裏日本

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第八十
明治44年10月3日

 不圖目がさめた、片手にカーテンを除けて窓外を見ると、まだ明けきらぬ空を、うす墨色の雲のゆき來が烈しい、驛夫の『大垣』とよぶ聲はしめつてゐる、どうやら雨らしく思はれる。
 そのまゝに、 米原は夢の中に
 輕い食事を濟ませて、車室へ歸つて來たら、寢床は疊まれてあつた。車はいま琵琶湖畔を走つてゐる、湖上の雲の切れ目に、おりおり蒼空を見せながら、雨はたえず窓硝子に碎けてゐる。
 七條で京都鐵道に乗換へる。左の方、雨にかすみて高く建てるは、東寺の五重の塔であらう。とある停車場で『こゝが島原のすみやの裏だす』と人の語るをきいた、すみやは舊家にして家も調度も整ひ、大夫は昔しのまゝの姿にて客に見えるといふ。
 峨嵯を過ぎ、トン子ルを出ると嵐峡である。雨に洗はれた翠の山、底を流るゝ淡藍の水、美しくないとは言はぬがあまりに小細工で飽氣ない、嘗て亀岡より小舟にて此流れを下つたことがあつたが、富士天龍などの豪壯なるに比ぶべくもなく、世間知らずの都人には、丁度よいお慰に出來てゐる處だと思つた。
 丹波地に入ると、景色は段々大きくなつて來る、上州片品川の奥に似て、深い谷、高い崖、その崖の上に村落のあるといふやうな場所がいくらもある。雪が多いかして、農家の草屋根の勾配が急である。さすがに名物だけあつて、栗の木が多く、車窓から手の届きさうな處に、青い毬が壘々と實つてゐた。
 綾部近くへ來ると、和知川の上流が靜かに流れて、景色がやゝ廣くなる。下りて書いて見たいと思ふ場所もある。丹波の風景は悪くはないと思つた。
 正午頃舞鶴に汽車は着いた。海岸行へと乗換へる。盛むな雨で、停車場はそのまゝ海の中へも流れ込みさうだ、赤帽に荷物を預けて一丁ばかり後へ、松原の中の茶店に入る。
 茶店は神林とかよばれて、店には果物やサイダーなどが置てある、入口の柱には『お茶代其他一切現金の事、またこん度一しよになんと申こと大きらひ』と大書してある、振つた斷り書だ』天氣模様はますます惡い、宮津に一泊して橋立見物をする筈であつたが、雨ではそれも川來ぬ、要塞地だから寫生も出來ぬ、こんな處で降り込められては堪らぬ、とに角出雲へ往って仕舞つた方が安心と、今日出帆の聯絡船に乗ることに極める。
 大雨沛然として下るかと見ると、やがて日光が漏れて、蝉が鳴き出す、軒の雫の音がやむで、敷石が乾いたころには、いつか黒雲が低く垂れて、またも道ゆく人の傘を開かさせるのであつた。
  阪鶴★
 船は八百噸近くあつても、舞臺は日本海だ、少しは揺れるだらうと覺悟して、クラスを一つ上げて貰つた。ほかに一人も客が無い、買切のやうなものだ、部屋は氣持のよい程整つてゐる』『お風呂が沸いております』とボーイが知らせてくる、湯を使つてゐるうちに船は動き出す、浴衣に代へてプープデッキに逍遥する、よい心持だ、天氣もすつかりよくなつてしまつた。
 金筋つけた事務長が出て來て、あれが丹後富士、あれが新舞鶴の軍港、あの裏が餘部で、あの家が柊屋の別荘と、一々叮嚀に敎へてくれる、うち見たる處、舞鶴灣は水も深く景色もよい、雨後のためが、緑の色が強く、暗い地たりの土の色も、血のやうに赤かつた。
 柊屋といへば、この頃そこの若主人と仲居と、月なき夜を此海で心中したといふ、小舟に乗れる二人の姿、其場の光景が、芝居でも見るやうに不圖目に浮むだ。
 港外へ出ると景色は一變した、右は浩蕩たる日本海、水平線はだく眞一文字に、船一つ浮むでゐない。左は經ヶ岬長く突出で折からの夕空に、淡く半月がかゝつてゐる。來合せた船長は、ベンチに腰を下して、この航海の冬の難儀さを話す、粟島航海學校練習船の、行衛不明となつたのも此海で、二千餘噸の熊野丸も、同じ運命に葬られたといふ、冬になると、旧日幾艘といふ比例に、難破船があるのだといふ、恐るべき海よ、その色はインヂゴよりも暗く、ニユートラルチントよりも濃い。
 夕飯を濟ませて事務長とかたる。出雲でよい處はと問へば、美保ノ關でせうといふ。山陰の線路案内を見ると、小さな港で、家のさまなども面白さうだ、二日程ひまのあるので、そこで繪を畫かうと思ふ。此船は伯耆の境港へ着くので、境から美保關迄は、二三里跡戻りになる、今日は船足が速いから、明朝關へ船を停めさせませうといはれる。
 前夜眠りが足りないので、早くからベッドに這入る、凉し過るので煽風器はやめて貰ふ。
  美保關
 顏を洗つて運動場へ出ると、東の雲にうす紅ゐの色は見ゆれど空は不相變曇つてゐる。ゆく手に長く突出た半島の鼻に、目ばたきするかのやう、燈の明滅するは、地藏崎の燈臺ださうな。
 左には船上山大山、いづれも其頂きはかくれて、裾野のみ洲のやうに長く見える。夜見の濱はあのあたりと、事務長は敎へてくれる。
 三度汽笛が鳴つて、船はピタリと停まつた。待つ間程なく、淡い霧の港から艀船が出て來る、船長や事務長に送られて本船を離れた、他に下りる者はない、自分一人のためにわざわざ船を停めてくれたのだ、氣の毒に思ふ。
 三方をかこむ山の影で、水は深い緑の色を湛えてゐる、二人の舟夫は、代る代る艪を操る、大きな帆前船の間を縫ふて、港に入るや、一直線に舟の着いたのは美保館の淺橋で、『お客さんだよう』と大きな聲で吐鳴ると、『アーイー』と細い聲が答へて、まだ寢足らぬらしい眼をした色の白い女が暖簾をかき分けて石段を下りて來る。水國の夏の朝、たゞ何となく心嬉しい。
 直きにお二階があきますからといふて、假りに通されたのは水際の六疊の座敷だ。灣は不忍池よりも小さい、馬の蹄の形に似て、周圍は小高い山で、木が隙間もなく繁つてゐる。『關の五本松一本切りや四本、あとは切られぬ夫婦松』と、その夫婦松はこゝからは見えぬが、山續きで、赭い瓦、白壁の土藏、提灯さげた二階家、棧橋、帆船、汽船、崩れさうな石垣、室の中からどちらを見ても、面白い繪が出來さうで、無闇に氣に入つてしまつた、早速箱を出して北の方の棧橋を寫す。
 降りみふらずみ、五月雨のやうな天氣である、その晴間を美保神社に參詣する、社は大社式の、妻が正面になつてゐる、舊い歴史があるといふ。奥の方の暗い森の下には、某の献納した白鶴が一羽、金網の中に淋しげに立つてゐた。
 町は戸數三百あまり、道路の幅は廣い處でも九尺はない、狭い處は六尺にも滿つまい、ハアン先生が、こちらの二階で足を伸したなら、對ふの廂へ届くといはれたのも嘘ではない、その狭い町には、一面に石の敷かれた處もある、神社近くには、宿屋と土産物賣る店で、町端れにゆくと、風呂屋と理髪店が多く目につく、その先は漁師の住屋で、眞黒な肌をした女達が、網をすいてゐる、狭いだけに變化があつて面白い町である。
 宿へ歸ると、いつも粹な樣子をしてゐるお夏さんは『旦那、お二階の方がよいのですから御轉宅遊ばせよ』といふて、荷物を運び出す、二階へ往つて見ると、座敷もよいが見晴しもよくなる、大山も正面に見える、居ながら繪の出來る場所が殖える。
 湯に入つてから、沖の方を見て夕暮の繪を一枚かく。
 二階の軒には、紅入りの岐阜提灯がいくつか吊されて、夜の世界は陽氣になる。港の口に舶つてゐる大小の船には、舷燈が閃めく。半月は夫婦松の方に傾いて、その光は水のやう、海を掠めて櫻に吹入る風は凉しい。
 美保關は、朝から三味の音のする處で、四十あまりの藝者と、十數人の舞子とは、引張り足らぬ繁昌だときいてゐた、港には燈火がついてゐて、素晴らしく景氣はよいが、今夜はどうしたものか、ツンともテンとも言はない、舊盆前でお客がありませんと、お夏さんは言ふ。
