パレット物語

シシウ生
『みづゑ』第七十八
明治44年8月3日

 テー君は飽まで萬難に打ち勝つて、東都の畫壇に立つ决心であつた。然るにテー君の花々しい奮鬪は遂に永續する事が出來なかッた。絶倫の勇者は暗涙を呑んで西に走るの止むなきに至つた、之れは實に同情に値する大悲劇であッた。テー君の技術が漸く進んで、サア之れから大に勇躍しやうと云ふ時。郷里の父君は明け暮れ、我愛兒の行末を懐ふの余り、遂に病の床に就いて、日夕テー君の名を連呼せられるやうになッた。そしてテー君に一日も早く歸省すべく望まれた。吁この消息を得たテー君の胸中はそも奈何であッたらう、之れでもテー君は泣きながらも歸らなかッた、其後郷里より歸省を促す手紙は度々テー君の手に披かれた、意志金鐵の如きテー君は尚頑として歸省しなかッた。この事を聞いた僕の主人はテー君に滿腔の同情を寄せた、そして旦ッ説き且ッ慰めて歸省を勸告した。天地に一人しか無い父の愛に反いて迄も成効を急ぐのは可くない、如何に藝術が尊重すべき者だと云ッて、親を捨て、家を捨て、人倫を蹂躙して迄、事を成さんとするのは决して正當な事ではない、不德義だ、卑怯だ、そんなに個人主義を振り廻して得た名譽に幾何の債値がある、あらゆる事情と係累と鬪ひつゝ得た成効こそ、眞に男子的成効では無いが、藝術家だッて人の子だ、して見れば人生と全く沒交渉だと濟して居る譯には行くまい、而かも君の前途は尚春秋に富んで居る、御父さんに安心させた上でゆッくり研究を進めれは可ひぢやないか、歸り給ヘ!一體御父さんをどうするんだ。と口を酸くして忠告したが、之れでもテー君は意志を飜さなかッた。神經質な主人は吾事のやうに心配して、どうしてもテー君を説服しやうと、遂に長文の手紙を書いて歸郷を勸め、若し之れでも尚僕の忠告を容れなけりや絶交すると言ッて遺つた。早速返事が來た、鉛筆でパガキに書いてあつた、曰く『君が懇厚なる芳墨は此吾をして充分に泣かしめぬ泣かぬを意地とする此吾を限りなく泣かしめし君の書翰は、永久に吾が机裡に潜むなるべし、されどもされども、あゝされども吾!は遂に‥‥‥‥返書を認むるを得ざるなり、痩腕に滿身の力を罩め、天外を睨みつゝ碎けよと打ちたる胸の底より只一聲、死して後止まんのみ、あゝ、泣月生』とあッた、泣月生とはテー君の別名であッた。一度精力の絶倫に驚いた僕は、茲に至ッて更に頑固の絶愉に驚倒した、僕の主人も流石に斷念したと見え、之れぢや仕方がない、愈絶交するから一日ゆッくり會合して別れやうと云ッた遣つた、斯くてお互ひに忙しい日の午后を半日都合して、神田の寄席に仲よく遊び暮し、序手に最後の記念撮影も遣ッた後、九段坂下、姐橋の袂に、名殘の握手ヒシとばかり‥‥‥‥永久の交りを絶ッた。頃は丁度明治四十年の秋の夕ぐれであッた。けれども元々主義の相違から起ッた絶交である、主人は其後間もなく、田舎敎師になッて東京を去つたが、夫れでも心の中では始終テー君のことを思ッて居たらしい處が翌年六月の末、突然テー君からがハガキが舞ひ込んださうだ、曰く『シシウ君、僕はもう駄目だ、なッては居にい、駄目だ駄目だ、宛で御話しにならない、意志も主義もメチャ苦茶だ、之れと云ふのも斯ふだ、マア聞いて呉れ給へ、親父の病氣も既に一年半になるが未だ癒らない處が‥‥‥‥(書くに忍びず中畧)鳴呼シシウ君、僕も矢張り人間であッた、此報に接する毎に暗涙に咽ばざるを得ないのだ、僕は斷然意を决して歸郷する事にした、自馬會も先週限り止した』、(下畧)主人はこの葉書を手にした時、泣き乍ら喜んで早速慰問状を出した樣であッた、そしてやッと之れで安心したと言ッて居た、讀者諸君、如何に悲痛な文字ではないか、一葉のハガキは能く人生の苦痛を語り盡して居るでは無いか。この消息があッて以來テー君と主人の交情は再び舊に復した、聞けば今テー君は郷里にあッて、良く父君に仕へながら、一方研究を怠らぬとの事である。ヤレヤレテー君の紹介が意外に長いものとなッて仕まッた。失敬失敬。
