日記抄

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第七十八 P.19
明治44年8月3日

 鳥類の研究に從事せらるゝ獣醫學士内田清之助氏に逢つた、氏の話によると、日本現在の鳥類の種屬は六百餘であつて、其うち益鳥として保護さるゝものは三百餘種に過ぎない、そして其益鳥といふものも年々密獵其他の爲に其數を減じてゆく、霞網は最も多く鳥類を捕獲すると同時に益鳥の多分をも捕へるのである。また保護されてゐない鳥でも、全部害鳥といふのではないから、出來る事なら一切の鳥類の捕獲を禁じたいと言はれた』凡そ動物間に在つて、色彩及音聲の美なるものは實に鳥類である。昆虫には其色彩の美はしいものは多いが、いかにも形が小さい、其聲の美なるものは數が少ない。魚介獣類等、稀には美彩を放つものもあるが、鳥には及ばない、實に鳥類は自然界の活きたる粧飾である。私は美術家といふ立場より、鳥類保護には最も賛成を表する一人である。
 私は、曾て小鳥類を狙ひ廻る遊獵家なるものを憎むで、薪聞に雜誌に、『其携えたる二連銃をしてステッキに代へしめよ否三脚と代らしめよ、そして自然の破壊者でなく自然の保護者となつて、この可憐なる小禽をして、徒らに散彈の的となすことなく、天地間を自由に舞はしめ歌はしめよ』と叫むだことがある。私は敢て宗敎家を氣取つて無益の殺生を忌む故のみではない、かの繊弱なる小鳥を追かけ廻す男らしからぬ所爲を憎むと同時に、自然界より美しいものの僅かなりとも減じゆくことを悲むからである。(六月九日)
 雨ふる。横濱支部の研究所ヘゆく、稽古終りて後『水』について少しく語る。
 友人眞野紀太郎氏入院の報あり、氏は平素極めて壯健の人、如何にして病を得られしかを怪しむ、健康は人生幸福の源泉なり、一日も早く恢復を祈る。(六月十一日)
 正男の望むまゝ、用達の歸りを淺草公園に入つて見る、何々舘と銘うつたる活動寫眞の建物は、無數のイルミネーションに飾られて、紅白の燈光舘前の池水に映じたさまは頗る美觀である。活動寫眞は、現時都鄙を通じて大流行である。敎育上の利害など喋々と議論もあるやうだが、私はそれよりも、詰らぬ時代演劇の寫眞をまづ第一に除いて貰ひたい、支離滅裂なる脚色や、不自然なる登場人物の動作を、僅かにシーンの變化によつて補つてゐる、淺薄にして低級なる藝術は、幾度見た處ぞ何の快感も起らず、却つて嫌厭の情を催さしむるのみである。(六月十三日)相撲を好む友がある、來つて相撲道の話をする、その話をきくと相撲といふものは繪を書く人にいろいろの敎訓を與へるものだと思つた。
 見てゐて一瞬間の勝負でも、彼等は全力を盡すものであるから、非常な疲勞を覺ゆるものだといふ、そして勝負が長くなる時には、平素に稽古を充分やつてゐる者は息が續くが、然らざるものは忽ちにして精力が盡きて敗れるといふ、繪でも平素の修養が足らなくては大作も出來ず、また一枚の繪を仕上る上に於ても、筆の執り初めと終りとに元氣の相異が出來て來る、所謂龍頭蛇尾に終るものである。
 相撲には場處運といふことがある、また稽古相撲に強くして晴れの土俵によく負けるものがある、デツサンが馬鹿に上手でありながら、製作の旨くゆかぬ畫家もある。
 精氣の充實は相撲に勝つ大原因である。繪畫の製作に於ても、元氣がなくては見るに足るものが出來ない、繪の人を惹つけると否とは、その内に含む活氣の有無によつて定まる。
 力量ばかりでは相撲はとれぬ、幕の内に入ることは出來ても三役には容易になれぬ、況んや横網をやである、繪でも熟練や小手先の器用のみでは立派な作は出來ない、頭が無くては駄目である。