 こゝには宿屋のほか料理屋といふものはない、四十の藝者は、見番があつて、夜になると娼妓のやうに店を張る、旅人宿は料理屋待合貸座敷兼帶で、藝者は申迄もなく鑑札を二枚持ってゐるといふ、山陰の別天地として、船頭や漁師の極樂郷であるさうな。
 翌朝は、食事前から船着場の寫生を始めた、雨がバラバラと來て、水面が白くなるかと思ふと、いつか鏡のやうに緑の影が映つてゐる、軒下に佇む名物の女も、その女のシンボルたる白猫も畫中のものになつた。
 港は圍まれてゐるから、風があつても海に浪は立たない、松江通ひの小蒸汽の汽笛、魚市のたつ知らせの鈴の音、手褶の下を近々と漕いてゆく船頭のうた、そのやうな物の音が、代る代る耳に入る、晴間には、近くの森で蝉がせはしげに鳴く。
 午後から地藏ヶ崎燈臺のあたりへ往つて見る。狭い、そして突當りかと思ふとまた道のある關の町を外れて、少し登り、海に沿ふて二十餘丁、途中の景色は平凡だ。燈臺のあたりも、たゞ日本海の廣々した眺めがあるといふだけで、繪にしやうもない。とある山の中腹で、大山を寫して、汗をふきながら宿へ歸つた。關は町を除いては、存外詰らない。やはり座敷の中で繪をかくやうに出來てゐる處だ。
 夕方、松江からワイ君とエム君が來られた。出雲には安來節といふ有名な歌曲がある、隠岐にはドツサリ節といふ船頭歌がある、安來節は廣く唄はれてゐるが、ドツサリ節は、本場の隙岐を除いては、伯者の境か、この美保關でなれば聽かれなけいといふ。お夏さんをよむで、酒を飮まないお答の處へも藝者は來るかときいたら、參りますといふ、ドツサリ節だけ聽かせて貰ふ約束で女を招むだ。
 現れ出でたのは、是でも藝者ださうな、姿でも身の皮でも、東京の下女の方がよほど氣が利いてゐる、晝は海へも入るのだらう、眞黒な顔にお化粧もしない二十女と、まだ肩揚のある目高のやうな細つぽい女と、八ッばかりの紅い着物と、三人であつた。一番小さいのが、大きな幼稚な訓練のない聲で何か唄ふ、大きいのが三味線を彈く、自分が恐縮したばかりでなく、ワイ君もエム君も變な顔をしてゐる、ドツサリ節をニッばかりやらせて早速退却を命じた、歌に曰く 『大仙お山から隠岐の國見れば、島が四島に大滿寺、中の小島 に船つなぐ』ヤツシヨンマカセ!歌調は卑しくはない、節廻は馬鹿に間が延びてゐる、座に隠岐から來てゐる女中が居て、國ではもつと緩くり唄ひますといふ此上ゆつくりやられたなら、誰れでも眠らぬ譯にばゆくまい。
 空模樣はよくなつた。朝の九時の船で松江へゆくことにする、見捨てかねた場處を其前に一枚うつす。
 汽船はまだ來ない。欄に倚つて見下してゐると、海の水は清い、底のものは皆明らかに見える、石の間に黒く塊まつてゐるのは蛸で、それを捕ふべく、十二三の子が、棹の先に餌をつけて、小舟の上から狙つてゐる、餌の魚の頭が光ると、靜まり返つてゐた蛸は、忽ち活躍して飛つく、透さず棹を引いて鈎で懸ける、見る間に小舟の中に八足蟲が叩きつけられて、うろうろする藁で括ると色を變へて死むでしまう、かうした處には、相應の遊びもあるものだと、ワイ君と二人で感心して見てゐた。
  中海
 吾等を乗せた汽船は、なつかしい美保の關を後にして夫婦松を右に、大山を左に、可なり早い速力で浪を切つて進むでゆく。
 境と關との間の景色は、言ふ程のものではない、白い三角の帆をかけた船が、幾艘ともなくゆき違ふ。
  境を過ぎてから、船は程なく中海に出る、大根島を左に見てゆく、この島、數千の人家ありて、牡丹の名所であるといふ、島に遊むだ人の話では、全島の人々多くは裸體で、其言語の如きは、他國人にはとても分らぬとの事だ、上陸してもさして面白さうには思へぬが、この島を前景として、中國山脈を背景としたなら、よい繪が出來るかも知れない。
 四角に刈込むだやうな風防の松林、柳の影水に暗き漁村の岸、舳の高く、よく動く反子舟、それ等は、周回十六里の中海湖の印象で、折からの雨後のためか、水は白濁して清くはなかつた。
 馬潟から松江に至る二里ほどの間は、中海から宍道湖に通ふ水道であつて、川の幅も狭い。そこの船つきで、松江から態々出迎はれたケイ君に逢つて、船を共にした。此間、水の流れゆるく、山の裾をめぐりて、稻田あり、松原あり、造船所あり、景色は稍や複雜になつて來た。
  やがて遙かに松林が見え、千鳥城の天守が見え、一文字に横たはる大橋が見えて、船は假橋の傍に着いた。桟橋にてはアイ君を始め、十數名の未知の人々に迎えられた。
  松江
 皆美舘の樓上から見ると、十餘里の宍道湖は、たゞ一眸の下に收まる。東は大山を遠景に、南北松江の市街を結べる、大橋の人馬の往來、南は近く袖師ヶ浦の岬から、名も愛らしき嫁ヶ島、西は玉造かけて、遠く平田あたりの民家の森が、浮島にも似て水平線上にところどころと頭を出してゐる。沿岸の町に通ふ白い汽船は遙かに。荷を運び魚を漁る小舟は直ぐ目の前を。一は汽笛を水に響かせ、仙は艪聲ゆるやかに、西に東に往來は絶えない。見渡すところ、周圍の山低く、水清からず、とりたてゝ形の上の奇を見ないが、雲に色ある時、それに染まる水の面は美はしからう。雲といへは、その塊の大さ、悠々として動きゆく態度、何となく壯大の趣がある。
 霞浦あたりに見る、瀟洒な風致は何處にもない、たゞ暗く重く、何處か無粹で、優美といひ艶麗といふやうな文字は、一寸使ひ處がない。
 アイ君に導かれて、城山公園に往く。濠には紅白の蓮の花が盛りに咲いてゐる、大手門の跡から上つてゆくと、眞先に目につくのは、數多くある茶店の入口に、言合せたやうに赤い旗が出てゐて、『名物櫻餅』と書いてある、そしてどれにも、元祖とか本家とか肩書がしてある。天守閣のほとりから、引返して裏道を、稻荷の社に出た、見晴しのよい處がある、この稻荷の境内には、五六寸の石の狐が、何百となく木の下に積重ねられて、青々と苔蒸してゐる、彫も悪くはない、アイ君にたのむで其一つ二つを跡から送つて貰ふことにする。
 城外へ出でゝ濠端を一週した。風なき水面には、城内並木の影が映じて、晝も靜かに、鮒つる子供の棹がおりおり動くのみである、松江は水郷で、そして穏やかな都だと思つた。
 招かれて松崎水櫻といふのに往つた、湖に臨むだ凉しい座敷で安來節をきいた。
  『安來千軒名の出たところ、社日櫻に十神山、十神山から沖見れは、何處の船かは知らねども、滑車の下まで帆を巻いて、やさほやさほと鐵つんで、上のぼり』
 この地の景色に似合はず、歌調は華やかに艶なるものであつた、歌の作者は、この頃世を去つたといへば、由來は古いものではない、松江の和田見節と混じて、調が俗になつたのを惜むで、本元の安來では、いま安來節保存會を設けやうと盡力してゐる人がある。
 十年前に聞いた安來節には、思はずも涙が堕ちたが、いまはそのやうな事がないとアイ君は言はれる、アイ君の情緒の變れるためか、名人のなくなつたためか。
 雲に五彩の輝きある未明の宍道湖はまたなく美しい。袖師ヶ浦は紫に霞むで、嫁ヶ島は恰も夢のやうに、平田通ひの白く塗られた汽船は、大きな水鳥のそれにも似て、悠々と雲の影を亂してゆく。おりおりバサリと音のするのは、すぐ橋の袂に漁する老爺の、四ッ手綱を下したのであらう、露に重い靑草を、山のやうに積むだ舟は、白い手拭に髪を包む、うら若い娘の手に漕がれてゆく。日の光りが大山の頂きあたりから洩れるころになると、大橋の上に、下駄の音車の音、さては聯隊通ひの士官の乗れる駒の蹄の音もきこえて來る。雲の影はいつか消えて、湖の面には小さな小波が立ち、朝の冷たい風が、隅一つ外された萠黄の蚊帳をもてあそぶ。
