日記抄

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第七十九
明治44年9月3日

 木村小舟君は、其動植物に關する智識を傾けて、年少者のために『自然界一週』なる書を公にせられた。就て見るに、春夏秋冬に別ちて、普通の動植物の解剖生活状態等を、極めて通俗的に説明されてゐる。一體脚が何本あるとか、瓣が何枚だとかいふやうな乾燥な記事に飽いて、このやうな書物には自から遠ざかつてゐたが、木村君は、極めて興味ある文字と事實とを並べて、親切に説明してあるので、知らず知らず巻を終つたのであつた。此書はだゝに年少學生を資するばかりでなく、私其畫家にとりても甚だ有益であつて、何の虫は何の花に集まるもの、何の草木はどういふ特徴があるなどといふことを敎へられた。私は、かゝる好著の、友人の手によつて書かれたことを嬉しく思ふ。(七月十日)
 在京城、横田健三君は『みづゑ』經營に對し、少なからぬ同情ある書状と共に、其編輯費のうちへ金若干圓を寄與せられた、横田氏はなほ一書生なりといふ、さらば此若干金は、富豪の萬金にも增して意味あるものである、私は爰に深く君の好意を謝し、吾が『みづゑ』が、如斯愛讀者の多くを有することを心より感謝するのである。
 『みづゑ』經營については甞て五週年紀念號に詳記したが、世の所謂美術雜誌なるものゝ、經營頗る困難にして、某々大雜誌の如き、多年の信用あり經驗あり、印刷上其他に便宜多きに拘はらず、なほ収支相償はずといはれてゐる、然るに『みづゑ』は、幸に初刊以來大なる失敗なく、特別讀者を得てよりは、經濟上にも大に餘裕を覺え、近く九月號より原色版一枚を增するを得るゃうになつた、現状を保つだけなら、特別讀者の制は廢止してもよいのであるが、私にとつては、一年數十枚の繪を失ふことは苦痛ではなく、肉筆畫の各地方に分布することは、むしろ趣味普及の上に有益であるべく思はれるから、當分繼續してゆくつもりである。(七月十一日)
 南の窓から入つた二つの黒い蝶は北へ拔けやうとして畫室の硝子障子に微かな羽搏の音を立てゝゐる、窓の障子は、二三枚開いてゐるので、僅かに一尺?均を轉じたなら、戸外へ出でられるのに、それを知らずに一ヶ所に執着して、頻りに硝子越しの光明に憧れて焦つてゐる。
 この二つの黒き蝶は、人世の半面を暗示してはゐまいか。
 (七月十四日)
 研究所の稽古は昨日で終つた。今日は月次會で、明日からはいよく永き夏休みとなるのである。敎師も來ず、人も少なからうし、繪も澤山あるまいといふので、新刊の内外美術雜誌など取集めて來會者に見せた。
 繪は三十餘點あつた、尾崎氏の作は、搆圖に少しく申分はあつたが、感じがよかつた。長谷川君の靜物は、新しい試みで、群を拔いてゐた。他には言ふべき?のものはなかつた。
 夏休みになつても旅行をせぬ人もある、それ等の人達は、夜分だけでも鉛筆畫の稽古をするやうに勸めて置た、鉛筆畫が巧に畫けると、いろいろの點に利益が多い、特に他日一家をなした時分に其利益を感ずることは少々ではあるまい。次に、夏休中に、ある一つの物の研究をやつて欲しい、それは、製作なり仕事なりの餘暇に、たゞ一つについて研究をするので、例へば朝顏の研究といへば、其花の色や形の種類、葉の形状等をよく調べ、スケッチをして置て、所謂繪の上の朝顏通になるのである、これは昆虫でもよく、魚類でもよく、又は樹木天體何でもよいから、年々夏休中の日課として、ある一事を研究自得して置くのである、すると、其物一つ丈けは、他人の知らない智識を得る、それが尊いのである。年々一つ宛學むでゆくと、十年には十の纒つた研究が出來るから、今年から試みたらよいと言ふて置た。
 茶話會に移つてからは、雷さまをやつた、球を廻してゐると下で烈しく音をさせる、落雷の相圖があつた時、球を持つてゐた人の前席が景物を得て引下るので、輪は段々に小さくなり、終には二人になつた、球を廻すの忙しない樣子が、粟餅の曲搗によく似てゐるので、一同轉げて笑つた。(七月十六日)
