渡欧紀行[下]
丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ
丸山晩霞
『みづゑ』第七十九
明治44年9月3日
彼南
こゝは背後に山岳をもてる一小島、英國海峡殖民地馬來半島の西岸にある小港なれど、商業殷賑を極め、市街稍整頓してゐる港灣の水は深緑色を呈し、山は黒きまでに繁り市街は熱色に燃へる如し、暑い暑い少しも停止してゐられない、早速上陸す。
この地の植物園及び支那の寺院は見るべきものなりとの事、殊に自分は初めてなれば主埠頭より早速馬車を命じて公園に向ふ公園は市を去る四哩の山麓にあり、暑い街を過ぎて市外に出づると、巨大なる並樹は路の兩側に列植して、繁茂せる綠は路を掩ひ、吾等は綠の中を走るのである、並木の蔭には美はしき花園を有する邸宅あり、美はしき花は並木の間に混りて馬車の速さを恨む、山は漸く近く吾等の前に迫りて植物園の門前に着く馬車を下るとうるさく案内者は附きまとふ。この植物園は山麓の自然に少しく人工を加へ殊に彼南地方の水源地で、山上よりは崖に懸れる一條の瀑布あり、それより水は迂曲したる谷を流れ下るので、谷を中間にしたる西側の丘に種々の植物を滿植されてある、自然的風景に富めるのは、新嘉坂植物園より遙に勝つてゐる。門を入ると路は左右に分れ、吾等は右をとつて進むと谷に架したる橋がある、橋の側に密叢せる大なる竹林ありてその竹は頗る古く、葉の中は落ちた細條の間に小鳥の小さき巣が澤山懸つてゐる、丁度菓物の着いたやうである、數百の小鳥はこゝに群集して囀つてゐる、川に沿ふた竹林の側に日蔭室がある、この中に小池を設けて水草が茂つてゐる、こゝを出で右方の山側を通した路を行くと、四方に枝を張つた巨樹がある、チーハウスもある、この邊の緑蔭は河の對岸も綠の間より落つる瀑布も展望さる、日に照らされて白い道は燒熱地獄であるが、緑蔭の芝生に居ると凉風徐來の極樂浮土である、この涼味は余は生來初めて味はつたので、日本の暑中等に味ふ事は出來ない爽快であつた、この涼風は瀑布のためであらうか山麓のためであらうか、將た吾等に與ふる天の賜物であらうか。こゝを出でゝ、香料樹バラ護謨樹等の滿植してある間を経て、麗はしき花もて包まれし橋を渡り、貯水場の堤を上り水源地の瀑下に到る、こゝにて頭を冷し顏を洗ひ汗を乾かす。天然林の方に進めばそこは暗きまでに茂つて、奇鳥の囀、群猿の叫ぶありて、深山幽谷の感が起る。灣曲せる路を下ると低地には池あり、池を廻らすに種々の花をもつて飾り、また花かと思はるゝ美はしい葉を着けたる植物もその邊に滿植してある。植物園は何れも市街を離れた地にあるが、ここの植物園は市を去る事四哩といふ山麓にて、前にも述べし如く天然を利用し、旦つは瀑布渓流等ありて趣きを添え、その上巨大なる樹木及び暗きまでに繁茂せる森林等あつて、頗る閑靜を極め熱帯植物園として、逍遥的遊覽地として尤も可なるものである。
緑蔭の凉風爽快は去るに忍びず、前に渓流と美はしき花爛?たる園を眺めて時を過ごすとき、門前に待ちもうけたる馬車の黒人先生は吾等を迎ひに來て、余儀なくこゝを去って、これから又四哩といふ支那寺院に馬車を走らすのだ。先に來たる路を半哩程歸へりて、それより路を轉じ右折して進めば、この邊一帯は凡て椰子林である、何れの樹も見上るばかりに丈高く、狂女の髪の如く葉を亂して果實は鈴の如く附着してゐる。熱帯植物の椰子屬は、直上せる先端に大なる葉を着けて、風雨によく抗してゐるのは、丁度日本の柳の如く風雨に逆はぬためである。