  時雨する日の宍道湖の眺めも捨てがたい。さと一雨來ると山の影は忽ち跡方もなく、湖は銀の色に變つて、浮べる舟は著しく眞黒に見える。中國境の山々は、いま迄たゞ一色であつたのがいつか幾重にも重なり合つて、終には鼠色になつてしまう。墨のやうな雲の、其頂きを過ぎゆく時、遠雷の昔と共に對岸の柳は風を含むで白い葉裏を見せてゐる。やがて床几山のあたりから雲がきれて、緑を含むだコバルトの空が見え出す、いま迄隠れてゐた太陽がキラキラとさして、湖山の景色は生れ變つたやうになる。蒼い空にはムクムクと白い雲が動く、その雲はいつか紅味を帶びて、所謂備後入道の本色を現はす。蝉が思ひ出したやうに、松にも柳にも物干棹にも、はては手近の縁の柱にまでも來て鳴き立てる。燕が矢よりも早く目の前を往來する。
 たそがれ時の宍道湖は神秘の趣きがある。欄に凭つてぢつと西の方を見てゐると、例の平田あたりの松林が、淡く淡く夕榮の空に浮むで、杵築方面の山々はうす紫に、スカイラインは消えもしかねまじき風情である。ほのかに一點の黒きものは、家路にいそぐ小舟であらう。遠い山と廣い水、たゞそれだけの此眺めに、前景の役目をつとめる隣家の大なる蘇鐵は、線の色の漸くにあせて、蒼黒に變りゆく。いま迄暗かつた近いあたりの水の面は、華やかな色を浮べて、蘇鐵の黒さに比例して、明るくなつてゆくやうにも思はれる。若い女をのせた小舟は、男が棹を張ると、ツイと岸を離れて、水は面白い波紋を見せる。その男の白地の浴衣も、夏の夕暮にはふさはしい色であらう。
 大橋の電燈が水にきらきら長く其影を動かすところになると、宍道湖には舟の數がふえる。凉みにゆくのもあらう、夜網に出るものもあらう、紅の球燈を吊した屋形船からは、絃につれてなまめかしい女の唄ふ聲がきこえる。中流に水のまにまに月の光りに照されて、尺八を弄ぶ人もある。氣まぐれの螢が一つツイと飛むで、暗い柳の蔭に消える。葭の間から大きな鳥が起つて、一しきりあたりは靜かになる。はるかに二ツ三ツ燈火の見える松崎邊から、冴えた聲で安來節をうたふのが、水をわたつてきこえて來て、遠く都を離れた旅人に、淡い哀愁を催させずにはおかない。
 その月の夜を、エム君とエヌ君に伴はれて、小舟で嫁ヶ島へ徃つた。島は大橋から三十丁もあらう、晝間よりも明らかに、針でも浮べたやうに暗く見える。エム君が艫を押し、エヌ君が時に棹をとる。生ぬるい水に片手をつけて、波を切つてゆく心持はよい。おりおり舟近くを魚が跳ねる、鯔ださうな、時には舟の中へも飛込むといふ、今夜あたりそんな事があれば面白いになアと思ふ。
 嫁ヶ島は、想像よりも廣かつた、五六本の松がある、大きな石燈籠もある、岸は波に崩れるので、臼形の切石で築いてあつて面白味はないが、夜ではそれも目ざはりにはならない。
 再び舟に乗つて天神遊園へゆく。遊園は市の南の端にある、岸には古い柳の間に、澤山の掛茶屋が出來てゐる。假家ではあるが、水に臨むで二階建になつてゐる、提灯は透間なく吊られてそれが靜かな水に映るさまは、またなく美はしい。舟を棧橋につけて上つて見る。松五六本、その奥に天神の社がある。氷店西瓜店、おもちや屋など、裸火の光りあかあかと、丁度東京の縁日のやうてある。その間を、うかれ節や浄るりや、流しの男女が客をもとめてゐる。
 醤油樽ほどの西瓜一つ、大きな氷の塊を抱えて、エム君は舟に歸る。さんざめかせる凉棚の下を通つて、舟を湖心に押やり、中空高き月に對して西瓜を破つて氷に冷しては食ふ。月も水も果物も、いづれか凉しからざらん、終には身うちも冷え渡るやうに覺えたので、興は盡きないが舟を歸した。
 これも月の夜である。五六の人と共に、鶴助さんの浄るりをきいた。靑い林檎はむかれて、人々の前に置かれた。語り物は櫓太鼓に酒屋である。宍道湖には、意氣な端唄や、艶な清元、華やかな常盤津も、冴えた長唄も調和しない、かうした太棹がこの湖の水にも感じにもしつくり合ふやうに思はれた。
 堂潟といふ處へゆく。松のある堤を通つて、暫らくゆくと道が盡きたかと思はれる、農家の庭を拔けると、更にまた道がある、甘藷の畑、もろこしの畑、それ等を見過して湖の岸へ出ると、葭が茂つて、ヒタヒタとよせる漣の音がする、形の惡くない柳がある、水際には捨石がゴロゴロしてゐる、主のない小舟がゆれてゐる、鶺鴒が目まぐるしく動いてゐる。
 愛宕山といふのがある、下から眞直に、磴道何百級、見上たばかりで此の暑さに登るのはいやになる。傍を迂回して別のところからゆく、眺望は大してよくない。
 宿屋でお客に出すお茶を、一々湯をさまして入れるといふ程、悠長な叮嚀な氣の永い處であるだけに、骨董といふやうな趣味は到る處に普及してゐるらしい。市中に道具屋が多い。學校の休憩室では、立派な岩付松の盆栽も見た。此地の素封家ケイ氏は、自分のために、わざわざ名家の筆になつた畫幅を、幾十となく持つて來て見せてくれた。
 松平不昧公といへば、風流の殿樣だ、それの遺風が残つてるのであらう、事々に雅びやかな趣があつて、ハイカラ文明には遲れてもゐやうが、何となく床しい處のあるのは、松江の特色ともいへやう。
 物産陳列場といふのに往つて見る。玉造から出る瑪瑙、樂山燒八雲塗などが目にいつた。八雲織絣とかいふのも、染が堅いといふが、柄行が田舎臭い。八雲塗は手間がかゝるので、價のみ高くなり産額は少ないさうだ。
 出雲は言葉の分らぬ國だといふ。小學校の敎室には、『言語を明らかにせよ』と書いてある。併し新しい敎育を受けた人と話をしてゐるのでは、一向差支ない。分らないのは、船頭同志や車夫などの話で、物賣ときてはとても想像もつかない。出雲の亭田がオヅモのフラタになつたり、雀と蜆、梨と鮨と茄子の區別など、到底明らかにはつかぬさうだ、メリケン粉がメーケン粉で、口の御碕がフノミサキである。
 出雲郡はシットー郡といひ、出雲郷はアタカへといふ、言葉の上ばかりではなく、文字に書かれても他國人はまごつかざるを得ない。
 風俗は淳樸らしい、ある人が、『先生は夜分戸を開けてお休みですか』といふから、私は嫌ひだといふたら、『東京にお住居だから泥坊が怖いのでせう、私達は夏戸を閉めた事はありません、松江には泥坊は居りません』といふた。其夜、一軒置て隣りの宿屋に泊つてゐた、講習會の會員は、戸を開けて寢たら泥坊に入られたさうだ。松江にもやつはり少しは居るのだらう。
 一月おくれの七夕といふので、町の家々に、赤や黄や色紙を飾つた笹の建てられたのを見た。
 程なく孟蘭盆も近づいて來た、昔しのくさ草紙にあるやうに、此の地方では高燈籠を建つるかして、それを貼かへてゐる家もある。
 ある朝、大橋のたもとを俥で通つた、明日からお盆だと★ふので、草市が立つてゐる、うら若い田舎娘が、手拭冠つて、大きな籠を肩にしてさまよつてゐる。籠の中には水萩夏菊、名もしらぬくさ花の數々があって、聲高に客をよむでゐる。町のお内儀たちは、おのがじゝそれを求めては、いそいそと歸つてゆく、來る人、去る人、あまり廣からぬ往來は、花と女とで埋まつてゐた。
  大社
 出雲大社は、その地に宮居を定むること三千年、日本最古の神としてある。アイ君が案内してあげやうといふので參詣する。朝早く松江驛を出た汽車は、宍道湖の南岸を西へと走る、車窓から袖師の浦の石佛も見える、山陰線で一番景色のよい場處だといはれる程あつて、たえず湖光を目にしてゆくのは惡くはない。
