くは船暈のため室に閉居す』沼田氏に紹介されし丹後丸司厨長森氏は、水彩畫に趣昧深く自らも描く、氏の室を訪問して余の尤も嗜む日本茶を饗さる、又氏の室を畫室として日々通ひて吾室の如くする事を約す。
 丸窓のガラス曇るや春の雨
 乘合の連れた犬鳴く春の月
 松原ゃ花なけれども花の客
 春雨やしめ忘れたる窓をも子
 山櫻散るや御堂を下に見る
 葺替ヘだ御堂の屋根や散る櫻
 石段に雨の跡あり散る櫻
 漉水の中に散り込む緋桃哉
 柳散るや密柑の皮の干した橡
 菜の花の中や白帆のうねり行く
 菜の花や緋桃咲たる家二軒
 茱の花や雪を殘せし山も見ゆ
 長閑さや島と島とを通ふ蝶
 桃一と木菜の花もあり島の春
 床を離れて甲板に出づると、船は茶褐色に濁れる揚子江を溯つてゐる。左方糸の如く曳きたるは支那の大陸で、それに近づく船より眺めてゐると、糸の如き線は次第に太くなりて、揚柳も見える人家も見える、呉淞より揚子江の支流黄浦江に入り、奇しき支那ジヤンクと兩岸の揚柳と人家を眺めながら上海に投錨、早速上陸し奇しき俥に運ばれ東洋旅舘に投宿、夕食は日本料理を喫し市街を散歩す。翌日馬車にて愚園を見物す、頃日來の春雨晴れず、愚園は支那的庭園にて、門を入ると幾箇の奇しき樓閣あり、各樓にはテーブルチエヤーを配列し茶及び料理を喫するも自由にて、吾等は第一の閣にて茶を命ず、種々なる木の實と茶を出だす。こゝより次の閣に廊下を附しそれよりそれと廊下傳ひに廻るのである、中央の廣濶なる閣の二階は、種々の美なる花卉を配置して稍々美し、この室にて支那料理を喫す、庭には泉水あり築山あり植込みあり、南宗の畫を見る如き感に打たれた。ここを出でて郊外に出づると、麥は鮮緑を呈し柳は淡く萠え、その間桃の咲けるを見る。鵲はこの地方特有の鳥にて、人家附近の柳樹に巣くひ、又繁る中に何鳥か囀つてゐる。上海附近の郊外には、純支那風の邸宅を見る事が出來なかつたのは遺憾であつた、何れも外國人の邸宅であつた。こゝより車を市に引きかへして、支那部落城内といふを見物した、こゝは總て支那人のみの部落で純支那風である、道路は狭く春雨の折りからなればその不潔は非常のものである、狭い街を通行するもの又多く、殊にこの日は正明とかいふ祭日の日でその混雜は大したものだ、吾等はあまり深入りせずしてこゝを出で、新舊両公園を馬車より見物して歸船した。
 山岳又はこれに關係ある高原渓谷にのみ趣味を有する僕にも、繪畫的方面より見た支那町は面白く感じた、石又は煉瓦にて築きし家は古色を帯び、原色を好む彼等赤黄緑の如き色を以て凡てを飾り、又彼等の服装も濃艶の色であるから、色彩よりいふと眼も醒むるゃうである、支那町は如何なる一局部でも繪畫として面白味がある。蘇州はこゝより近しとのこと、これを見物しなかつたのは遺憾であつた、然し支那は隣國であるから更に支那を見る必要を感じた。
 「楊柳靑々江水平」上海なる黄浦江を拔錨す、春雨濛々たる間濃褐色の帆を揚げたる支那ジヤンクの送迎に忙はし。兩岸の平野は麥隴、楊柳、民家、菜花桃花その間に散點す。呉淞港に帆檣の林立と彩色を施したる船を見る、何れも船首に眼を附してある、動物に擬したものでであらふ。呉淞を出づれば洋々たる揚子江にして河口とは思はれず、褐濁の海と見て差支ひ無い、幾多の帆船は水平線より生れ、これを數ふる間に四面何物も見ざる海洋に吾等小樓閣は南を差して走る。