椰子林の間には土人の小舎が點在してゐる。椰子林の間の坦道を走りて支那寺院に着いた、こゝにて馬車を下ると門前に支那人の菓物店があつて、未だ見た左の無い珍果を鬻いでゐる。寺院は極樂寺と呼び山麓の花岡岩石の斜面に建設したもので、第一の門を入るとそこに某佛の堂がある、香の煙でくすぶつてゐる、そこを右折して石段を登ると右側に泉があつて群龜が遊泳してゐる、迂曲したる廊下の石段を登り行くと樓門がある。
それを入ると某佛を安置してある堂で、それより又登れば一段二段と樓閣があつて、何れにも不可思議の像が安置してある、最終の高い樓の二階には眺望墓になつてゐてテーブル、チエヤ及び美花の盆栽が配置してある、茶も料理も自由に命ずる事が出來る、こゝは寺といよよりは寧ろ遊覽閣に近い、眺望臺より展望すれば、山麓より海岸に至る一帶の平地は、凡て椰子が繁殖してゐる、その盡る處に彼岸の市街と港とが見える、吾等はこゝにて午餐を命じ支那料理を喫す、樓を下り僧房を見物し、門前にて奇しき果物を味ひ、馬車を呼んで彼南に歸ヘる。
馬車を下りて市中を見物す、暑さは一通りでない、海岸に出で大なる榕樹の蔭の芝生に座し、夕陽紫を呈ずる頃船に歸へる。
彼南を解纜して船はスマトラ島の北端アチンヘツドを經過すると、これより當分陸を見る事は出來ない、印度洋の天は高く海濶く、洋々として眼界際涯無し、余は毎日硯川氏の室なる電扇の下に日を送り、暑い暑いを連呼する聲のみ船に充ちた。
古倫母
船は古倫母港に入る、この港は人工になりしものなれば、港口は巨大なる防波堤が築いてある、港内波穏かにして多くの船舶が停舶してゐる、こゝも余が舊知である、吾等の船の投錨するを待ちて、多くの商人は船に上り、繪葉書、両替、寳石細工等客にすゝむ、うるさき事言はん方なし。この地には佛陀に縁あるためか鳥多く、温帯の港にカモメ集まる如く烏は船に群てゐる、ガーガーガーの聲と、物を鬻く商人及び船夫等の聲は耳を聾す。この地の寺院及び博物館は先年見物したれば再び見るの必要もないが、舊都のカンデーと有名なるベラデニヤの植物園を見物すべく、着船早々カンデー行きと决した。由來錫蘭島は古くより開けた地で、殊に佛陀に縁深く島内各所に堂塔伽藍散在し、且つは氣候も激暑ならず、島中山岳多く變化に富み、植物よく繁茂して四時花を絶たず、それ故各國觀光の客及び順禮者は四時絶える事無しと。
カンデーは古倫母を去る七十餘哩。汽車は暑いのと三等は土人と仝乗にて混雜を極むれば一等にすべしと人々に注意され、一等の往復切符を求めて搭乗した、乗客少く室内はゆつくりしたものだ、市を離るゝ一望千里ともいふ可き平野で丁度吾武藏野を過ぐるやうで、見渡す限りは水田で椰子の立てる森及び村落は遠近に散在されてゐる、水田は水枯て何物も見ず、只牛の放養されたるを見る自分は思ふ、熱帯地は四季共に稻の繁って収穫も四季間斷無くあるものゝ如くに想像したが、こゝにも四季のありて稻田に灌漑する時期は一定してゐるものと思はるゝ、そして或る處は苗代の如きも見た。矢の如く去る汽車は見るものを充分に理解させなかつたがその記臆の概畧を述べると、水のあふれた沼地ありて、そこには種々の水草の花吹けるもの、柳に似たる樹の繁茂せるもの羽白く頭と背の黒き鳩大の鳥のその邊を飛びしもの主椰子及びビンロージの間に白色に塗りし小さな家と主地面より葺き上げたる三角状の小舎河邊の茂れる間に太き角の柱を建てた吾アヅマ屋の如きもの、その柱にはコバルト及び赤にて色彩が施してある、物を運ぶ婦人の群が頭に荷物をのせて吾等の汽車を見送る、小亭の前の蓮池、角太き水牛の泥水の中に泳ぐもの、大なる瓶を置き濶き葉の茂れる水にて水汲む男、これ等を眺めつゝ走る間に平野は盡きて、漸々高原に登る、種々の樹木の繁茂する中に逞しき巨樹の幹に列着せる大なる果物を見る、名を聞けばジヤツクフルツといふて、ライスカレーの料理に缺くべからざる果物なりと。
