三脚物語[第九回]
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
汀鴎
『みづゑ』第七十八 P.13
明治44年8月3日
一五人の組合が出來たので、是から毎週一度寫生に出掛けやうといふのだ、其時の規約といふものが振つてゐる。
寫生同盟規約
一、本同盟は、同志者相會し技術練習のため戸外寫生を寫すを目的とす。
一、毎週木曜日を以て寫生日と定む。
但、雨雪並に降雨の兆ある時は翌日に延期す。
一、同盟員は、當日午前九時迄に豫定の地に集合すべし。
但、時刻に來會せざる者は不参者と見做す。
一、寫生地は前週集合の際多數の意見により决定すべし。
一、寫生せる圖畫は、互に明示して其得失を研究すべし。
一、寫生當日の費用は各自の負擔とす。
一、寫生中他人の來觀するを恥ぢ其場を立ち去り、または中止するが如き醜行屡々なる時は同盟を謝絶す。
一、引續き不參五回に及ぶ時は脱會者と見做す。
一、新規入會は同盟員全體の承諾を要す。
以上
これが主人の畫嚢に貼つてあつた。戸外寫生に馴れない人達のことゝて、他人に見られるのを大に嫌ふ、それで同盟謝絶といふ大々的制裁を置いたのは面白い、實際最初のうち戸外でやつてゐて、人が後ろへ來ると厭やなものと見える、脂汗を出して一つ處をいつ迄も突ついてゐるのは、よく見る圖だが、それが少し場處馴れてくると、生意氣になつて、誰かに見せたいやうな氣がする、こんなのが、よく人の集まりさうな公園や市中で、反り身になつてやつてゐるものだ、此境を通り越すと、今度は人が居るも居なくとも平氣になる、これで一人前の寫生家になるのだらう。
二
最初は鉛筆からといふので、主人は早速畫學紙十六切のスケッチングブロックを買ふ、小さな畫嚢を買ふ、鉛筆を削る、そして第一回の寫生日たる三月二日を、喜憂相半して待つてゐた』第一回の寫生地は音羽附近といふのだ、その頃の音羽はまづ田舎といふてよい、淋しいものであつた。九時迄に主人の宅へ集まつたのは、HM君にJM君で、他の二人は來ない、もう五分過た、不都合だといふので、規則勵行不參と見做して出發した』護國寺の境内では、主人は始めて松の寫生をした、初めにしては達者なモンだと、僕も少々感服する、見物が來ても平氣でやつてゐた、但、書生風の人が來ると少々狼狽の氣味だ、他から見ては知れまいが、僕の敷皮には心臓の鼓動が傳つて來るのだから、ちやあんと分る、そのうちKM君やKH君も來た、銘々相應の獲物をして、何でもこの時は六時頃に散會した。
第二回は蒲田附近といふのだ、だいぶ遠方迄出掛ける、市中でも面白い處はあらうが、何分見物人が怖ろしい。此時は白い風呂敷包を首から下げたのや、草鞋ばきもあり、下駄ひきづりもあり、可なり異樣な風體だつた。蒲田の梅園で、KM君が女中に惚れられたといふので大騒ぎをした。とうとう矢口の渡し迄も往つて再び大森へ引返して歸つた、處が、汽車へ乘らない連中の、品川に來た時、KM君は梅干の曲物を落した、蓋がとれたので中實は道路に散亂した、この梅干はさる方からの賴まれものだ、大變だといふので、星明りにすかして拾ひ上げたが、何とかしなければ持つてゆけない、それで蕎麥屋へ入つて仕末をした、一つ一つ砂を吹き落して詰込むだら、穴が出來た、梅干が足りない、此不足はHM君が先刻拾つてやるふりして自分の口中へ押込むだので、其時三つ四つ小さな石が有つたと、白状されて見れば喧嘩にもならない。
三
