寫生地案内
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
三脚子
『みづゑ』第七十八
明治44年8月3日
海か山か、誰れしも夏になると迷ふ問題である。海邊は朝夕でなければ寫生が出來ぬ、炎天の砂濱と來たら到底十分間も居られたものではない。山間は樹の下へ入りさヘすれば畫間でも寫生が出來る、その代り寫すべき綠は單調で、その上虫が居て寫生に件ふ困艱がある。所謂紳士連の入り込む温泉場や海水浴場は、寫生家、特に學生の領分外だ、あまり人の往かぬそして景色のよい處といふと、交通の不便に加へて、族舎に氣の利いたものが無い。山間なら小さな川魚、海岸でも麥飯に滿足せねばなるまい、蚤や蚊に苦しむのは言はずもがなである。
山ヘ往く人、海へゆく人、それは銘々の好みとして、さてあまり都會に連くない處で、山ならば何處がよいかと言ふなら、僕は武州御嶽をお勧めする。御嶽へゆくのには、甲武線を立川から青梅鐵道に乘かへて、終點の日向和田で下りる、それから、山道なり本街道なりを歩行するので、此間は二里半位ひなものだ。山道といふのは、日向和田の萬年屋といふ茶屋の傍を谷へ下って、多摩川を舟で渡り、吉野村から山へ入つてゆくので、眺望はよいが、樹が少ないから日中は暑からう、道は迷ふやうな事はない。本街道は、多摩川を左に見て二股尾を過ぎ、澤井から萬年橋を渡つて山に入るので、この方が少し連い。山上は夏でも寒い位いだから、其つもりで下着位ひは持つてゆかなければならぬ。宿屋は無いが、御師といふて神官の家が澤山ある、何れも壯大な搆ひをしてゐるが、何處でも喜んで泊めてくれる、宿錢も極々手輕で濟む。近來は知らないが、美術學校の岩村先生はよく夏中勉強に往かれたものだ。景色としては武藏野を見下した大景もあり、甲信の山々や富士を見る場處もあり、農家もあるので道路山水も面白く、アマチュァにも專門家にも向く、一ヶ月位居てもスケッチには困るまい。次に海の方では、相模の秋谷邊が變化に富むでゐて面白からう、秋谷は、逗子で汽車を下りると馬車がある、それで葉山迄往つて、それから先は徒歩である、長者ケ崎から一里程で、宿は一二軒しきやない。こゝは海の方もよいが、漁村の工合が變化に富むでゐて、いくらでも繪の出來る處だ。此邊は要塞地帯であるから、往くのなら其前に、東京灣要塞司令部の許可を受けなければいけぬ、最初に願書の雛形を請求し、後ち其雛形によつて願書を出すと、やがて許可状が來る、前の時も後の時も、返信用として郵券を封入しないといけない。秋谷邊から長井あたりは、人氣もよく宿料も高くはない、そして都人士はあまり來てゐない。