幾つの停車場を過ぐ、停車場は何れも美しく圍ひ又は庭には種々の花咲きて、泉水等の設もある、種々の果物及び飲料食料を鬻く物賣は何處も仝じ車窓の前で叫ぶ。高原より谷川に、沿ふて山を登る、この邊はバラ護謨の殖林多く、谷を離れ幾個のトンネルを過ぎて漸く高く眼界濶し、大なる岩壁の山、深き溪、奇しき遠近の山、是等は皆熱帯植物の奇しきものが茂つて、綠の中に黄、灰色のもの眼に立つ。車窓近き岩石及び叢中には紅又は紫の花咲ける蔓草灌木を見る。菩提樹は熱帯地到る處にあり、佛陀に縁ある樹か錫蘭に於ては、この樹を佛樹として尊崇し主寺院には必ず大なるものありて何れも圍ひをなし、又到る處の菩提樹の下には佛陀を勸請してある。汽車は漸く高く展望いよいよ佳、今吾等は一方岩壁に接し一方は削りし如き絶壁の上を走つて居る、絶壁と谷を隔てた高原は一望千里蒼々として、多くは茶園である、この高原には一筋の大路がある、これは陸行してカンデーに通ずる街道であらふ、村落、小池、河流はそこに散在してゐる、高原の左方は山に續きて、それより先は大小の山起伏して波濤の如く、尤も眼立ちたるは奇し吾妙義の山の如きものものゝ突起せるのであつた、遠い方の山には入道雲起りて雨模樣であつた。高原の大路は山にかゝり迂回して山を登ってゐる、何とかいふ小峠であらふ、土地の人は暑い暑い日光を浴び燃へるやうな砂道を素足のまゝ歩し、重い荷物を負ふてあれなる峙を越えるのであらふ、峠路は何處も仝じく旅人の休息所が幾つもある、頂の茶屋には定めて力餅を鬻いでゐるであらふ、危險の處も過ぎてそれよりは少しく下りにて、燈臺の如きもの建てる停車場に着。この邊には山頂ともいふ可き四に山を見る風景地で、氣候も涼しく古倫母邊の外人が別邸を建てゝ置く、こゝにて下車する外人は多かつた。こゝを去りて間も無くベラデニヤの停車場で、植物園はこの附近にあるのだ、停車場の待合室の前には葉の細かい蔓草が巻き着いて、紫色の美はし花が澤山に咲てゐた、こゝから小さな渓流に沿ふて四哩下つた處がカンデー市でこゝで下車した。停車場には宿引がゐて早速その馬車に飛びのり、巨樹の繁茂した町を過ぎ、右に曲つて美しい池を前にした旅館に着いた、自分の部屋を定めて、佛陀の靈蹟であるといふ有名なるカンデーテンプルを見物に出かけた、門前には五六人の案内者が居て自分を取りまいた、一々斷つても附て來る、うるさくてしかたがないから椰子の油を塗って歐風に髪を分けた人相の悪い奴を頼んだ、これで漸く他の奴は離れた、門の両側には乞食が澤山居て後を附いて來る。
古い建築の寺を見た、建築は古いが時々ペンキで塗り替へるといふには閉口した、地獄の壁畫も見た、裁判所も見た、祭のときかつぎ廻るといふ變なものも見た、ぺンキの壁畫のある暗い室にぺンキ塗の釋迦も見たが崇高等の感は少しも起らない、何處も仝じ未世の佛は見世物的である、佛殿に這入れば坊主が金の皿を出して金銭を乞ふ、堂を出ると菩提樹の實で出來た珠數や貝葉に刻した經を強賣する。煩又煩である。こゝを去り美しき池畔に凉を容れ、宿に歸へりて早く寝た。
美はしい緑の蔭翌日早起ベラデニヤに向ふ可く馬車を雇つた、カンデーの市を出づる兩側に合歡木の並木が列植してあつて、緑蔭の間を走るのは涼しく爽快であつた。この地は海拔二千四百尺といふので古倫母に比するれば温度頗る低く、昨夜の雨に凡てがぬれて潤澤を帶び、加ふるに餘程涼しい、公園の前に馬車を捨て、園内に入ると番人が帳簿を出して記名せよといふ、日本文字で性名を認めた、爰にも案内者がゐて煩はしく附て來るから絶對に斷つた、この植物園は平地で彼南に比すると自然的の美に欠けてゐるが、面積は頗る廣く十五萬三千餘坪を有してゐる、門を這入ると大きな路は三方に分かれてゐる、入口にて驚いたのは扇椰子の大なるものである葉面の直径約そ二丈餘に達し葉の柄は以て吾床柱ともならん程であつた、こゝを進むと各所に巨大なる森あり、又植物の種類頗る多く未だ見ざる珍奇のものが多い園内事務所の側にある巨樹は印度護謨樹にて巨大の幹より大なる根を幾つも下し、又板の如き根は蛇の如く地上に這つてゐる、實に奇觀である、こゝを出づると大なる芝生を廻らして花園がある、美葉植物類と種々の花を滿植し、中央に日蔭室ありて珍草奇花を配列してある、園の道路の並木は何れも椰子屬のもので直立天を突いてゐる、背後は某河に接してこの河畔に近く大竹叢がある、幹の高さ百尺周圍二尺餘もあらんか。この附近樹に奇き果物と思ひしは百數千の大蝙蝠の附着せしものであつた。園内には小鳥多く各所に群をなして囀り、また栗鼠多く人に馴れてゐる。緑蔭の研究はこの植物園に勝るものはあるまい。こゝは古倫母に比して涼しいと言へど中々に暑い、併かもこの日は頗る快晴で且つは昨夜の雨の乾くためか蒸し暑くて、縁蔭の中にありても汗が流るゝ。こゝを辭しベラデニヤまで歩す事にした、園を出づると又合歡木の並木、コヽア園、カフヒー園等を見つゝベラデニヤに着いた。丹後丸は今夜の出帆で充分間に合ふが何となく心急かれ、こゝにて晝餐を喫して午後一時の汽車に搭ず、古倫母に着いたのは五時頃であつた。遣英軍鑑も又入港してゐた。
コロンボを解纜して印度洋に出づ、名にし負ふ大洋の事なれば渺々として眼界の極まる處を知らず、余は毎日硯川氏の室にあり、電扇の下にて欲する事をして日を消したのだ。暑いのに馴れたのか暑いと思ふた印度洋は存外涼しく、日夜清風徐ろに到りて爽快言ふ可からずだ。幾日かを過ぎ亜典沖を經てバブエル、コンデフ瀬戸にある、ベリーム島の側を通過すれば、音に聞こゆる紅海に入るのだ、両岸の山は皆岩石にて一の綠色も見ないこの邊は何時も酷熱なれど案外に凌ぎよく、甲板の上は常に涼風颯々として到り流汗する事はなかつた、紅海は深藍色を呈し兩岸の山は霞深く淡い影の樣に見える、帚にてはき飛ばした様の雲を毎日見る、朝夕の空は沈着した熱色を現した。船は亞刺比亞の岸に近く航し、山は何れも頂巓一直線を引いた樣な形で頂線と並行したる横線は山の面より麓まで現はれてゐる、風のために出來たではあるまいか。亞弗利加側の方の連峯は皆デットカラーで、連峯の背後に突起せる大なる山を見る、形態吾富岳の如く併かも山頂一帯に白色である、まさかに雪ではあるまい、吾等は紅海の亞弗利加富士と命名した。亞刺比亞より地中海を隔てた亞弗利加の大陸は、一帯に不毛の乾燥地で一物の生氣を認めない自然の骸骨である、深藍色の活ける海の背後に骸骨を配した趣きは神秘の畫題として面白いではないか、併して巨大なる自然の戸を横へたる月夜は如何、秋の空の如き晴空の銀河がこの巨大なる戸の上に横ふとき、吾人は一種不可思議の感に打たれざることを得ない、甞てはこの不毛の沙漠も數千年前は穀菜、蜂蜜、森林、美果、の豐にして若々しい時代もあつたであらう、自然も時と共に老ひ、現時大尸をこゝに露出したであらう、大なる自然には大なる時あり、自然の一部なる小なる人間に與へられたる時は、大なる自然の時に比してその差あまりに大ならずや、紅海を航するときは何時も自分は如上の感に打たれた。左にアラビヤ右にアフリカの山を見つゝゼブラ海峡を過ぎてスエズ灣に進む、峨々たるアツレカ山を手にとる如く近く望んでスエズ灣に着。
白く灰色のスエズの市街は沙漠と水の上に浮んでゐる、運河の入口には綠の樹を見る、不毛の沙漠を禿山のみ見た眼には殊更に美しく感じた。細長い帆を揚げたエヂブト式の船を見る。