 上海近くより日々曇りて快晴を見ず、上海を出帆してよりは海霧多く日夜汽笛を鳴らしつゝ進む、翌日霧更に深く群がる支那漁船にあはや衝突せんとして、辛くもこの厄運をのがれたのは幸であつた。天氣快晴のときは香港までの間に於て、支那匠海の小島嶼送迎りて興ありとの事なれど、吾等は濛々たる霧の外何物も見なかつた。
 南へ南と進行く程は、次第次第に暖を覺え、香港に着く前日より、食堂の電扇は廻轉を始め、白服を着けしもの又多く認めぬ。船客は漸く親しくなりて互に談笑す。
 香海着。
 香港は曾遊の地である、着船するや否や直ちに上陸。昨日まで降りつゝありし雨は今朝霽れしとの事であつた、未だ乾かざる路を踏んで公園に向ふ、大きな海岸通りより花賣店の市を曲りて坂路を登り行くと、列植した並樹の美はしき若葉は日を透して、淡き影を路に投じてゐる、吾等はこの問を逍遙しつゝ公園に達す。公園は新舊二園ありて、先づ舊園に入ると、階段状を成せる平地に花卉を植え、又美なる芝生と花壇とを造とを造りて装飾の美を盡し、四委殆んど花の絶ゆる事が無いであらふ、ヱビネ蘭の美なるもの、葉の麗はしきもの、又は紅黄白紫の花を滿植してよくこれを調和させ、各所に配置してある、通路に添ふて各色の薔薇、莨の花躑躅及び葛屬の美花を列植し、大なる熟帯植地は暗きまでに繁茂し、椰子の各種も道に沿ふて列植されてある。自分は生來花を好む、併かも自然の花を好めど、人工的花嬉装飾に意を注がれしこの荘園の人工美には、慥かにチヤームされたのである。アルバニー街を隔てて新園に入ると急峻なる溪谷に多くの熱帯植物を植ゑ沙羅丸八の如き木生羊歯の大なる葉を着けたもの、又薑科植物の類は何れも奇しき美花を着けてゐる、この植物園は學術的よりも寧ろ美觀を主としたもの故、種々の花卉をを處狭きまで滿植してある。緑濃き木蔭に腰を置き、美はしき色彩と美香とに醉ふと花化して自分といふものを逸し去るのである。花の間緑の奥には花に似たる羽毛を飾りし小鳥多く殊に黑く紫に光る毛冠を立てし小鳥は美しい聾にて囀てゐる、併も日の暮るゝまで歌ふてゐる、日が次第に暮るゝと、紫の花は黑に、赤は紫に黄は白に、白は靑を帯び緑は晴くなつて、椰子の樹は天空高く突立つて、滿月前の月のその間に懸れる光景は、日本に見る事の出來ない畫題である。余は欧米幾多の花園に接したが、こゝの花園程の美に打たれた事は無い、この地は北緯二十二度にて亜熱帯ょり將に熱帯に入らんとする氣候なれば、亜熱帯固有の植物多く、日本に見る躑躅その地この地に自生してゐる、加ふるに熱帯植物を移植してよく成長繁茂するため、兩帯の植物を一時に見る事が出來るため、美觀は自ら添へらるゝのである。
 香港は全島殆ど岩石の連山より成り、前に深海を擁し對岸九龍と相對して天然の風光頗る佳なるも、由來瘴癘の毒氣頗る多かりしも一と度英人の手になりてより、これ等を轉化して健全なる都會を築いた、瘴癘の禍源なりし澤地を除水乾燥して、目下競馬たりし地はパツピーバーレーと呼ぶ、昨は禍の谷今は幸福の谷で、香港の現時は凡てこのパツピーバーレー的である。
 前に述べし如く岩石の山を開らいて築いた街であるから、車馬自働車の通ずるは海岸通りばかりである、その他は皆丘陵に沿ふる建設したのであるから、行通は不便でも美觀の上からは、尤も優れたる人工的模型的である。下町の行通便利なる處は總て商店で、丘陵の家屋は住宅、寺院等で、住宅は自然の岩石を土臺として建設したものなれば、規則正しい欧風式を破つた建物多く、これ等の家を飾るに玄關、廊下、窓に至るまで、色彩麗はしき花の盆栽が飾つてある。氣候は激暑ならず寒ならずで自分の眼よりは良港といふより寧ろ良遊地であると思ふ。何れの地もパノラマ的風景は高地より展望するのであるが、こゝばかりは低地より展望さるゝのである、殊に港灣に停舶せる船中より展望するもの、更に夜景の燈光は銀河の下界に落ちたるかの感があつて他にあまり見る事の出來ない景觀であらふ。
 公園の月に更かし、夜色の町を見物して、海岸通りの清風樓に投じ、眞水の湯を浴び日本食を喫し、疊の上に安眠した。
 余には珍らしからねど翌日ビーク鐵道にて山上に登り、更に支那人の籠にゆられ屋根傳に山巓に到る、山上には山上の天地ありて、こゝにはピークホテル、個人の邸宅、兵營、英國ガバ子邸宅ありて、何れも建造宏壯にして美を盡してゐる。兵營の前には小さき谷ありて水が流れて、叢中には小島が囀つてゐる。山の面の岩には山躑躅咲き亂れて紅を點じ、その他名を名らぬ紅黄自紫の小さな草花路傍に咲てゐる。山巓の眺望臺にて展望すると、香港の市街と港灣と、對岸の九龍町と支那本土の連山一眸のもとに収め大畫圖の如く、一萬二萬噸の船舶もこゝより見下しては木の葉の水に浮べるに等しい。ピークホテルにて午餐を喫し、山を下りてハツピーバーレーに遊ぶ。
 電車にて海岸通りを上手に走ると、山間に展けた原がある、こゝが競馬場で内外人が群集してベースボールその他種々の遊びに耽つてゐた、新らしく建設した寺の前より原に下り一週して馬見所の前に出づると、こゝにも美しき花が滿植してあつた。こゝより町に出で、ハツピーガーデンに立寄り又種々の花を眺め、墓地を廻はり俥にて埠頭に着けば、丁度六時のランチの解纜するときであつた。
 これより暑くなる、
 香港を拔錨してからは日に日に暑さが加はる、室内には居られない、夜も畫もデッキ生活である、欲するものは氷水と涼風のみ。香港を出でゝよりは海水も一變して深藍色を呈し、夜は波間に燐光きらめく、海上は頗る平穏で眠れる海の上に月影面白く浮み、鏡の如き面を飛魚うねり行くのも見える、朝敦夕榮の空は美彩を放ちて五彩七彩の雲を見る、或ときは橙色に、或時は淡紅色に、或るときは血の如く暮るゝ事もあつた。空は晴て秋の如くなつて、銀河の垂れし邊に十字星を眺め、星も影置く眠れる海には、神秘を藏してある如く感じられた。夜も暑く畫も暑く何事も手につかぬ、毎日々々デツキのチヤに横はり、讀書しては眠り覺めては讀書し、同じやうな事を毎日繰返へしたる日を迭つたのである。靜かなる夜は甲板に蓄音器始まり、奈良丸の美音も余はこの海上で始めて味はつた。司厨長小林氏と一等機關士硯川氏は余に多大の好意を表され、二氏の室を自分の室の如く占領し、電扇の下に横はり讀書及び描寫を爲し、嗜める日本茶には更に不便を感じなかつた、余はこの二君に多大の謝意を表するのである。
 椰子茂る島
 馬來半島の南端なる小島新嘉坡港に着、同乘者鮫島氏と早速上陸、氏の友人長野氏に迎へられ、和蘭料理店に行き有名なりといふライスカレーを饗さる。この地は別に見る可きもの無く、さりとて船に居るは暑く、市中を散歩するは尚暑く、先年も見物した植物園に行きて凉をとらんと、早速馬車を命じて植物園に走らす。