 湯町驛は、玉造温泉のある處、瑪瑙の産地として知られてゐる、勾玉、管王、昔しの神々も、この地の玉を身に飾られたのであらう。
 庄原に至つて湖と別れる。周圍十三里の宍道湖も、庄原平田あたりは、半ば稻田に化してゐる、この湖の齢は古い、遠からずして、田となり町となつて、ただ幾筋かの水流が、そのおもかげを殘すやうになるであらう。
 汽車は今市を終點としてゐる。俥を雇つて杵築迄走らす、停車場から二里あまりあるといふ。
 細い流れに沿へる一條の道、何の奇もない、平凡と稱するより言葉はない。稻田の間、松原の中、貧しげな町など通ると、やがて杵築で、俥は大社の大鳥居の前に停つた。
 大鳥居を入ると、少しく下つて松原がある、馬場とよぶさうだ、門を入ると拜殿がある、神官の案内を受けて、本社樓門内で參拜する。
 大社の建築は、妻を正面としてある、礎より千木の頭迄高さ八丈あるといふ、正面中央に柱があるので、入口は左に設けられてある、建築美の方から云ふたら、神明造よりも此方が趣がある。
 土藏から出すので、一時間程まてば寳物の拜見が出來るさうだが、手數をかけて迄も見たくないので、御免を蒙つた。たゞ、倉庫備付の、光起の三十六歌仙と、荒川某の稻田姫の彫刻と、白木の火鑚臼火鑚杵の模造品、何やらの玉琴とかいふものを見た。
 出雲大社は、背後に八雲山あり、傍に彌山あり、地は平凡ではないが、社の周圍に樹木が乏しく、また平地にあるので、壯嚴神秘の感が乏しい、從つて神に對して崇敬の氣分が起るといふよりも、何となく親しみ易い心持がした。想ふに、伊勢といひ熱田といひ、加茂も日吉も、古い神社は多く平地にある、宇佐箱崎も平地のやうに聞いてゐる、男山はいつ建立されたか知らないが、兎に角神の社の高い處へ祀られるやうになつたのは、佛敎渡來以後で、無暗に有難がらす宗敎的手段から來たものではあるまいか、昔しの神は人間に近いものであつた、中世以後の神は人間を超絶したものにしてゐる、自分は平地に在つて、何等脅かし的の粉飾なき、この出雲大社のやうな神を、心から尊敬するののある。
 參拜が終つて、直ぐ社の傍のアイ君の邸に立ちよつた。凉しげな靜かな落つきのあるよい住居である。アイ君の父君母君が出て來られる、祖母君もにこにこして座に列せられる、規律のあつて、しかも温からしい家庭た。アイ君のやうな眞面目な紳士の出たのは偶然ではない。
 自分は夙に母を亡ひ、父にも二十年前に別れた、祖父母といふやうな人達の顏すら知らない、いま圖らずも、髪白きアイ君の雙親に接し、座ろ往時が偲はれてならない、そして心よりアイ君の幸福を羨むだ。
 稻佐の濱にも往つて見やうといふので、眞晝の燃えるが如き砂道を五六丁、濱へ出て見ると、日本海は果しもなく碧々と、波は靜かに岸を洗つてゐる、引上られた漁船幾艘、網小屋のたぐひが、烈々たる日の光りに浴しつゝ、糸遊は火焔を吐いてゐるやうである、飽く迄も蒼い空には、白雲が浮むで、廻船問屋の小さな旗が、高く風に動いてゐた。
 日御碕神社は、この濱から海上二里もあるといふ、そこには一等燈臺がある。去年友人がさる米國人と共に此地に遊むだ、船頭は此燈臺を是非見てゆけといふ、いくら見たくないといふても聞かない、終に米人は、『アメリカといふ處は燈臺ばかりの國で、何處へ往つても燈臺を見せられる、それで燈臺を見るが厭で日本へ來たのだから勘忍してくれ』といふて斷つたさうな』杵築の因幡屋で晝食をすませ、二時間程休むで、順路を松江に歸つた。
  山陰線
 舊の孟蘭盆前に松江を發足した。停車場には知り合の人が送られる、アイ君ケイ君ワイ君など、わざわざ馬潟迄同乘された、自分は出迎とか見送とかいふものはあまり好まぬが、此人達のは形式ではなく、心から別れを惜むで下すつた、出來ることならもう一週間も松江に居たいとさへ思つた。
 汽車は中海に沿ふて走るが、絶えず水を見るといふ程でもない、出雲節に名高い安來の町も、たゞ裏から見たばかり、大山を右の窓に眺めつゝゆくと。やがて伯耆の米子で、こゝからヱイ君が同乗される、今日浦富で一しよに寫生をしやうといふのだ。熊黨驛では大山へ登るらしい姿を幾人か見た。御來屋驛ではエッチ君が待受けて車を共にした。エッチ君は城の崎迄も同行しやうといふのだ。
 赤碕邊は景色が面白い。倉吉は遠く城山を見たのみで、驛からは離れてゐる。松崎には東郷湖がある、温泉の方が有名だ、湖水は山低く樹少なく何の變化もない、いくら水があつても繪の出來ぬ處であらう。泊驛から海の方を見ると、幾丈かある明るい砂山が、飽く迄晴れた空に輝いてゐて、強い強い對象が面白い。寳木近くに小さな湖水が見える、此邊は夏青田の場處に冬は水を堰いて、一面に湖水に變る處だといふ。湖山池は車窓の右に見える、周圍三里もあらう、小島もあり、水も靜かに、美はしい眺であつた。
 千代川を渡ると鳥取市である。停車場でエス君夫妻に迎えられて市中を見る、見た處は停車場前の大通りに過ぎないが、何となく落つかぬ家並であつた。城址のある久松山は、登つたら眺望がよからうと思はれた。かくて次の汽車でエス君と共に浦富に向つた。
  浦富
 岩美驛は、山陰線の終點になつてゐる。あたりには盛んに地辷りの跡のある山がある、こゝから俥で浦富海岸へゆく、曲り曲りて狭い道を濱邊へ出て、觀潮樓といふのに投じた。エイ君やエッチは、暑さうな二階で頻りに寫生をしてゐられる、鳥取あたりから遊びに來てゐる海水浴客が、どの室にも一ぱいで、自分達の荷物の置場も無い。
 欄に靠れて海の方を見る。西と北とに面した中央に丘があつて荒砂神社といふのが祀られてゐる。この丘に仕切られた西の海は、赭色の奇巖が重なり合つて見えるばかり、傾きかけた日の光がまばゆひ、前面には向島が横はつて、その先は果しのない遠海原の、白帆が二三點浮むてゐる、前は廣い沙濱の、大小の漁船は不規則に引上げられて、紫の夕日の影を、黄なる砂の上に畫いてゐる、草が積むである、綱が乾してある、ガタ馬車の馬が繋いてある、跣足の男女が徃來する、棹の先には喙の大きな烏が一羽とまつてゐる。
 東の方を見ると、遠くは大崩れの砂山で、其下は潟をなしてゐる、風はないが、うちよする浪の音は可なり高い。近くは清風館といふダラシのない宿屋、二階の日除はキラキラと目を射るやうに、其下には小屋掛けの氷水屋、赤い旗に小提灯の、鉋の音がせはしない。うす穢ない大きな下水、それにすれすれに、乗合馬車が投げ出したやうに置かれて、馬丁は日蔭の莚の上に大の字に寢てゐる。小旗をたてた俥二三輛、青鼻汁を垂らした裸體の子供達、そんなものが雜然と、夏の夕日に照らされて、何の統一もなく殺風景に眼にうつる。
 幾組かの客が歸つたので、漸く部屋が明いた、どう勘違ひしたか、仕立下しの浴衣を持つて來る、脇息を出す、三尺も長さのある不思議な煙草盆を出す、其煙草盆には、眞中に火入れがあり、左に巻煙草の灰落しがあり、右の箱には敷島が入つてゐる、宿屋で煙草を出されたのは是が初めてゞある。革の蒲團を座敷の眞中へ敷いて、どうぞ是へと、黙つてゐれば芝居の殿樣にして仕舞さうだ。
 湯に入つてから、座敷の中で、脇息を三脚の代りに、海岸の寫生を一枚やる。エス君も始める。孰れも居かがらの、誰れも戸外へ出ない。
 いつもは女中が一人、夏場は近處の百姓の娘でも手助に來るらしく、氣の利かぬこと夥しい。東京流にテキパキ用を命じるとオドオドするばかりで一向捗取らぬ、それでも夜になれば、燈火もつけてくれたし、飯も食はしてくれた、散歩して歸つて來たら、取つて置きの寢道具も敷かれてあつた。
  大成★