嘴紅き白鳥は多く水面に群てゐる。この地に停舶するは運河に入る用意郵便の出入のみなれば約三時間程である。仝乗者堀内氏とこゝにて上陸しカイローに行一泊翌日午前に及びピラミツト及びスヰンクスを見物してホーツザイドに歸るといふ事で上陸を急いたが、汽車の間に合はないので中止した。土人は種々の品物を袋に入れ船に上りて鬻ぐ。こゝを拔錨して運河に入る兩岸一望際なき沙漠、その中に四角な小さき家とキヤラバンを見る、スエズの市民は河畔に出で手巾をふリて船を見送る、運河の左方はナイルの水を引きし水道あるため草木生じ、殊に松の如き葉の細かき木は眼についた。大戸の上を月が照らしてゐる。吾船はサーチライトを點じつゝ徐航して行く。左岸の叢中では虫が鳴てゐる。翌日眼が覺めるとボートサイドに近いてゐる、細長い帆の船は風をはらみて矢の如く走つて過ぐ、左方の遠淺には數千の白い水鳥が群てゐる。縁蒼々たるイスメリヤの町も美はしいピツター湖もメンザレー湖も夢の間に過ぎて見なかつた。
午前八時頃ポートサイトに着、先づ第一に眼に入るものはエヂプト式の建築運河會社の大厦である、埠頭に投錨すれば、★兒物賣、宿引主は蝟集し、どか々々と船に上つて物を押鬻す、うるさい、うるさい、ポートサイドは各國浮浪人間の拾て處で、何れも各國から漂流して來た手合である。こゝには見物するもの無けれど、船には石炭を積むため早速上陸す。浮浪者は續々附て來る、實にや拂へば來る夏の蠅である。市中にて嗜めるエヂプト煙草を求む。海岸通りを散歩す。街の並樹は皆落葉してゐる、こゝには四季の區別が無いと思ふたが、形ばかりの冬と夏があるとの事で今は冬の期で、來月頃より夏になるとの事である。先年八月頃こゝに着いたが、その時は頗る暑かつたが今回は頗る凉しく、運河も大に涼しかつた。
ボートサイド解纜、海の色は綠に濁る、ポートサイドを差して昂る帆船の多くを送迎す、これよりは地中海で氣候は頓に一變して夏服では寒い。希臘のクリート島を見る、山高く連峯雪を戴いて居る、四五日前までは乾燥せる死の山と熱の海を航して、暑い暑いを連呼したるに、今日雪の山に對するの激變には驚くの外なし、燃えるやうな赤土を蹄み椰子や芭蕉を見て來た眼には特殊の興を以て眺めた、望遠鏡にて近づけて見ると、奇しく険はしい峯、高原のやうな峯、是等は凡て雪である、雪の殘れる部分よりは削りし如き岩壁とをなして大小の溪谷になつて、それには河の如く雪が流れ下つてゐる、その海に面する南は凡て絶壁である、山岳の形態より殘雲の工合よりアルプスと言ひたい、自分は地中海アルプスとして眺めた。クリート島も水平線に沒して只見る渺茫たる蒼海、これが四方に大陸と多くの島がを有する地中海である。然し陸地の近いといふのは陸上の鳥が船に集るので判る、地中海に入りてよりは、燕屬鷹屬鳩その他の小鳥が船に集り、無聊に苦しむ乗客はこれを捕獲して興がつてゐた。伊國南端の岬角スバーチヴエンを望みつゝメツシナ海峡に入る、メジナ海峡は伊太利とシヽリー島を分つ海峡で吾中國と九州を分つ關門海峡の如く、此間頗る狭く両岸は手にとる如く眺めらるゝ、海峡に入らんとする時左方に雪を戴きし大きな山を見る、それが名高きエトナの火山である。シヽリーのメツシナ市及びその對岸なる伊太利本土のレジヲ市は、一昨年の震災に殆んど全滅した處で、未だに家破れ柱立てる荒涼惨澹たる跡が残つてゐる、両岸は何れも山を背後にしたる海岸の町で、丁度香港市の如く山陵に沿ふて建設されてある、河口もある、絶壁もある、山は險はしくないから葡葡★その他麥畑等は山の面にある、汽車も走つてゐる、人民の徃來してゐるのも見える、頗る變化に富んだ風景絶佳の地である。こゝを出で大小嶋嶼の間を航して、これ又有名なるストロンボリー活火山嶋を見る、形態吾富士に似たり、船漸く是に近づくと東南に面せる山麓に白く塗りたる數十の大小家屋を見る、こゝは避寒地として美しき別邸及びホテルがある、南西の方は大なる溪谷ありて、谷の間及び頂巓より盛んに墳煙してゐる、これを水平線に見捨て、又渺茫際なき蒼海に出づ、翌日サルデニヤとコルシカの海峡を過ぐ、海峡濶くコルシカの方に寄つて進む、初夏新綠の山陵及び茶色の絶壁及び遠山も見える、水鳥多く船を追ふて來る。