 相撲取の全盛期の短かいのも、畫家の生涯とよく似てゐる。私の父は相撲が好きで、毎場處九日を通して見物した、幼少の頃私もよく連れられて見た事がある、今日では何かの機會に見物することはあるが、自から思ひ立つて往つた事はない、見てゐれば多少の興味を覺えぬこともないが、例の勝負嫌ひの性質として、勝つたものに手を打つて喜ぶよりは、負けた方に氣の毒に思ふといふのだから、到底相撲を見る資格はないのである。併し新聞紙上、特に朝日新聞の評話を讀むことは好きで、新聞を手にするに、まづ第一に眼はそこにゆくのである、實際直接に見てゐては其勝負は中々分らぬものだといふ、もの二間と離れぬ近くへ寄つて見ても、やはり素人には分らぬといふ、丁度初學者が畫題の見つからぬやうなものであらう。(六月十六日)正男が鹽田を見たいといふので、スケッチ旁々行德ヘゆく。鈴木氏と共に朝八時高橋の通運待合所へゆくと、やがて渡邊君が來る、二神嬢が來る、八時半に船は出た。
 所謂油照りの蒸暑い日であつた。船の中は相かはらずの日曜とて、釣道具を手にした人達で一ぽいである、釣に關する話はあちらでもこちらでも盛むで、丁度遊獵家が獲物が無いと鳥屋で買つて歸るといふやうに、釣師目あてに魚を賣つてゐる處があり、それを銀貨釣とよむでゐる。繪かきのよく集まる房洲あたりで、スケッチを賣つたなら、下手な先生達は、自分で描かずにそれを買つて歸るかも知れない。
 舟行三時間に近く漸く行德に着いた。町を拔けて田の畦を海岸さしてゆく、日はぢりぢり照つけて中々暑い、とある松の林の中で畫食をした、二神嬢は少し暑氣にあてられて寫生もせで此處に休むでゐる、私連は丈より高き芦をかき分けて、堤の上を海岸へ出で、東京灣の干潟を寫すこと二枚、やがて元の行德へ歸り、德願寺に菖蒲を見て、徒歩一里中山停車場より汽車で夜に入つて歸宅した。
 行德船橋、稻毛、登戸等の、東京灣に面したる海濱は、遠淺でいづれも同じやうな感じであるが、品川や大森あたりから見たのと異つて、何となく重い暖かい心持がある、そして此方面は入日の色がよく、空には必ず雲があつて、いつも心持のよいスケッチの出來る處である。東京に近く、交通も便利であるから、寫生地として優秀の場處といふことが出來やう。(六月十八日)前夜來近年稀なる大暴風雨であつたが、庭の樹木が二三本倒れたのみで、幸に他に損害はなかつた。
 午前滿谷氏を訪ひ、午後からは上野韻松亭に竹の臺茶話會總會に臨んだ、來年度展覽會場は、抽籤の結果、太平洋畫會は北部中央にして四月廿日より一ヶ月間、日本水彩畫會は北部中央九月十一日より三十日迄と極まつた。
 午後から正男を連れてポプラークラブへゆく、未醒君八郎君は足袋跣足になつて一生懸命にテニスをやってゐる、そのうち二三の連中が來て相撲が始まる、未醒君を相手とした青年は、立會ふや否、一溜りもなく飛ばばされてしまふ、力を出さないうちに勝負がついて呆氣ないものであつた。
 クラブの設備は追々整つて來る、名稱のよつて起りしポプラーも、數百本垣に接して植えられた、五年後十年後は嘸かし美しい眺めになるであらう。(六月二十日)
 柏木に三宅氏を訪ねた、座に一客あり、此夏の旅行につき相談された、一タイ景色は人々の趣味によつて何處がよいとか惡いとか極める事が出來ない、風の無い日の湖水は、波の立つた時とまるで趣きが違ふ、雨の時や曇つた日にょくつて、晴れた時に惡いこともあり、朝夕に面白くつて畫間は詰らといふ風に、同じ景色でも時間と季節にょつて甚しく感じが變つて見えるのである、それで、前に一度見た處でも、二度目に往って面白くなかつた例もある、自分でさへそのやうに極められぬのだから、他人に何處がよいとか惡いとか斷定的に指圖されるものではない、まア他人の話などあまりアテにせずに、そしてよい處と思つても充分内輪に見つもつて旅行したなら、少なくとも失望するやうな事はあるまいと、三宅氏と語つた。(六月二十一日)