 そよそよと風はあるが、穏やかなよい天氣だ。津居山ゆきの汽船が、向島の蔭に姿を現はすのに、まだ朝飯を持って來ない、艀船へ急ぐ旅人の連續、それを見下しつゝ、急いで勘定をすませ最後の小舟で大成丸に移つた。
 甲板から見ると景色は中々よい、宮島、鵜島、松島など、西の方に見える。此浦傳ひ、網代の港のあたり迄ゆくと、頗る奇勝に富むでゐるといふ。今朝、山崎といふ人から贈られた浦富名勝案内を手にして、エッチ君と共に暫らく風光の話に耽つた。
 大成丸は百六十噸の小汽船ではあるが、此航路中では一番大きいのだといふ。航海は夏の間だけに限られて、それも風波の荒い日には出帆しない。乗ると直ぐボーイが金盥を持つて來るといふ程、船の揺れるので有名な處だ。京の友人ケイ君、さてはエス君など、此間は船室の中で呻吟して通したといふ、幸に今日は海は穏やかで、川蒸汽にでも乘つてゐるやうだ、いかに荒れても、船には醉はぬと大覺悟をしてゐたのが、いさゝか力拔がした。
 船は吃水の淺いためと、海の深いためとで、岸近く走る。遠くとも半海浬、近い時は岩に手も届きさう、五間十間と離れない、其岸は、多く見上るばかりの暗褐色の斷崖で、暗い緑の山を背景に、頗る豪壯なものである、矛のやうな頂き鋭き小島は、岬の鼻に必ずいくつかあつて、よせ來る波と戰かつてゐる、目を北に轉ずれば、洋々限り知られぬ日本海、一文字の水平線は、劃然と空を限られて、たゞ大うねりにうねる蒼海の、白帆もなければ煙も立たない、雄大の趣は、この海以外に見られまい。
 一方は千丈の絶壁、他方は浩蕩たる海洋、こんな心地よい景色は、あまり多くはあるまい、爰に到つては、瀬戸内海の如き、コセコセした景色は、必竟兒戯のみと嘲りたくなる、此航海が鐵道の貫通と共に廢せらるゝは、惜むべきことである、陸上から島は見えやうが、日本海に面を曝す雄偉なる外壁の光景は見られない。
 船は二三の小さな港に寄る、一人二人の客が上下する、港は何處も景色が面白い、水が清い。
 船中の生活を見るのも興の多いものだ、何處からか持出した西瓜を水につけて、やがていくつにか切つて、船員どもが食ふ、あまると客に賣りつける、この西瓜は二十銭で十六にしきや切れないから、一つ一銭三厘だ、面倒だから一銭五厘としろなんていふてゐる。料理方が出て來て海から網を引上る、中に榮螺が澤山居る、一つ二つと勘定して、五★ばかり甲板に轉がす、ハンマーを持つて來て、殻を叩いて肉を出す、碎けた殻を海の中へ投げ込む、話に夢中になつて、いつか調子が狂つた、殻を残して肉を捨てゝ平氣でゐる。やがて飯が焚けると、銘々茶碗と小皿とを持出して、荷物の上で立食が始まる、カタンカタンと喞筒で水を揚げて、食器を洗ふ、極めて愉快らしく簡單に、何ても濟ましてゆく船の生活は、惡いものではない。
 浦富から四時間、船は但馬の津居山に着いた。こゝから城の崎迄は日除のある小舟で、圓山川を溯るのである、俥が五臺ありますと事務員が叫ぶ、自分は俥を命じた。
 危げな艀船に移つつて上陸する、城ノ崎道一里の間を川に沿ふてゆく、川は水靜かに、山の影を寫して凉しけだ、併し是といふてよい景色の處はない、此道を通つてゐる友人は、頻りに其美景を説くが、幾多のトンネルに苦しめられ、山叉山の播但溪谷を下りて、小雨降る時にでも、此道を津居山さして下つたなら、感じは極めてよからうと思ふが、雄壯な景色に飽いた目で、夏の日の眞晝中を、埃に苦しみながら通つたのでは、さつばり面白くもない。
  城ノ崎
 俥は舟より三十分も早く城ノ崎に着いた。穢ない汐入川が中央にある、其左の道を走つて、うを屋といふのに投宿した。
 三階の二間續き、部屋は狭いが風通しはよい、間もなくエッチ君も來る、連れだつて御所の湯といふのにゆく、道後別府の壯大はないが、浴槽は大理石で疊んであつて、新築の木の香が高い、室はあまりに明る過ぎて眩ゆい程だ、湯は箱の半にも滿たず、どんどん流れるといふやうな、贅澤なものでなく、また美しいものでもない、小さな把杓をもつて、頭から湯をかけてゐる、いくら宿が行屈いてゐても、湯がキレイでも、内湯が無くては永く居る氣になれない。
 宿へ歸つて、枕を借りて横になる。隣り座敷で頻りと話聲がする、何ぞおますやらう‥‥ありやへん‥‥おますやもしれへん‥‥よさりようねれんで‥‥ア姉はん姉はんビールはおますか‥‥神戸あたりの人達だらう、甘つたるい言葉がいやらしく耳に響く。
 洗面處へ往つて見ると、街路及川中へ塵埃を捨てるものは、三日間以上の拘留に處せらるべしといふ、嚴めしい張札があつた。
 夕飯前に、地藏湯といふのに往く。御所湯より規模は小さいがこの方が温泉らしい、不相變湯の量は少ない。手拭さげて町を散歩する、川筋をどこ迄もどこ迄も奥へゆくと、家の配置など面白く、二三枚の寫生が出來さうだ、土産物としてはあまり氣の利いたものがない、今夜藥師樣の境内で盆踊があるとの札が下つてゐる、宿屋の貸ゆかたを着た浴客が、夕暮の町をさまよふてゐる。
 向ふの小山の墓所には、燈籠が數多く灯された。盆踊は宵は子供ばかりで、十二時過てなくばはずまぬといふ、月がよいのて戸をたてずに眠る。
 『參りませうか』『ハア』といふやうな問答が夢うつゝに聞える、月は枕も顔も照すのであらう、目はあけては見ないが部屋は明るい、夜の冷たい風は、水のやうに蚊帳の中へ流れ込む、杳かに大勢の人のどよみがきこえる、三味の音もする、盆踊はいまが盛りだらうと思ふ、思ひながらも起きて見にゆく氣はしない、晝のやうな月の光、高張たてた音頭取りの姿、しなやかに舞ふ踊子、それを取まく群集、西瓜賣る店、氷かく女、そんなものが朧ろに眼の底を往來する。そのうちうとうとといつか眠つてしまつた。
  播但鐵道
 城ノ崎二番發の汽車で京都に向ふ、車は暫時圓山川に添ふてゆく、昨日見た時よりも感じがよい。豊岡から生野あたりまでは、さして目を剞てるやうな場處はない、小さな山が一つく行儀よく並むでゐる、其麓には小流れがあり、村がある、頗る平凡に出來てゐる。播磨路へ入ると、山の形が異なつて來る、花崗石の中國式の山で粗らに松が生えてゐる、繪にならない。
 城ノ崎では日の光を見たが、空模樣は漸く惡くなり、おりおり雨が降る、其鼠色の空に姫路の城が見える、京町口からの眺めは、高さと幅の比例がわるく、實に白鷺の姿を其儘である、近頃改築されたさうだが、いかに白鷺城とは申せ、屋根瓦迄白くしたのは何の理由か分らぬ。
 山陰道から山陽道に移ると、空氣は明るくなる、曾根加古川、あのあたりの用水池や松原や、折からの雨雲は、一刷毛はいたやう、實に日本畫を見るやうな心地だ、明石舞子須磨と、年々變りゆく景色を眺めて、神戸大阪を後に、京の七條に着いたのは夕暮であつた。
  京都
 半月前の雨の日に京を去つて、また雨の日を京に入つた。今年は四條の凉みが無いといふ、車上から見た眺めも淋しい。新門前の知友ケイ君の邸をさして走らせる、門前に圓い顏して立つてゐた君は喜むで迎へられた。
 話はいつもこのあたりの名所舊蹟、さては浮世繪の品さだめ、時のうつるも知らず、戸外の風雨のいつか烈しくなつたのも知らず。
 飽く迄も眠りを貪つて、さて起きて見れば室は暗い、風雨の音が烈しい、ケイ君は湯にゆきませんかといふ、手拭さげてお供をする、京には珍らしい横ぶりの雨を、傘傾けて高瀬川の橋を渡る、濁水は矢よりも早く流れてゐる、やがて風呂屋にゆきつけば、今日は此雨でまだよく湧きませんといふ、上だけ半分熱い湯に入る。