 其七
 テー君の奇蹟に就ては尚材料豊富だか、感心の中毒が起ッても御氣の毒だから、もう切り上げて置く。序手に今一人長い顔の人があッたことを話したが、今度は此長顔君の.事をスッパ拔いて見やう、長顔君本名はエチ君と云ふ、之れが又仲々一癖ありけな御方であッた、どうせ一週一度の安息日を、薄暗い講習所で繪具をいぢくッて暮さうといふ連中だもの、毛色の變ッたのゝ多いのは當り前さ、このエチ君は繪よりかも尚一層俳句の方が好きで、其方面の造詣は頗る深かッたやうである、時とすると講習所のストーヴの傍て、半日位俳諧論を吹き通して仕まう事もあッた位だ、エチ君元來は東海道筋のさる町の昊服屋の若旦那である、普通で行けば意氣な前垂に堅氣な角帯ギユッと〆め、帳場格子の中の算盤持ッて、長松を指揮すべき身でありながら、持ッて生れた藝術家的性格は、兎角二一天作の五と相容れず、一ッ東京にでも飛び出して、本場の舞台に繪でも研究して見たいと發心はしたが、扨て大切な△△屋の秘藏息子、頼んで見た處で、店代々の暖簾の外に、一歩も出さぬと叱られるは必定、ハテ何とか妙案もがなと、散々智慧の絞り染、或る夜私かに夜具の中より苦心惨憺、考ヘ拔いた計謀美事成立、翌日會心の笑を漏らしつ、ウマウマと上京して、先づ水彩畫講習所の一生徒となり、後には太平洋畫會にも通ッて熱心に研究をして居た。天下暫くは平穏無事にして、エチ君の胸中頗る得々たるものがあッたが、頃しも上野公園で例の東京博覽會が開かれる事になッた。その時エチ君の父君は、博覽會見物の爲め突然上京して君の宿を訪ふた、當時エチ君は上野櫻木町に下宿して居たが、不意に父君の訪問を受けた時の驚きは實に觀物であッたさうだ、驚いたのばエチ君ばかりぢや無い、父君の驚きは又格別であッたとの事。細長い四疊の室の壁には、怪物のやうな神像のデッサンがあちこちに張ッてある、額橡、畫板、パレット、プラッシユ、そんなものが落花狼籍の態で室は足の踏み場もない、書棚にはヤレ蕃美學綱要だの、藝苑雜稿だの、今古各句集だの、そんなもの斗りヅラリと並んで居る。この有樣を見た父君の驚きは無理もない。實はエチ君、家を出る時、神妙らしく嚴父に向ッて、之れから新時代の店には、どうしても簿記學が必要だからと説き付け、簿詑學校に行く樣な顔をして上京後玄に一年、首尾能く今日まで遣ッて來たが、天網踈にして漏さず遂に今日突然の臨★に萬事休した譯である。室に在るものは繪の道具と俳句の書物ばかりで簿記棒一本もない、エチ君まさかそれは皆人の物ですとも云ひ兼ねて絶盟絶命、一々白状に及んで仕まッたと云ふ事である。それかあらぬか其後暫らくして、エチ君は郷里に歸ッて仕まッたが、今は矢張り家業を逃れて某市に好きな文筆を振ッて居るさうである。男生徒の記述は先づ以上で盡きた。女生徒の方には別に取り立てゝ話す樣なのは無かッたが只一人、二十四五の不得要領な女が居た。何をしてる身分の人が、家が何處に在るのか分らない、皆の人々から常に不思議がられて居た、顔も日本人の樣では無かッた、何でも單身露西亜までも行ッた事があるさうで、日露戰爭が起ッた時、歸朝して敦賀に上陸したら、露國の軍事探偵と間違へられて困りましたなどと話した事があッた。この女はその内講習所に來なくなッたが、未だに疑問が解けないと主人は言ッて居る。其他には辮護士の令嬢が一人、石版屋の娘さんが二人、それ丈であッた、その人々達も男生徒の樣に永續は仕なかッた。先づ以て三崎町時代に於ける原人種の話はれ之れ丈として筆を擱く。
 (七月二日稿)

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