此寫生會は十數回續いた。其の間には批評會も開いた。目黑地方、龜井戸、王子、角筈十二社、戸田川、多摩川沿岸等へも往つた。王子へ徃つた時は、主人は駒込の富士山の赤土に辷つて、新しい着物の尻のあたりを泥だらけにした事を覺えてゐる。多摩川沿岸では往復十數里の道に閉口して、歸りには誰れも口をきくものはない、脇目もふらず重い足を引づり引づり歩行いてゐた、身輕な僕をさへも荷厄介にして、折々はうつちやつて往きさうなのでハラハラした、僕の脚が自分で歩るけるならと思つたのは此時だつた。何でもこの遠足と覺えてゐるが、HM君は、途中で百性から堀たての甘藷を買つた、それを新聞紙で拭いてナイフで切つては食ふてゐる、KH君もやつてゐる、JM君は口へ入れたが忽ち吐き出した、行義のよい主人は見て笑つてゐたが、この甘藷は終に持てあまして、道に遊むでゐる小供にやつてしまつたつけ。
批評會は銘々の家で交る交るやつた、僅かな會費で菓子や鮨を取よせて、いひたい事を言ふて食いたいものを食ふて散會した、會員ばかりでなく、同好者にも見せた。
主人が單獨に寫生に出掛けたのは此寫生會が出來てから後で、そのころは、よく朝早く霧のあるうち、大塚や巣鴨あたりへ往つて、小さな鉛筆寫生をやつた。朝早く寫生に出るといふのはよい事だ、僕も睡いのを我慢してお供をするのだが、朝早いとうるさい人は集まらず、また畫間見て詰らぬ景色もよく見える、衛生にもよからう。この習慣は今でも年々繰返されてゐて、夏になると、主人は四時過に起きて、顔を洗ふが否僕を片手に出掛ける、スケッチブック一册ぎりの時もあり、寫生箱を持出すこともある、一時間も寫生して歸つて來ると飯が旨いといふてゐる。
寫生會が追々飽きの來た頃は、主人は多く單獨に遠方迄も出掛けた、無論其間に塾へは毎日通つてゐた、可なり勉強家の方であつたらう、手本の模寫は間もなくやめられて、寫眞で肖像を畫くやうになつた、今から思ふとくだらぬ事をゃつてゐたものだが、それでも繪を習ふといふのは、かうしたものと思つてゐたから、誰れも不思議がらない、小さな寫眞をコンパスで割合を見たり、碁盤目のあるガラスを製したりして、一生懸命に似せやうやうとしたものだ。
四
主人が水彩畫をやり始めたのも此ころからだつたらう、最初は清水といふ人から、寫生畫を借りて模寫してゐた、此寫生畫は、清水といふ人が自分で描いたといふてゐたが、實は三宅先生の寫生したものだつた、主人は夏中はそれを寫してゐたが、終にある時水彩の寫生を試みた。
それは夏のある夕方で、家の窓近くから向ふの長屋の一隅を見た處だ、家の中でやるので、無論僕の御用は無い、それで毎日謹むで拜見してゐた。
主人は、今でもわるく細かいウルサイ繪を畫く、この風は、已に第一寫生の時からあるのだ、細かいのは主人の本領で、ウルサイのは主人の性質だらう、綿密といふと聞えがよい、小刀細工といふとあまり褒められない。
屋根の瓦は遠近法にお搆ひなしに、一枚々々畫く、柳の葉はこれも一枚々々叮嚀に畫く、そして四五日して出來たものは中々立派な作であつた。
併し主人が水彩の寫生は、其後一年程うち捨てられてゐた、それは何でも、水彩畫の研究といふものは非常にむづかしく、油繪が充分出來た人でなくては畫けないものと、敎師から聽いてゐたし、また實際やつて見ると、油繪よりも困難が多かつたからだらう。それで其後は、寫生には油繪具を持出してやつてゐた、何でも何處かで桐の箱を注文して、よく近處ヘ出掛けた、KM君などと同行したこともあつたらう。