 京で洗湯に入つたのは、十餘年昔し、二條に下宿してゐた頃であつた、眞中に湯船があって、周圍に洗場のある造りは、昔と變らない、たゞ小桶の數が殖えて、其形は大きくなつたやうだ、東京でも此數年來洗湯を知らぬ、自分にとつては、此朝は面白い廻り合せだと思つた。
 應天門通りにエム君を訪ねた。君は廣々とした二階で、頻りに製作して居られる、うるさい東京を去つて、靜かな京都で筆を採らるゝエム君は仕合せだと思つた。敦賀行の汽車の時間は遠慮なく逼つて來るので、染々話もせずに、君の邸を辭した。
  北陸線
 強い雨、烈しい風、低く垂れた雲、琵琶湖畔を通る時は、そのやうな印象を目にした。米原から北へは初めての旅である、この頃よりおりおり日の照らすに、生憎と西の窓は鎧戸に代つて景色が見えない。
 長濱あたりは美しい處だと思つた。虎姫は地震で名高くなつた處、この邊の桑は丈け高きものであつた。中の郷の停車場から余吾の湖が見える、詰らぬらしい。沿道の稻田には、秋の掛稻に用ひた柱が、その儘田の中にあつてうつとうしい。
 柳ヶ瀬の長いトルネルを通ると、笙の川の源流に沿ふて下りになる、狭いあり來りの景色で、くだらぬこと夥しい。
 敦賀に着いたのは三時過であつた。雨がまた降り出したので、町のさまも見えず、俥は一直線に具足屋に引込まれた、明日若狭にゆく俥をたのむ、繪葉書を求めて御無沙汰のお義理をすます。
  早瀬
 快よく晴れた朝を、俥で若狭の早瀬に向つた。敦賀から一里程市野といふ處に聯隊がある、町には松の古木があつて、ものになりさうな處だ。金山を過ると關の峠で、道がよいので俥から下る程ではない。峠は越前と若狭の國境になつてゐる。佐田へ下ると入海がある、港といふ程ではなく、岸をうつ浪は高い、格恰のよい松原がある、更に小さな峠を越えると佐柿の町で、耳川の橋を渡り右に曲ると久々子の村、松原を過ぎ小さな坂を上り切ると、左に久々子の湖水が見え、程なく早瀬に着くのである。
 久々子湖の落口に架つて居る橋を渡ると、觀月亭といふお茶屋がある、旅人宿兼業だ、東京から二三人客が來る筈で、廣い座敷は約束濟といふので、二階の妙な部屋に通される、湖も海も見えて眺望はよいが、朝も夕も日があたりさうだ、郵便局へ用があつてゆくとき、御案内いたしませうと、内藝者とかいふ白首について來られて、少なからず惱ませられた。
 暑いので出かける氣になれない、南の窓から湖畔の家を寫す、白い日除がバタバタしてうるさい。
 夕飯前に濱へ出て見る、遠くは越前の立石崎、近く若狭の黒崎が突出でゝ、海の景色は大きい。早瀬の鼻は勾配急に、其下に漁村がある、濱に沿ふて墓所があり、松原がある、風は無くともよせくる浪の音は高い。
 湖水の口には、網を手にした男が、半身水に浸つて汐を見てゐる、バサリと一網うつて、さて引上ると、五六寸の鯔が何百となく、夕暮の空に白く光る、二たび三たび、腰にした可なり大な魚籃は、魚で一杯になる。
 湖のかなたから、さては海を溯つて、漁船が歸つて來る。若い男が、魚市のたつ相圖に、ベルを振つて村をあるく、橋の袂の市場には、十人二十人と、籠さげた人が集まる、暫時喧★が續いて、やがてひつそりと誰も居なくなる。
 日の暮れ暮れから、橋の上は賑やかになる。村の人は、夕凉に總出するらしく、腰かけやら破れ椅子やら持出される、孫を抱いたお爺さん、團扇を持つたお婆さん、若い衆も子娘も集まる、 行節やら、人の噂やら、引切りなしに喧ましい。
 ランプの下で雜誌を讀むでゐると、『且那さんなにしておいでやす』と、内藝者の小米さんが來てベタリと座る、中洲に姉さんが居るので、東京へ往きたいといふ、顏には白いものを塗つてはあるが、髪の毛から粘つたやうな油の臭氣がする。短かい指の爪には眞黒に垢が溜つてゐる、やり切れないので縁側へ逃げ出す。
 寢床に入つたが、橋の上の話はうるさい程耳につく、下座敷では三味の音がする、十二時過てもお客は退却しない、女共の寢るのは毎日四時か五時頃だといふ、だらしない風俗の場所で、眞面目な旅人は少なからず迷惑する。
 風のない朝、舟を雇つて湖水廻りをした。久々子湖は圍りは二里餘りもあらう、潮入の、底は淺く、水は清くはない。西の岸に沿ふて進む、水の上には小さな木片が浮いてゐる、下には四尺ほどの節を抜いた竹筒があつて、それを引上げては鰻を捕つてゐる、十本に一本も獲物はないといふ。
 西南の一隅を裏見といひ、切通しがあつて、一條の水道は、水月湖に通じてゐる。土橋のあるあたり、巨木が繁つてゐて景色がよい。
 いま迄と異つて、水は水晶のやうに美しい、流を棹さして溯る。
 水道は幅三四間、兩岸數丈の斷壁で、漢詩人の喜びさうな處だ、二三丁にして水月湖、一名中の海へ出る。
  水月湖は周圍三里あまり、久々子、三方、日向と、數ある湖のうちで一番深いさうな。鯉や鮒が澤山居ても捕るすべがないといふ。折から風もなく浪もなく、山の暗い影が水に其儘映つて海岸の湖水とは思はれない、深山のうちにあるやうに覺えた。
 四方を取かこむ山は、何れも姿がよい、さして大きな木は無いが、水際迄も繁つてゐて幽邃の趣がある。舟は湖心を横切つて半島の鼻を西に巡つて、三方湖に入る。
 三方は水月湖より稍小さい、成出の前に小島があり、水は淺く沼のやうに浮草が見える。湖の北岸は、一面に菱が浮むで、小さい白い花が咲いてゐる、岸近くには、幾艘かの小舟があつて菱の實とる乙女のやさしい歌がきこえる、舟をとゞめて寫生したい處が澤山ある。
 半島には桃が多く、春の初めは其花が美はしいといふ、いま紅ゐの實は壘々と實つて、雜木の間に見える。東の方遠く彩壁の光るは三方の町で、鳥濱、生倉など、沿岸の村から幽かな煙りが立つてゐる。
 舟は半島の根元の、狭い水道を抜けて、再び中の海へ出る。柴を束ねて水に侵し、半ば上げて網ですくふのは海老とり舟で、一つ二つ岸の木陰に姿が見える。
 切通で寫生一枚、正午過ぎ元の早瀬へ歸つた。
 早瀬の海岸を南へ廻ると、大師さまとよばれる處がある、大きな赤黄色の岩の上に、松二三本、そこに堂がある、傍に堂寺の家が一軒ある、このあたりは、奇岩狼籍、從つて海水も穩やかで採浴に適する、こゝから久々子にゆく道は、文人畫を見るやうな奇景で、遊人一顧の價のある處だ。早瀬は右に左に可なり畫題に富むでゐる。
 早瀬の對岸笹田を越して、暫らくゆくと海岸へ出る、そこに日向といふ村がある、橋を渡らずに左へ入ると、周圍一里程の日向湖がある、久々子と同じく潮入の湖水で、小さいけれど水は美しい。東の湖岸をゆくと、細い道がある、山の方は、三四尺の石垣の上に人家があり、水の方は二三尺下に物置やら便所やらある、道は湖の形に從つて圓形を畫き、盡きたかと思ふとまた現はれる、高い方の家では、裸體の男女が寢たり起たりしてゐる、ヌツト眞黒な大きな木が道に突出てゐる。低い方には舟があり干した網があり、南瓜や糸瓜の蔓は勝手次第に延びて、家根の上を高く高く、大きな黄色の花を開いてゐる、ブラリと鼻の先に垂れ下つてゐる青々しい實には、暢氣さうに蝉が留まつてゐる、道には鶏が猫に逐はれてけたゝましく啼く、眞紅な蟹がいくつとなく横に這つてゐる、一歩々々、形も色も變化があつて、まるで畫廓の中を通つてゐるやうだ。
 村を離れると暫らく稻田がある、湖は淺く、七八寸もある魚の群れ集まつてゐる姿が明らかに見える、網うつ人釣する人が見たら堪るまい。
 小さな峠を越すと裏見に出る、土橋を渡つて宇波西神社の前を丹後街道に出て、暑いさかりを元の早瀬に歸つた。
 東京から先約のお容さまといふはヂイ某といふ醫師で、二人の連れがある、氏は若狭の人で、常神岬の景色を説くこと詳かに、もう一日滞在して同遊せよと勸められた。氏はまた考古學に趣味深く、刀劍類も愛さるゝさうで、八月十五夜の晩に、奉書紙を一夜戸外に出して置き。それで刀劍類を拭つて置けは、决して匂ひが消えないといふ傳説があると話された。
