寄書 京城スケッチ
塔村生
『みづゑ』第七十八
明治44年8月3日
朝鮮も漸く桃咲き梅李咲いて最早散りて五月となつた、白雲が空に浮むで早や夏の氣候である、讀書にもあき日曜の此の好天氣なればとて南山に登るべく黄金町通から上に行くと農商工務局がある、其處から坂になつて明治町に出る、坂に佛蘭西の敎會堂が建つて屋上の十文字架は南山より高く見えた。
銀杏の巨木があつて若々しい芽を薄綠に彩つて居る、鉛筆で寫生した、堂内より讃美欧の聲が聞えて鐘が鳴つた、坂から朝鮮街が好く見える、明治町に來て商業學校の附近を寫生すべく思つたが好場所がない、支那領事館を通つて行くと、館内にポプラが植えてある、若芽が實に美しかつた。
本町一丁目に出た、南部警察署や京城府廰の洋館にポプラ樹、三井物産會社京城郵便局邊が西洋の油繪に好く見る樣な建物だ而し僕の如き素人には筆が取れないと思ふた、旭町二丁目に來ると、名古屋城の模型がある、歸つて本町を二丁目に來ると百三十銀行支店三越出張所の邊は街の繪にはなりさうな處である。本町とは日本人居留地で、日本商品を商ふ處で、何から何まで日本と同樣である。三丁目四丁目と來て今の朝鮮銀行の側を行くと、南山に行く、第一銀行巴城舘ホテル等あり、町名も南山町となつて居る、僕は少用あつて五丁目の商業會議所前に出て壽町の裏町を寫生した。
何人としても本町の道狭には誰れでも困る處であらう、おまけに馬車荷車人力自轉車はやまずに往來する、雨でも雪でも降つたものなら、道の惡さはお話にならぬ、泥は街道を流れる有樣である、昔は本町三四丁目邊を泥★と呼び、今は朝鮮人多く泥★街と呼んで居る、坂道を南山町に上れば洋舘の官舎が多く建て居る。
東本願寺別院の家瓦が聳えて居る、僕は庭前の石像を見た、像は武人文人あり僧ありて、朝鮮墓に立つる物てある、小山の中腹に好く見えるが、そこは所謂墓である、又庭に古鐘がある、之は名は忘れたが或る山寺にありし物なりしとか、堂内を見て南山に登つた、坂を登ると總督府前に出でゝ過ぎ行けば二段の石段を登りて、甲午の紀念碑前に出ず、土手にスミレやタンポヽの花が咲いて居るものを見れば、故郷に在る心地す、若櫻芽を生ヘて花正に開かんとするもあり、早きは如何る譯なりしか散つたものあつた。
老松繁茂して水道噴水亦心地よく、清水を噴上げ、音樂堂あり春の遊山人の心を慰す、右手に舊統監府の赤壁見ゆ、又山内稻荷神社あり、眼を市街に轉ずれぱ一眸千里の如く、遠く光化門見え昌徳宮見ゆ、市街をスケッチして、左側に新造されし漢陽公園に遊び、遠く龍山を眺め、歸りて頂上に登る、道小石にしてグザリノグサリと下駄の氣持惡さ、谷をつたひ坂を辿り、老松茂る間を進めば渓流あり、人の聲聞ゆ、無名の家屋幽谷に有るを見て寫した。上より下山する人來る、見れば朝鮮婦人であつた。南山は一名倭城台ど稱して、文祿役に小早川等の陣せし處故倭城台と名付けたのである、頂上に國分寺と云ふ尼寺ありて、附近大木散在す、域壁頂上廻りて遠く北漢山に到る、腰を林間に下して四方を眺めんか、正面に北漢山の剣峯聳え後方龍山の町は勿論兵營漢江の流東より西に走るを見、南漢山の峯其の他名知らぬ山々が浪々と連つて居る、漢江に浮ぶ白帆の愛らしさ、左方には南大門及驛見え、列車の黒煙を吐く樣手に取る如し、右は山又山で江原の峯も霞の中に消える、山上岩石多く城壁にも苔生ヘて、何んの音だも聞えぬ、實に神秘の極りである。尼寺を見れば、中に佛壇ありて佛像を安置す。
城壁は五百年前に造られ、雨にうたれ風にさらされ、松の梢と梢のすれ合ふ音を聞くまリ外は無聲である、僕はスケッチを忘れて城壁に涙を催した、而し我が涙は唯苔を肥したるばかり何の事があらうか。
日は西に廻つて林間は薄暗くなつた、走るか如く下山した、夕日の總督府の硝子窓に映ずる樣は、黄金を塗り付た樣であつた、坂を下りて明石警務總監邸前を通り、日の出町の小學校庭にて休み、後を振返れば、南山の中腹に舊統監邸の赤壁一入寂しく立つばかり。
やがて山も街も暮れて來た。(五月三日)