寄書 『みづゑ』の曰く

富岡洗帆
『みづゑ』第七十九
明治44年9月3日

 僕は『みづゑ』の第二だ。僕の主人の處には僕の中間が五十程居るが、其内で僕が一番古參だ、毎月一人(?)づゝ增して行くが近頃は中々美しくなつた。全體、主人は前から畫は好だつたけれど僕を知らなかつた、そして一番初めに知られたのは僕だ。
 發行されて間もなく、或る中學生に買はれたが、程無く其人が中學を卒業して歸國したので、僕は中學世界ゃ其他の雜誌と一緒に下宿屋に残された、すると其後、今の主人が來て、宿の婆さんから僕を貰つて、大切に今迄持って居るのみならず、それからは熱心な『みづゑ』讀者になり、今日に至つた理由だ。尤も其頃は、下宿屋の婆が、僕の表紙が硬いので、團扇の代りに「かんてき」の火を起すに使つて居たのて、實に無禮な奴だつたが、流石の僕も之には閉口した、蛟龍も雲が無ければ天ヘ登らずで、幸ひ主人に助けられた樣なものゝ、表紙など燒け穴が明いて、其の頃の紀念になつて居るのさ……失敬

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