  敦賀
 早瀬に三晩泊つて敦賀へ歸つた。敦賀は越前に屬してはゐるが昔しは若狭領で、本目峠を界して嶺南嶺北と區別され、嶺北の福井あたりから見ると、萬事が質素であるといふ。敦賀といへばシベリヤ鐵道の連絡上、開港場としても、少しハイカラな處と思つたが、事實は存外開けてゐない、古へから、地勢上京都の感化を受ける事が多く、若い娘は一度は京へ奉公に出すといふ程あつて、言葉や風俗の上にも雅びやかな趣がある。
 敦賀溝は、水深神戸に次いで、日本の港で三とは下らぬと言はれてゐるが、海を北に受けてゐるので、夏はよいが冬は漁業も充分出來ない。三方は山で、其關係か、市中到るところ美しい水が滾々と吹き出してゐる、羨やしいやうた。
 金ヶ崎神社は町の北端にあつて、宮柱も太く神々しい。社の前を過ぎて少しく下ると、鴎ヶ崎とよばれて見晴しのよい處がある、岨道を下ればさゝやかな砂濱に出る、形面白い岩がいくつか海水浴場として適當の場處である、水に遊ぶ人はいつも絶えない。元の道をなほ崖傳ひに、半島の鼻へゆくと、金ヶ崎城趾といふのがある、南北朝の昔を思へば、こゝに薨去したまへる尊良親王のために、誰れか數行の涙を禁じ得やうぞ。
 氣比神社は、町の東にあつて、社殿宏壯、境地廣く、官幣大社としての神威を備えて居る。古への神領地といはれてゐる氣比の松原は、今は單に松原公園とよばれて、町の西に遊容を集めてゐる、こゝも波穏やかに、好箇の海水浴場で、古松の蔭に浴衣をつけた若い人達をよく見かける。
 ある夜、二階の欄に立つてゐると、あまり遠からぬあたりに、太鼓の音や唄の聲、大勢の人の手拍子が連續してきこえる。盂蘭盆はとくに濟むだが、此地では地藏盆とかいふて、今も踊りをやつてゐるときいた、あの山の麓近くと見當をつけて、宿の下駄を借りて往つて見る。
 町へ出ると、少しも音はしない、東へ東へと歩みを運むでとある橋を渡ると、人の往來が稍多くなる、うちまじりてゆくに、長提灯あまた灯して、某寺の門前は賑やつてゐる、門に入ると一本の大きな松を中心として、四五十人の踊り子が、白地の袖を飜へして、輪を畫きつゝ踊つてゐる、足場の上には、聲のよい音頭取りが、何か唄ふと、踊子は一せいに、サッサ、ヨンヤコリヤ、ヤッコヲサノサアと噺し立てて手を叩く、その合間には太皷が入る、見るからに何れも樂しげに、踊りははつむで、入り交り立ち代り、輪は段々に廣くなる、圍りを取まく見物人は、宛も醉えるかのやうに、共に共に手を拍つて景氣をそへてゐる。
 自分は盆踊といふものを初めて見た。繪にかいたしなやかなものでなくて、こゝらあたりの踊りは中々活?だ、元々百姓踊りであるから、優美でないのが本當かも知れない。
 暑い日の午後、敦賀を發つた。數十の人は、この日盛りを遠く停車場迄見送られた、僅か七日の近づきに、別を惜まるゝは嬉しい事だと思つた。
 蒸暑いトンネルも過ぎ、米原で汽車を乘換へ、夜の十時半名古屋についた。一時間の後には、支那忠支店の三階で華胥の國に遊むでゐた。
  名古屋
 朝湯に身を清めて、熱田神社に參詣する。名古屋の停車場前で電車に乗る、車内は東京より狭い、運轉手臺に客が乗つたり、巡査の無賃乘車など、東京の一二年前を思ひ出させる。子を負ふた女が立つてゐたので、席を讓つてやつたら、再三辭退して漸く腰を下した、東京のやうに常然だといふやうな顏をしない、伊藤屋の前で熱田行に乘かへる。本願寺を右に見て、程なく神宮前に電車は停まつた。
 直ぐに境内に入る、側面から入つたので奥深くはない、鳥居の式が他と異つてゐる、棟は丸木なら一文字、角なら反りがあるのが普通であるが、此社は角の棟で反りがない、棟木と柱との比例も少し高日で、釣合はよくないが、此方が森嚴の趣がある、參拜を終つて、眞直にいくつかの鳥居を潜つて表門へ出た、小さな太皷橋もある、大きな石燈籠もある、伊勢神宮のやうに神聖の感は乏しい、これはあまりに町に近い故でもあらう。
 歸途は伊藤屋の前から宿迄、市中を見ながら歩行いた。京都あたりから見ると、活氣があるらしく、よほどキビキビした處がある。『サイガ』だとか『ソーキヤイ』なといふ言葉が耳につく。
 『まぶし』『長やき』と、鰻屋の看板も珍らしい。いまでは東京で見られない眉を剃つた、女房も見た。歩道と車道の界に、指さしした建札があつて、右人道、左車道など、御叮嚀に書いてある。
  中央線
 名古屋を十一時に出た汽車は、二時半ごろ美濃の中津に着いた。
 これ迄平凡であつた景色は、一變してやゝ壯大になつて來た。
 こゝから木曾川を右に見てゆく、坂下を過ぎて信濃の國へ入ると、川は車窓の左になつて、レールは岸近く走り、激流に深潭に絶えず變化ある眺めを縦まゝにすることが出來る。三留野、野尻、須原、上松、福島と、駒ヶ嶽も御嶽も、小野の瀧も王瀧川も、寢さめの床も棧道も、車窓に居ながら明らかに見える。
 木曾街道といへば、昔から風景の美をうたはれた處だ、さて初見参の感じを言へば、兩岸に山あり、中央に水あるといふ、古めかしい、所謂整った景色である、これを佳いといふ人は世間知らずで、また惡いといふ人は、最初にあまり買ひ冠り過ぎた反動であらう。自分の考では、一度は見てよい景色で、それも鹽尻よりせず、名古屋から川を溯るがよく、下りて見ずに、汽車の中から眺めた方がよい。繪になる處も勿論澤山あらうが、あまりに極り切つてゐて、型に陥つたもののほかは出來まいと思はれる。
 それよりも、福島宮の越あたりの、人家の裏に、糸瓜や豆や南瓜や冬瓜など、蔓艸類の、垣といはず、家根といはず、いやが上に茂つて暗くなつてゐるさまが面白い。木曾の建築は、妻も庇も長く出てゐる處に、多少の雅味もあるが、吹けば飛びさうな細い柱は、このクラシツクの景色に添はないやうに思はれる。
 鹽尻で日がくれた。諏訪ではあらかた客が下りてしまつた。甲府からは一時に十餘人の乗客で、長々と寢てゐられなくなつた、四方津といふ新しい停車場では、下り列車を待合す間、思ひがけなくも野生の鈴蟲のなく音をきいた。小佛で夜が明けて、日野あたりは朝霧に包まれてゐた。藁屋根の一八草、高く聳えてゐる欅、廣々した多摩川、そのやうな景色は、木曾に比べて幾段もまさると思つた。車行二十時間餘、飯田町へ着いたのは朝の七時過であつた。
  餘談
 關西の旅でいつも不快を感ずるのは、汽車乗客の不作法や、女が肉體を無遠慮に現はすことだ。京都鐵道では、向ふ側に官吏らしい一家族が乘つてゐた、若狭に海水浴のためゆくのだといふ、細君は初めから腰巻を一寸あまりも裾から出して、引づつてゐてふしだらな樣子であつたが、抱いたゐる小さな兒が、飛上つた拍子に、細君の着物は小供の足に絡まつて跳上り、他人に見すべからざる處を二度三度出して、當人は一向平氣でゐた。
 城ノ崎の宿では、どの部屋の人でも着物をつけてゐない。部屋は多く見通しで、たまたま葭戸があつても、明け放し同樣だ、男の裸體はとに角、若い女が、短かい腰巻一つで食事をしてゐるさまを見ると興がさめる。宿の女中に、行儀のわるい處だねといふたら、『あれはみんな神戸や大阪から來た御客さまです、城ノ崎では人の前で裸體にはなりません』と大に氣を吐いてゐた。
 男はクルッと尻迄捲くつて、太腿毛脛を現はすばかりか、胸をはだける、肌をぬぐ。女は男と同じく、裾をまくし上げて。腰巻一つで座りこむ。これは名古屋以西の汽車の中で、?々見る圖だ。關西の夏は關東のそれよりも暑いのかも知れないが、他人の見る前だけでも少し愼しむで貰ひたい。