房州へ旅をした時など、今ていふ二十號位ひのやつを携えて往つたものだ、思へば一昔しだが、僕の人から珍らしがられたのも其時分のことさ』油繪では景色ばかりてなく、肖像も畫いた、モデルなしの寫眞からやつたのだから、肉色などは想像でつける、よい加減に畫いたのを先生の處へ持つてゆくと、上からベタベタ繪具をつけて直してくれる、まアそんな樣な、定見のない勉強の仕方だつたのだ。主人が最初に恁むな不完全な修業であつたのに拘はらず、畫家として今日世間に顔を出したゐられるのは、寧ろ不思議な位ひだ、これで見ると、初めから立派な敎育を受けてゐたなら、今ではエライものだらうに、さてさて御氣の毒の次第で、考へて見ると、僕も出世を爲そくなつた譯だ。
五
主人が繪をやらない前から、油繪の展覧會はあつた。明治美術會といふのがそれで、第一回を不忍池畔の競馬の馬見所でやつたさうだ、僕がお供をして見たのは、明治二十五年の芝の彌生館に開かれた展覧會で、其時には、山本芳翠氏の十二支なんどといふ大作の出た時で、何でも六七回出掛けたやうに思ふ。その頃の主人の考は、今から推察して見ても、一向幼稚で、ただ繪かきになるといふ丈けは極まつてゐたが、風景とか人物とか、又人物でも肖像とか風俗とか、そんな事の考も無い、何を專門などとは思はない、幸ひ多少の財産もあつたので、何が一番金になるなンて、卑しい研究もやらなかつたらう、食ふために繪かきになつたのか、面白づくでやるのか、そんな區別も元より極まつてはゐない、だゝ何かなしに、毎日筆を採つてゐたに過ぎない、それ故、人物畫の面白いのを見ると、自分でも畫いて見たくなり、風景のよいのに遙ふと、やつて見たくもなる、何でも感心したものは直ぐやりたいので、所謂動揺時代とでもいふのだらう。
主人が初めて展覧會へ出品したのは、二十七年で、其時は小さな油繪を二枚出した、たしか三河島あたりの風景であつたらう。何でも三宅先生の水彩畫が澤山出たのもこの年で、額縁などに入れることが出來ないから、安い畫學紙を二つに切つて、繪を貼つてピンで止めたものだ。畫は心持のょい強いキビキビした色で畫かれてあつた、桃の花が咲いて傘が干してある圖や、久世山の夕方など、今でも記臆に殘つてゐる。其翌年も中川邊の油繪を一枚出した。三十年には明治女學校新築寄附のために開かれた展覽會へ、數十枚の水彩畫を出した、それから後は油繪の出品はなく。いつも水彩ばかり出してゐて、ある年は實に六十餘枚を陳列したことがある、これは明治美術會がそろそろ下火の時分で、大家連は少しも繪を畫かぬ、會員一體に不勉強であつたので、主人が澤山寫生を持つてゐるといふので、會から頼まれて、それで一時に澤山出したのであつた。
明治女學校展覽會の賣上として、金貮圓、其後の展覽會に、關口の上流紙すきを描いたのが金四圓、其後が八圓に四圓といふ風で、そろそろ王人の繪も人から買はれるやうになつて來た。其時分は、一體に繪は安かつた。現時日の出の大家中澤先生の水彩畫に、壹圓五十錢といふ札がついてゐた、三宅先生のでも三四圓で八ッ切が買へた、當時、麻布あたりの菖蒲園を描いたのを、金十二圓で西洋人が買つて往ったが、三宅先生は夢では無いかと驚ろいたとさへ傳へられてゐた、其くせ一方には、小さな油繪で、五百圓とか八百圓とか直段のついてゐるのもある、こんなものは、どうせ賣れないものと見ての虚勢に過ぎないのだ。六
二十八年のことだらう、中丸先生の處で、ある人から外國人の畫いた水彩畫を買山讓り受けた、それ等の繪は、今では東京美術學校のものになつてゐるが、僕の主人が水彩畫に興味を持ち始めたのは、是を見てからであつた、粗い繪も細かい繪もあつた、筆者には英國人も和蘭人もあつた、新しい人のも古いのもあつた、それで、其年の秋からいよいよ水彩畫の戸外寫生を試むるやうになつたのだ。