 某縣の師範學校長をして居られる友人H氏が、今朝東京へ着いたとて來訪せられた。氏は繪畫の趣味の高くして、旦年少學生の精神修養上益あることを知られ、嘗て校友會の殘餘金を以て、多數の風景畫を購はれ、寄宿舎食堂の壁面に掲げて、日夕生徒をして清新の氣を養ふの用に供してゐられる、其感化か、近頃偶々同縣の某小學校に於て、ある筋より受けたる賞金若干圓を以て、紀念のため一面の水彩畫を得て、其校に永く留め置かんとの議が起り、H氏は、其繪の揮毫を私に托された、私は普通の依頼物と異なる意味に於て光榮を感じ、快よく承諾した―私の凡手は、如斯由來つきのものに對し、よくH氏、並びに某小學校の諸君に満足を與ふべきゃを氣遺ひつゝ。
 嘗てある縣にて水彩畫の講習會を開きし時、其地の師範學校々長某氏は、繪畫を學ぶは堕落の第一歩にして、青年男女間の醜事は繪葉書にありとの理由から、淺薄なる繪葉書を以て水彩畫と同一視し、其校の職員をして會務に關係することを禁ぜしのみならず、生徒に命じて一人も講習會に出席せしめなかつた。私は思ふ、繪畫を畫くといふ事は或は男女間のある役目を爲す事もあらう、併し如斯事を云ふたなら、其繪葉書にかく文字、その心持を綴る文章は、實に繪畫よりもより多くの役目に從ふのである、何故に此學校に於ては、文字を書くことを禁ぜざるや、書を讀むはやがて文章を習ふもの、是又禁ぜねばなるまい、私は、このやうな學校には、畫學敎師は多分缺けてゐるのであらうと思つたら、矢張受持の人が在つた、そして此縣が美術の應用を最も必要とする、有名なる漆器産地であるので、寧ろ滑稽の感を覺えた事があつた。偶々H氏に逢つてはしなく此事を想起し、同じく敎育に從事せらるゝ人にして、如斯心事に相違あるものかと疑はれた。(六月二十四日)
 午後から水彩畫研究所の月次會にゆく、出品畫六十餘枚、水野、相田、尾崎、諸君の作に目を惹くものがあつた。批評が終つて後、折から『みづゑ』にあてて送られた丸山氏の通信が到着したので、小山、水野兩君を煩はして、一時間あまり朗讀して貰つた。(六月二十五日)
 用事ありて中根岸に中村不折君を訪ねた、中村君は折抦日本畫の筆を執られてゐた、西洋畫が本職で日本畫はイタヅラにやつてゐたのが、西洋畫は金にならないので、今では本職が道樂になつて、日本畫が重な仕事になる、甚だ心得ぬ時勢だが止を得ない、最も繪は道樂でなくてはよいものが出來ない筈だから、自分の本領の西洋畫で生活せぬことは、却て仕合せかも知れないといふて笑つて居られた。
 中村君を訪ねると、いつも文字の上に於て何か學問をする、今日は、畫といふ字、着といふ字、其他二三の説明を聽いた。
 夕刻、『みづゑ』に借り受けたブローヂ及びナイル河の水彩畫を携えて三宅君が來訪された。氏は『みづゑ」のために、蘇國に於ける所感といふやうなものを、間があつたら書いて送らうといはれる、『みづゑ』讀者も定めて望む處であらうから、私は氣の向いた時に是非執筆して下さいと頼むで置いた。
 『みづゑ』のために―三宅君が外遊さるゝ時も、石井君の時も、何か通信やら所感やらを寄せられるやう頼みたかつた、併し、繪でも文章でも、畫かうと思ひ言はうと思つた時に筆を執つたものでなくては、眞の色も見られなく、眞の聲もきこえぬ、頼まれたから義務にといふのでは、頼むだから載せねばならぬといふ事になつて面白くない、それに、兩氏共既に雜誌や新聞に通信を約されてゐたのだから、當時私は何とも言はなかつた、それにも拘はらず、『みづゑ』に對して同情厚き石井君は、遠く羅馬より、多忙の中を『みづゑ』のために畫いた一葉のスケッチと、數枚の原稿とを送られ、いままた三宅君からも、このやうな話がある、『みづゑ』は實に幸福の兒である。(六月二十六日)