 この地は赤道圏内にあるため頗る暑く、熱帯植物繁茂して、市中も市外も緑を以て掩はれてゐる。植物園は市街を去る三哩程の距離にありて、焼き焦げたかと思ふ赤士の路をさると、兩側は緑に掩はれて邸宅あり、バラ護謨の森、榕樹の並木等を經、土人町を過ぎて巨樹欝蒼たる丘に到る、それが有名なる植物園である、門前に馬車を捨て門内に入る、十年前と大した變化を見ない、這入口より左方は種々の椰子を列植し、この極まるところが泉池で、こゝには水に適する植物が茂つてゐる、紅、白、紫、黄の睡蓮は今も尚昔の如く美はしく咲てゐる。池畔の樹に十年前自分の姓名を紀念の爲め刻むた事を思ひ出し、夫かと思ふ邊を改むると、十年といふ星霜を經た今日、少し形は變じたるも、その文字を讀まれたるは何となく昔が偲ばれた、そのとき同行の友はその反面に刻したが、その文字も讀まれた、其友別後兩三年の音信ありし後絶えて動靜を知らす、十年前の池畔其他は十年前の如く若々しく美はしい、文字を刻した樹には十年前の如く(大谷渡)の附着して大なる緑葉を四方に張つてゐる人間には十年といふ星霜は長いが、池眸の樹は淺く刻した文字に僅に肉のりて形態を變じただけである、十年以前に刻した自分は、今十年以前とどれ丈けの相違ありや、この紀念刻文字のこの樹に消ゆるとき、刻した主はこの世にありや否や、自然大と人生の朝露は今更の如く感じたが、又更に紀念文字を刻してこゝを去つた。
 植物園は丘陵に位置を占めて低地は池となつてゐる、池の周圍には濶葉樹が暗い程繁茂してゐる、池中には幾個の島があつてそこには一群の椰子及び露兜樹類が叢生し、影を水に倒映して羽毛の美しい水鳥はそここゝに啼てゐる、車輪大の鬼蓮は圓船のやうに浮んで葉に比しては割合に小さる白い花が咲てゐる。池畔から丘に登ると一帯の美しい芝生で花壇があつて奇花珍草が蒐集され、色の美香の美何ともいふ事が出來ない、その附近は大なる椰子類が列植され、その下に腰掛が置てある、自分はそれにかけて緑の叢中に鳴く虫や小鳥の自然の樂を開き、耳と眼と鼻と美感を味はつた。園内の各所に互大なる樹本繁茂して葉の大きい蔓草類がそれに纒ひつき、又は蔓葛植物全體に纏ひつき、細かき淡紫紅の花を多く着けてゐるのは、遠方より望むと吾紅櫻の咲き亂れたやうである。こゝを下ると一際凹んだ處に日蔭室が設けてある、この室は頗る廣濶で、羊歯類及び蘭科植物等は美しい緑と種々の★★★★て、自分に印象を深く與へた、緑は自然界に於ける美のる一とつで、緑中の鮮緑は羊齒屬のアジアレタン程麗はしいものは他にあるまいと思ふ。この室には土人の番人ありて親切に案内さるゝ、幾許の御手當を得んためである、日蔭室の内部はあらん限りの美彩に充ちてゐるが、この室の屋根は又蔓葛類が一帯に纒ひつきて紅黄白紫の美花が爛漫と光彩を放つてゐる。こゝを辭してかしこのチーハウスこゝの木蔭に日を暮らして、午後四時頃園を出づれば支那の俥夫が客待してゐる、自分はこれに乘り込んだのである、この地の支那人は英語を解さぬ、何といふてもチンプンカンである、これに乘ると俥夫は當なしに駈けるので、俥上では四肢を踏んでステツキの先で右左を指さねばならぬ、指圖をしてなければ何處まで行くか判らぬ滑稽な俥である。赤色の人、黑、鳶色、黄色の土人が群集する町、扇芭蕉に掩はれた邸宅、燃えるやうな赤い花の咲いてゐる町を經て海岸に出で、こゝに俥を捨て某寺を見物し、準頭ょりシヤンパンに乘り船に歸る。
 翌日は日本軍艦鞍馬及び利根が停舶して居つた、鞍馬の軍醫長は余が故郷出身の舊友なればこれを訪問す、種々の饗應され、艦内を仔細に案内さる、軍艦といふものを見たのは始めてゞある、こゝを辭して又上陸博物館を見物す。
 新嘉坡解纜。
 マラツカ海峡兩岸の緑樹、大小島嶼の散點を眺め、暑い暑いを連叫して彼南に着く。

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