幾日か過ぎた朝、船は佛國の南岸近く航してゐる、馬耳塞港に近づく、白岩の絶壁及び散點する嶋嶼を見る、旭日これを照して紅色を呈し灰色の空を背景とした趣きは偉觀であつた。山上のノートルダム寺院は朝靄の間に紫色を呈して天空に現はれ、巖窟王の小説にあるシヤトーデーフ嶋を望みて馬耳塞港に着。この港は大船巨舶の繋泊自在、歐洲大陸に行く旅客はこゝにて上陸す、吾等も市中見物のため上陸しホテルセネバに投宿、ホテルの自働車にて市中を見物す、美街館を見る、これといふ眼を惹くものなし、公園の初夏新綠は爽快を覺えた、ノートルダムはエレベートルにて山上に登る、市中と港灣の展眺絶佳。
馬耳塞を解纜すると波高く、仝乗者の多くは船暈りため室を出でず、有名なるジブラルダルの砲台を見る、砲台よりもこの岬の岩石よりなりし奇景は風景畫の好畫題であつた、この海峡を出つれば大西洋、ビスケー灣も穏にかして、英國チヤンネルに入る、霧深く進行を停止する事四時間。テームス河口を入ると兩岸初夏の綠を味ふ可く、赤茶色の帆を掲げた船を送迎す。アルバートドツクの前にて汐時を待ち、ドツクに投描したのは五月二十五日午後十一時であつた、四月一日に神戸を出帆し、長いと思ふた航海も過ぐれは早いもので、無事にロンドンに着いた。然しこの航路程變化あるものは他にあるまい、今思ふと暑かつた、凉しかつた、苦しかつた、爽快だつた、自分は今頗る多忙にて旅中の感想を充分に書く事の出來ないを遺憾とす。
二十五日は久しく馴れて吾家の如き思ひする船に寝て翌二十六日上陸して世界に於ける尤も穢い英京倫敦に上陸した。
穢い倫敦
仝乘者の友人が案内して呉た宿に自分も二三泊する事として、北ロンドンのキングスランドロードの宿に着いた、無論下宿屋で獨逸人の家だ、その汚穢なる事馬來土人の部落の如く、自分の部屋と定められた三層樓は一種の古い臭氣を放ち、ベツトの色は灰褐色を呈してゐる、食堂も薄穢なく食物少量にして魚澤山でその不昧といつたら口にする事も出來ない、一二泊だから我慢する考ひで、その夜穢いベツトに寢ると案にたがはず自分の尤も恐怖してゐる南京先生がチクチクやらかす、これがため眠る事が出來ない、夜の明くるを待つた、翌朝になると首から耳がすつかり腫れあがりて首を動かす事も出來ない、(生の體質として蟲の中毒は非常のもので皮膚を這はれたばかりで腫れあがる)こんな宿に二三泊すれば一命に係はるのだ、幸にも吾太平洋畫會の人で新井氏がこゝに留學してゐて余を訪問してくれた、氏は南ロンドン、ハンマースミスのクローブ畫室を借家してゐるので、その室は濶く二人位は居らるゝとの事で、早速この地獄宿を去つて氏と同棲する事になつた。氏は大のべヂテリアンである、自分も魚や肉はあまり好まぬ菜食家であるから早速このべヂテリアン宗に入門したのだ、こゝの畫室にはベヂテリアン多く、隣りに居る米國の畫家カーといふ男もベヂテリアンである、毎日黒パンと菜のみで生活してゐる。
倫敦に着いたら直に瑞西に行き獨逸のミユヘンで研究する最初の考ひであつたが、水彩畫はロンドン以外は殆んどゼロである殊に多少言語の解さるゝのは凡てに便利であるから明年の春までこゝに逗留して研究する事に決した、こゝに着いて今日で一週間である、大使館を尋ねたり、ローヤルアカデミーとコロネーシヨン展覽會を見物し、昨日キユーの植物園に出かけた丈である。十年前の倫敦と今日の倫敦でどれ丈けの相違あると余に問ふ人あらば、大した相違を認めないと答ふる、只自動車の多くなつた位だ。ローヤルアカデミーの報告は次便にゆづる。