 北山清太郎氏は、研究所通學の餘暇に、嘗て不便を感じた苦い經驗から、地方の修業者の便利を圖るべく、洋畫材料供給會なるものを設けられた、實に地方に在つては、自分の欲するものを、繪の事を碌に知らぬ商人の手によつて品物を求むるのであるから、いつも滿足な供給を受けない、そして繪具は何屋、畫帖は何處、書物は何社と、一々別々に注文を發せねばならず、不便と不經濟は免かれることが出來ない、地方の『みづゑ』讀者から、春鳥會へ宛て、種々なる買物を托され、また代理部の如きものを設けるやうに御望みがあつたが、今でさへ仕事が多くて困つてゐるのに、其上そのやうな監督は出來ぬから、一々お斷りしてゐた、今度の北山君の仕事は、丁度代理部と同じ役目をするのであるから、太に便利であらうと思ふ、今日、北山君は來つて、注文の景況を語り、又迅速に品を送つた方々から、安價にして且早く手に入つたと喜ばれた禮状二三を示された、此上は飽迄注文主の便利を主として、滿足を輿ふるやう呉々も君に頼んで置た。
 H氏は近々歸校せらるゝにより、この日の畫餐を共にずべく來訪を求めて、種々趣味ある物語をした。卓上には數種の雜誌が置かれてある、雜誌には必ず口繪があり挿繪がある、これを見てH氏は『近來は新聞でも雜誌でも挿繪が無ければ賣れないといふ、挿繪の多くなつたのは流行のやうに思ふが、實はあまりに讀むものが多過るため、丁度腦を使つた後に新しい空氣を求めるやうに、挿繪によつて慰籍と休息とを得るので、心理上からも生理上からも必要を生じた結果だらう』と云はれた。私もまたそのやうに思ふ、世が複雜になり、人生の行歩が困難になる程、繪畫の如きは確に必要の度を增すべきであらう。
 (六月二十九日)
 ある處で展覽會を開くからといふので、四五枚の水彩畫を貸した、それが今日戻って來た、挾みの締糸が濡れて、紅い染料は亂れてマットの一部を汚した、それはよいが、繪を壁に吊す時に、何等の考もなく、マットの上から留鋲を打つたらしく、處搆はずマットの上に鋲の穴があいて居る、鋲は錆てゐたのだらう、穴の周圍四五分徑に赤く圓くなつてゐる。畫題とか筆者の名とかを、紙に書いてそれを貼つたのだらう、色マットの上には紙を剥した跡が、二三分の幅で二筋つづ殘つてゐる、此五枚のマットは一枚も再び使用することが出來なくなつてゐた。マットは一枚二三十錢で新しく買へるものだからどうでもよい、併し、厚意上貸してやつたものに對して、如斯非常識の取扱を爲すといふことは、繪をかく人として許すべからざる事だと思ふ、繪は如何に取扱ふべきものかを知らすして、展覽會開催も實に滑稽ではないか、私は地方のために、美術趣味普及に益する事なら、誰れにても自分の繪を貸すことを拒まないが、如斯取扱を受けたのでは、今後は知人ででもなければ求に應ずることが出來なくなる、今回の所爲の如きは、實に趣味普及の上に一大妨害をなしたものと云ふてもよからう。
 繪を貸す上には、多少の損害は覺悟の上であるが、とに角私にとつては、中には大切なものもあるのだから、注意の上にも注意して欲しい。先年も同樣なことがあつた。甚しいのは繪の裏を、糊つけ用に使ふたゝめ、畫面に凸凹が生じて、終に一枚を破り捨てたこともあつた。またある展覽會に貸したら、いつ迄經ても返さぬ、段々催促を重ねたら、一週間一度の日曜の休みに、數人集まつて摸寫してゐたのだといふ、摸寫をする事は咎めない、相應の時日に返す事が出來ないなら、此方の承諾を求むるがよい、徒らに手數と迷惑をかけさせられるのには、いつもいつも閉口するのである。