 ある小學校で、繪の成績の悪い生徒があつた、自分でもそれを知つてゐて、敢て勉強しやうとはせぬ、そして畫は性に合はぬものと極めてしまつて、終には其時間を厭ふやうになつた、するとある時、少しばかりよく出來たので、敎師は非常にそれを褒めた、曾て褒められた事のないのに、異例であつたので、宅へ歸つて父母にその事を語つた、心ある父母は、その繪があまり巧とは思へなかつたが、敎師の意を推して、同じく褒めた、彼の兄も、叔母も、またその繪を褒めた、このやうに皆から褒められて見ると、嬉しからぬ譯はない、小さな心に光明が見えて來て、それから多少の興昧を圖畫の上に拂ふやうになり、終に卒業當時は、級中彼に及ぶものなき程、圖畫の成績はよくなつたとの話をきいた。
 若い人達が、初めて展覽會などに繪を出品した時、評判がよいと大に憤發心が起る、併し、不幸にして不評に終ると、張合が無くなり、次には更に下手になる例は決して乏しくない、前の小學生の話は、敎育に從ふものゝ留意すべき問題であらうと思つた。(七月十七日)
 夜中の風雨に眠りが足りなかつたので、いつもより遲く起きた。机の上を見ると、五六通の手紙と共に一個の小包が置いてある、前川文榮閣といふ名は、直ぐ内容を想像させた。
 寢不足の弛むた目は忽ち緊張を覺えた、上包みの紙は不規則に裂かれて、急がはしくも取出されたのは『日本アルプス第二巻』であつた。
 箱から出して表紙を見る、中澤氏の意匠で、雪の山と雲の塊まりとが模樣化されてある、『日本アルプス』といふ點から採つた材料はよいが、色の調子が神秘的で無いと思つた、それに反して、背の意匠は大に氣に入つた、雲と星、高山植物、たゞそれだけが簡潔に自然の一部を現はしてゐた、これは中村淸太郎氏の考案で、文字も同氏の筆蹟である、若い人の伸々とした心持が見えて嬉しい。厚い表紙を開くと所謂見返しで、杉浦君の手に成つた、雪白の雷鳥と高山植物が、金と緑で紫紺色の上に俘むでゐる、高潔といふ感じでなく、少しく重苦しい印象で、お召の裾模樣を聯想させた、最も印刷の出來も悪かつたと断り書はあるが。扉繪は中澤氏の筆、慾にはも少しサツパリさしたい。
 策一圖版の高野氏の日本アルプスの寫眞は、開巻以來稍や濃艶の色に飽いた目をして、俄かに清凉の氣を感ぜしめた、壯嚴、雄大、崇高などの文字を頻りに並べたくなる。本文の『箱根山中より』以下は、讀む事は後にして、手は直ちに第二第三圖と、繪の上にのみ走る。中村氏の『須走途上』は面白いスケッチで、略畫ではあるが、充分其土地を想像させるに足りやう。茨木君の『山中湖畔の宿』は、色が旨く出てゐない、むしろ一色畫の方がよくはないか。第四圖版の『雨雲の富士』は、自分の作で、バラバラ雨の降る中に富士の中腹が見えたので、急いで寫生したものだが、一部分を區劃して寫したもので、何となく畫面に旨く入つてゐない、次の茨城君の『本栖村』は水彩の三色版で、私も曾て同じ位置で寫生したことがある、平板で色が冷たいが、ゴツゴツした筆致は、場處と相應して面白い。第十四版の『越中劍山』は、中村淸太郎氏の油繪原色版で、繪具が少し粘つてはゐるが、高山の印象は充分受け入るゝことの出來る繪である。其他圖中の寫眞は、二三を除いては、孰れもよく繪畫的の位置を捕へてあつて、山好きの人達をして、身慄ひさせずには置まい。
 一わたり見て、更にまた初めより見返した、そして烏水氏の鋭い文章は、此書の装釘とはあまり共通の點を見出さなかつた、そして若し私の希望を有體に言はせるなら、表紙に、見返しに、扉繪に、あのやうな工風した意匠を加ふることなく、もつと簡潔に、も少しクラシツクに装ふたなら、日本アルプスは、一段の崇高と神秘とを增すであらうと考へた。(七月二十六日)

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