風景畫法 額縁

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第七十九
明治44年9月3日

 畫は約束である又た幻影である。繪具やカンバスなどのタネを以て畫家が手品をすれば額緑の中には美しい景色が現はれる。併し之は眞の兼合ひであるから其畫に一寸でも瑕が出來れば幻影は消えてカンバスの面に直ぐ氣が付く。カンバスの端や枠が見えても亦忽ち幻影は害されてしまう。夫故畫は額縁に入れなければ完全なるものとは云はれない。壁の實物と雷の幻影の不實物とを額縁で仕切ることが太切である。
 然らば額緑は如何なるものが畫に最も適するかと云へば。之は畫家が常に苦心研究する處で。私も之に就ては長い間種々遣つて見たのである。各種の色や形の木の額緑も用ゐたこともあり。貝類を付けたもの。稻の穗や罌粟の莖其他面白い草の葉などを額縁に糊着けにして上から金を塗つたもの。或は細い金の間に模様のある織地を入れたもの。又た或時は美しい土耳古の織物地を用ゐて高價の額緑を作らせたともある。人は物好きと云ふかも知れないが之も全く美術の爲めである。然るに此高價の縁は一番の失敗であつた。布地が餘り綺麗過ぎた爲め如何なる畫を入れても皆負けて仕舞ふ。是で漸く自分は今まで全く思違ひをして居たと云ふことが分つて來たのである。貝を付けたものも草の葉を付けたものも。皆之は實物であるから誰の目にも慣れて居るので人は直ぐ額縁の方を見るから肝心の畫の方計りが目に入らないのである。夫れで私は。額縁は實物と不實物との丁度中間のもの。即ち形状は約束的のもので表面は人の注意を惹かぬやうなものでなければならぬと云ふことを悟つたと共に。數百年以前既に古大家が發見して居た事實を再び發見したことで。之は額縁の面には金又は他の金屬を着けたのが一番能く折合と云ふとである。
 餘り光らず餘り頑丈過ぎぬのが宜い。夫れ故此考へで種々工風を凝らして見たが。色の方は如何でも變ヘられるから。最初に銀を用ひて見。緑色黄色又た橙色の金。赤色の銅までも試めしたのであるが。詰り畫に依て一樣には行かぬことが分かつた。例ヘば淡紅色が勝つて居る畫には綠色の金の綠が似合ひ。青色勝ちの畫には黄色又は橙色の金綠が適し。又た夕陽の景の如き輝く金色の畫には銀の綠が一番宜いと云ふことである。今の風景畫の色と云ヘば主に青味勝ちか青鼠の色であるから先づ黄色の金縁ならば無難ではあるが。併し畫に依つては金縁の受けぬものもある。かう云ふ畫は。展覽會に出品する畫は凡て金縁を用ゆべしと云ふ規則でこられては迷惑をする。私が自分にも良く出來たと思ふ畫は紅葉せる樺の林を描いたもので。葉は皆黄色に輝き間から幹が此處彼處に柔らかに見えて居るのである。初め金縁を種々試したが何れも面白くない。仕舞に銀縁に入れて見て漸く納まつたのであるが。無論銀縁は規則に違ふと云ふので展覽會からは返へされた。併し其後自作畫展覽會を開いた時に買手があつて代價も豫想の倍にも成つたので幾分自ら慰むことも出來たのである。
 額緑の形状と意匠とに就ては人々の好みであるから一定しないで好いのであるが大體に於ては矢張り對照の變化を考ヘるのが宜しい。非常に圖柄の複雜した畫には優雅な作りの額縁を持つてきた方が平坦な普通の緑よりも映りが良いものである。之れと反對で。單純なる圖柄の畫で無造作に強い線で出來て居るやうなものには彫りのある立派な縁の方が似合ふであらう。彫りの立派な爲めに中の畫までが引立つて見えるのである。併し畫の調子が極柔らかに出來て居れば之も考へなけばならないので。かう云ふ畫には縁に彫りのあるのも良いが其彫りは淺い方がよい。其外餘白の色即ち臺紙に當たる部分なども一々畫に依つて考ふべきことで又た畫家各自の意匠もある處であらう。只だどうしても納まりの付かない額緑はと云ヘば。見て落着きの惡るい。彫りが多過ぎる。幅の廣過ぎる。磨き過ぎたやうなもので「見て呉れ。此縁は千圓かゝつて居るから畫は一萬圓の價格がある」と云ひさうな縁のことであらう。(バーヂハリソン稿)

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