 辭を低くして繪を借りて置ながら、一番暗い廊下の隅などに並べて置たり、畫面に窓から日光の直射するのを搆ぱず置たり、狭い部屋にガラスなしで懸けて、盛んに煙草を吸ふたりするのは、むしろ通例であらうから、今更彼是は言はぬが、繪を畫く人は繪の取扱方も少しは知つてゐても損ではあるまいと思つた。
 (六月三十日)
 ある人が、數枚の繪を携へて來て批評して欲しといふ。面白い圖柄もあり、巧みに書いたのもある、併し殘念な事は、何れも色が單調である。特に時節柄、緑の色が一定てしてゐて、遠い近い變化も現はれず、又種類も畫き別けてない、綠の色はすべての色彩の中で一番ムヅカシイものとしてあるが、それにしても此人の如きは、綠を見るとまづいつも使ひつけの繪具の處へ筆が往き、それをたゞ淡くとか濃くとか區別して着色するまでゞ、自然の色を見て後に、繪具の選擇混合を試むるのでなく、自分極めの綠色を持つて來て、自然の色をその方に一致せしめやうとしてゐるのであらう、此事を説明したら、全くその通りですといふて苦笑してゐられた。研究といふことなしに、何枚寫生を試みても上手になれるものではない。(七月一日)
 支部の研究所が、保土ケ谷から横濱へ移つてからこれで三回になるが、いつも雨ばかりである、今日も批評を終つて後ち靜物寫生をやらせた。
 夕刻から、伊豫屋に開かれた太平洋畫會の展覽會委員慰勞會に臨むだ、吉田君は不相變私に碁をやれといふ、少し自分より下手なものを相手にするのは面白か知らないが、相手になる方は苦しい、勝負事の嫌ひな性質だから本氣になれない、熱心になれない、いつ迄やつても上達はしないに極まつてゐる、遊戯は勝負といふことを重きに置かぬ無邪氣なものが面白いと思ふ。
 大妓小妓、酒間を周旋し、あるものは撥を扣へて、連りに唄へと客にせまる、會の人は一たいオトナシ過ぎる、誰れも騒ぐものが無い、ともすれば歸り仕度をする、私もその一人であることは言ふ迄もない。
 妓を聘して、舞はせ唄はせ、そして後に、小妓に欲しがるものでも買ってもやり、大妓に浮世話。ても勝手にやらせて、黙つて聞いてゐたら面白からうと思ふ。ある人にその事を言ふたら、それは昔しの通人とやらがした事だと云つてゐた。(七月二日)
 雜誌『新日本』を見る。樋口龍峡氏は「日本の山水と繪畫」と題し、嘗て私が氏に語つた風景論の一節につき、所感を陳べられてゐる、其要は「某畫伯は、日本の山水は薄べらで奥行がない、如何に苦心しても歐米の風景畫のやうな厚味のある深刻なるものが出來ない、日本で描いたものと西洋で畫いたものでは、同一人の手に成つても深さが違ふ、日本の風景は日本畫に適して洋畫には向がない樣たといはれたが、日本の風景は果して奥深い壯大と崇高の趣を藏してゐないのか、こゝには疑問がある、日本の風景は變化が多い、樺太北海の林野、日本アルプスの高嶽、蠻煙にかくるゝ臺灣の森林、朔風吹すさぶ北海の海、鬼火暗に物すごき玄海の沖、空間の觀念に捉はれず、大小の比較を去つて、たゞ自然の威力が示す深趣を探つたなら、到る處に壯大と崇高の趣はある、吉野松島嚴島の優美、神居古潭耶馬其他の奇峭、富士御嶽赤石等の雄大、其他何々と列記したら、自然の景は鍾まつて神州にありと云へる、厚みも深みもある、それを平坦なり淺薄なりといふのは、何の爲であらうか、日本の自然罵るべきか、凡庸畫工の多きを笑ふべきか」と、こんな冐頭で日本の風景觀を述べ大に氣を吐かれてゐる。私は大體に於て氏の説に服するものであるが、たゞ私が、嘗て氏に語つた時、あまりに短時間の談話で、旦私の話しやうが惡かつたため、私の説を氏は誤解してゐられたやうである、私はいま日本の風景について、少しく研究してゐる事がある、一二年の後考が纒まつなら、私は『新日本』の紙上を拜借して發表したいとも思つてゐるが、尚氏に御話しやうと思つた意味は、私の所感で云へば、日本の風景の、是迄絶景として世人に知られてる處は、概して深味が乏しい。