寫生地案内
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
三脚子
『みづゑ』第七十九
明治44年9月3日
九月は残暑も強いが、下句からはまた秋の梅雨といはれて、兎角雨天勝である、二百十日、八朔、二百二十日と、暴風も多い季節であるから、寫生に往くのにも、よく土地の情況を調べて出掛けるがよい。深山では、此月の末には既に梢の色を變へて、夏の黒ずむだ綠は茶褐色になり、約とするのに都合がよくなる、併し前に述べたやうに、風雨の惧もあるから、むしろ海岸がよいかも知れない。
初秋の海岸は、夏の繁華の反動として寂蓼ではあるが、その淋しみには捨てがたい處もある、東京近くでは茅ヶ崎から馬入河口邊が面白からう。
茅ヶ崎で汽車から下りて、南湖院の方を海近く出ると、小松原があり漁村もある、それを西へ馬入川口を指してゆくと、村落や田地や小川などがあり、富士は遠く背景となつて、形の面白い繪が出來やう。いよいよ馬入川に達すると、近く雨降山丹澤山の連峯が、洋々たる水上に浮むで見えて、淡々とした繪が出來る。川口から海に面して見ると、帆船の柱が二三波にゆれて、鴎がゆるやかに飛むでゐる。更に日暮近くになると、秋でなくば見られない夕焼の空は、天地の色彩を一變して、華やかな光景を現ずるであらう。一日か二日のスケッチ場處として、此あたりは、畫家に失望を與ふることはなからう。
橋を渡つて平塚に出でると、町の横町に面白い處もある、大磯に近く、花水橋の手前から、高麗山を背景とした町端れの夕暮は、畫いたらよい畫が出來る。
大磯では、海水浴場から束の方の漁村には、松原や船や、繪になる處が多い。鴫立澤は詰らないが、千疊敷の上は眺望がよい。