僕の主人が、水彩で初めて戸外寫生をやつたのは、九月の十五日で、KM君も一緒であつた、この日は中川べりの土手で、榛の木と靜かな流れを細かく畫いた、ワットマンなんていふ贅澤な紙ではなく、五錢ばかりの畫學紙の八ッ切であつた、一タイ今の書生は生意氣で贅澤だ、主人の勉強時代には、水彩だつて滅多にワットマンなンか使はない、その頃から專門にしてゐた三宅先生でさヘ、よく畫學紙の厚いのに畫いたもので、ワットマンを使ふ時は、表ばかりでなく裏へも畫く、少し出來の惡いのは海綿でキレーに洗ひ取つて其上へ畫く、そして洗つた上ヘ畫くと、繪具がオチッイて却てよいなンて、負惜みを云つたものだ。寫生箱など誰れも持つてゐず、四ッ切位ひは膝の上でやる、畫架といへば大きな不調法な代物ばかりであつた、そのころから少しも變らず、十年一日の如きものは、かく申拙者でござる。繪具といふたらチューブ入はホワイトだけで、他は皆ブリキの小さな皿に入つたものか、ケークに過ぎない。陶器入は高くて手が出せない。近頃のやうにニセ繪具が無いから、それでも皆發色はよかつた、いま五錢で賣るチエープは、常時十八錢、安くなつても十二錢した、其代り正眞の舶來で、安石鹸のやうに澱粉入りではない、和製もあつたが誰れも使ふものは無かつた』郊外の水彩寫生は可なり長く續いた、毎週一回會費五銭といふので、KM君と二人だつた、目黑や、井の頭や、品川、龜井戸と、十六切を二三枚宛畫いてゐた、この會費五錢が、當日はそれ以上使用する事が出來ないといふ堅い約束だから、可なり困つた事もあつた。ある時は、KM君が遲刻したので、主人はひとりで出掛けた、遲刻したKM君は上野から淺草迄鐵道馬車に乘つて二錢取られた、平井橋の橋錢に往復で二錢、殘りは途中でふかし芋を買つたので終に文なしになつた、すると生憎にも草鞋が切れた、草鞋を買ふことが出來ず、長い小梅の堤を痛い足を我慢し我慢し歸つたこともあつた。
恁んなやうな滑稽は、主人達ばかりでなく、他にもあつた。これは近頃聞いた話だが、ある時、永地渡部藤村の先生達が向島の方へ寫生に往つた、渡部藤村兩先生は酒黨で、永地先生は甘黨だ、今日は酒も飲まず菓子も食ふまい、犯したものは罰金といふ相談をした。寫生が濟むでの歸りに、木下川の岸へ來ると、藤村先生と渡部先生とが二人先へゆく、何かコソコソやつてゐたが、川の中へポカンと投り込むだものがある、何だらうと見ると正宗の空罎だ、これを見た永地先生は、忽ち袂から菓子を出して食ひ始める、これで罰金は平等となつて、淺草の奴鰻に夕飯をやることにした、さて勘定になると、誰れも持合せがない、お互に懐中をあてにしてゐたのだ、そこでテレかくしに、これは安い、もつと何か食はうといふて、なりたけ手間を取るものをいふので、更に茶碗蒸を誂へて、其間に藤村先生は金策に出かけた、茶碗蒸は不幸にも馬鹿に早く出來て來た、金策に出た人は歸つて來ない、食ふてもい譯だが、何となく氣になる、漸く歸つた時分には、冷えて氷の如きものになつた。此時藤村先生は、懐から數十金を出して、わざと女中を前に並べて、僅かはかりの拂ひをしたさうだ。
とに角、主人か寫生を水彩でやつたのは九月十五日で、いまでも此日を紀念として、KM君と一緒に飯を食つたり、一緒に寫生したり、繪の交換をしたりしてゐる。このKM君といふのは、實名眞野紀太郎先生の事さ。
主人の持物としては、畫架は元より繪具箱も、幾度も變つてゐる、こんな古い事を知つてゐるのは、憚りながら僕ばかりです。