日本の風景を感じの上から大別すると、東北地方、越後から、秋田青森、北海道の方面は、暗くして鈍く重い、中國方面、京都以西、九州の一部、四國の一部は、明るくして鋭く弱い、九州の大部及四國の一部は知らないが、多分明るくして強く旦重いやうで、その中庸を得て、重からず輕からず弱からず強からず、また明暗の上にも適度であるのは、中部の關東地方で、兩毛甲信、東海道の一部である、それを現今の繪畫の形式の上にあてはめて見ると、瀨戸内海方面は、日本繪に尤も適してゐて、明るく奥行なくパッとしてゐる、京都を中心として、日本繪の發展の見るべきものあるは偶然ではない、特に須摩舞子あたりの景色は、日本畫以外、あの感じを出すのに適當な畫風は無いやうに思はれる、是に反して、東北地方となると、最早日本畫は何ともすることが出來ない、★しくして深味のある感じ、物と物との輪廓が明らかでなく、何となく重く鈍い處は油繪の領域であつて、昨年の公設展覽會に、或人が秋田地方の風景を畫いて出品したら、外國の繪の模寫だらうといふ理山で、刎ねられたといふ説さへある程、それ程風景の感じが西洋のある地方に似てゐる、ひとり中部關東方面の山水は、日本畫にしてはやゝ強過るし、油繪としては少しく重過る、丁度水彩畫といふ形式を持つて來て寫すに適してゐる。由來何の形式でも、物を寫せぬ事はない、油繪で日本畫的の場處を畫いて惡いといふこともなく、日本畫で重い處が畫けないといふ譯もないが、材料の適否は其製作に影響する處多きは言ふ迄もないので、私は日本の風景を以上のやうに觀察し、最も中庸を得てゐる處の山水美に富む中部方面を描くに、私共の主張してゐる水彩畫が、一番適當であるのだといふ論に結着させたいのである。この意味を以て、前の樋口氏の説と對比して見たら、私が敢て日本の風景を貶しめたのでもなく、(淺薄、深味の無いといふ事は、通常惡い意味にとるのが至當ではあるが、風景として必ずしも重い深いものばかりがよいとは云ヘぬ、重厚深遠といふものに對して、瀟洒淡白といふ風に評してもよからう)たゞ其特微について一言したゞけで、敢て外國の風景に肩を持つた次第ではないといふことが分らう。氏はまた、私共洋畫家が、いかに苦心して深味を現はさうと思つても出ないと、いふたやうに解されてゐるが、他は知らず、私は淺い場處を特更に深くし、深い處を淺くするといふやうな、自然から受ける感じを畫面の上に作爲し變更しやうと思はない、その事の可否は別問題として、私は風景に對して極めて客觀的態度を持する一人であるといふことを知つてゐて貰ひたい。要するに、氏も言はるゝ如く日本の風景は多樣多種、極めて變化に富むでゐて、祟高も幽玄も、壯大も奇哨もはた優美も瀟洒も淡白も輕快もあらうが、一般から言へば、氣候の關係か、島國的で重厚の趣が缺けてゐる―重厚が必ずしも可であるといふ意味でなく―特に、瀬戸内海方面は一層深味と厚味が無く、丁度それに適した形式の日本畫が、あの地方を寫すに當を得たものだと信ずるのである。私はまだ北海道を知らぬ、九州の大部を知らぬ、臺灣を知らぬ、他日其地方を親しく觀察して、私の感じた日本風景論を書いて見たいと思つてゐる。(七月三日)
 鈴木氏、渡邊氏、竹内嬢、正男等と土ハに船橋へゆき、四枚の寫生を得て夜分歸宅した。船橋は行德よりも海岸に近く、船もありて多少の畫材はある、町の後方小高き處へ上れば、東京灣の廣々とした景色が見られる、面白い松原もあつた。(七月九日)

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