 旅の宿で困るのは、電燈の暗いことだ。松江では會社の竸爭とかで、オスラムが用ひてあつた。明るくはあつたが、工事中とかいふて、時々消えるのには驚ろく。敦賀は舊式、併し割に明るい分であらう。こゝの敎育會で、理科の講習がある、電燈の話の材料に、會社にオスラム、タングスチンなど、新しい電球を借りにやつたら、會社は十★の半夜に終夜で、それ切りありませんと答へたさうな。名古屋の電氣はさすがに心持のよい程明るかつた。
 松江の皆美館は、間取りが贅澤で、湖水に臨むでゐる上に、北にも窓があり、次の間中の間と、心地のよい作りだ。こゝの女中は、まづ湯さましでお茶を入れる、一杯飲むのを待つてゐてあとをつぐ、しんみりとした調子で土地の話などをする、何となく親類の家にでも居るやうで、宿屋らしい心持がしない。敦賀の具足屋は、一番よい座敷に居たが、家の位置と建方がよくないので、朝夕に日はあたる、一方はガラスの天井で、晝過などは温室に居るやうで苦しかつた、この分では、いとゞ高い自分の背丈が、更に幾寸か伸びるだらうと思はれた。支那忠の女中は、白足袋をはいてゐた。昔しは失禮だといふて、藝妓は羽織を着ずに冬でも足袋を穿かなかつたさうだ、足袋を穿くのが禮に叶つてゐるのかも知れないが、何となく暑苦しく思はれた。
 美保の關へ上ると直ぐ鯛責だ、膳の何處かに鯛の居ない事はない。松江では、海の魚川魚野菜と、たえず氣を利かしてくれたので、食事も快よくしたが、若狭へ來たら、朝も晝も夜も、味噌汁も向ふづけも二の膳も、どれを見ても鯛ばかりだ。苦狭は鯛の名所だ、その若狭鯛といふのは背に二三本の角のあるので今はとれぬといふ。日本海の鯛の味は、季節にもよるかは知らないが、一たいに旨くない。松江あたりでは一尺位ゐのを、十銭内外で買へるといふ程澤山とれる。あまり鯛に苦しむだので終には梅干を貰つて食事をした。敦賀へ來ても魚は膳を離れない、偶々鷄がついてゐるかと思ふと、肉が剛くつて齒を痛める、今度の旅行程魚類の攻撃に閉口したことはない、それで、歸りに米原で、上等はもうございませんと、赤帽が持つて來てくれた、野菓澤山の十五銭の辨當が馬鹿に旨かつた。
 若狭では、日向をひるがといふてゐる、斷崖に對つて、舩頭はこのがべがと頻りに言ふ、壁の事かも知れない。敦賀女學校の生徒の名札に、家倉、土持、龍溪、鞠山、葉加瀬、酒江、井加田、田畑、大根、北風、壁内、野端、茶島、珠玖、最里、團子などいふ變つた苗字を見た、大下といふのも珍らしい性とされてゐるが、團子などは他の地方にはあるまい。
 敦賀邊の宿屋の箸さしは、刷つてある水引のかけ方が、他の地方と反對だ。饅頭をまん壽と書いて、祝儀にも不祝儀にも用ひるといふ。ある人から貰つた品の包みには、黒紫と白との水引がかゝつてゐた。
 こん度の旅ほど、俥の事故の多い事はない。松江を發つとき、自分の直ぐ前を一臺のゴム輪がゆく、ある川端の細い通りで、忽然と其俥は轉覆した、母衣がかゝてゐるので、髯いかめしき洋服の官人は、どうする事も出來ない、自分を乗せた車夫も魂を消したが、手傳つて俥を起した、原因はあまり澤山荷物を積むだので、革鞄の一つが堕ちた、同時に其上に輪を乘上たので倒れたのであつた、二三本のサイダーが一時に破裂したので、すさまじい勢であつた。
 風雨の朝京都で停車場へ走らす時、松原のあたりで、道の眞中に平氣に跼まつてゐる白犬の尾を輓いた、犬は頓狂な聲を出して飛上つた、何たる間拔な奴だらうと思つてゐると、間抜は犬ばかりではなかつた、狭い町をゆく故でもあらうが、車夫が烈しくベルを鳴らしても、京都の人は一向除けない、特に女が甚しい、道をゆく人の傘といふ傘は、俥の母衣をかすらぬのはない、乗つてゐてもハラハラする。
  若狭から敦賀へ歸る時、坂尻の峠で、下り坂を、猫の子が一疋大道に寢てゐる、人のよい車夫は、さすがに轍にはかけなかつたが、力を極めて蹴飛ばした、猫は驚いてよろけながら、家の中へ走り込むだ。
 敦賀で氣比神社へゆく時、停車場の方から外國人を乘せた俥が二三輛續いて來た、道路には五つ六つばかりの二人の子か遊むでゐたが、何と思ふてか、其うちの一人は、突然俥の方へ駈けて往つて、車夫が慌てゝ停める間もなく、後ろざまに倒れた。
 幸に大した怪我も無かつたらしいが、車夫には罪はない、何故に子供が俥に向つて走つたか、此心理作用は自分には分らない。
 名古屋から中央線に乗つた三人の客がある。四十五六の男、それは洋服を着てはゐるが、どう見ても洋服に馴れない人だ、また似合ぬ人だ、木樵、炭燒、杣人といふやうな風貌を備へてゐる。妻君らしい同年輩の肥つた女は、よい着物はつけてゐるが是も二等室にふさはしくはない。他の一人は平凡な若い男で、香りの高い果物の多くを持込むだ。
 昏々と眠つてゐて、一向話がない、そのうちに汽車は坂下へ着いた、『まア大かくなつたなア』と女の聲で呼ばれたとき、七ッばかりの娘が、叔父さんといふ人に送られて車室に入つた『おみやげが澤山あるぞよ』と頻りに娘の御機嫌をとつてゐる、娘は少しハニカミ氣味で默つてゐる、洋服男の眼も異樣に光る、涙であらう。叔父さんが來たのでボツボツ話が出る、三四年前夫婦で臺灣へ往つて、何かて成功して、いま歸つて來たのらしい、洋服のそぐはぬ譯も分つた。娘のハニカム譯も分つた。須原へ來るとまた三四人乗る、『お目出たう』といふ、夫婦は心から嬉しさうな顏をする、『徃く時はあの道を藁鞋で歩行いたが、いつの間にか汽車が出來た、夢のやうだ』と語る。木曾山中から臺灣へ往つて成功したのなら、林業でもあらうか、短篇小説が一つ出來さうだ。此人達は次の上松で下りてしまつた、荷物が澤山あるが、荷車を持つて來てくれたかと、出迎の人にきいてゐた。
 此度の旅行で、厭はしいトンネルを潜つたことは大小百五六十そのうちの四五十は中央線で、しかも名古屋から福島あたり迄は、上りの故か、機關車から吐出す石炭殻が車室に吹込むこと甚しい、五分十分置には、座席を掃除しなければ座つてゐられない、トンネルと煤煙に苦しめられて、漸く夜の眠りに就いたのは二三時問、甲府から多數の乗客に身動きも出來なくなつた、其甲府から乘つた客の中に、請負師らしい洋服男がある、若い娘二人、小さな男の子を連れてゐた。八王子で別に客車がついたので、少しはラクになつた、二人の娘と男の子は、横になつてよく眠つた、漸く新宿近くに來て、目をさまして見ると洋服男が居ない、他の客の話では、何でも八王寺あたりから見えないから、用達があつてか、それ共便所へも往つて乗遲れたかしたのであらうといふ、三人の切符はその叔父さんが持つてゐる叔父さんはまた、自分の靴を脱いて、小さい方の娘のゴム草履を穿いて往つてしまつた、飯田町で次の列車を待つとしても、履物に困まる、三人は泣き出しさうに、しかも苦しい笑を洩してゐる、男の子は叔父さんの残して置た靴を素足にはく、もしあまりゆるければ、右と左と取かいたらよからうなど、まぜ返す人もある、女の子は男の子の薩摩下駄を穿かねばならぬ事になつて、かうして下車の用意の萬端整つた時、汽車は新宿に着いて、叔父さんはシヨツクリ入つて來た、そして此有樣を見て笑ひこけてゐる、どうしたのかと聞くと、あまり混み合ふから新きに着いた車で今迄寢てゐたのだといふ、このコメデーは、車内一同の喝采を買つた。
 最初舞鶴から宮津へ往つて、橋立の勝を見る計畫が、天候のために破れた。歸りに和田山から建築到車に便乘し、福知山に出で再び舞鶴に往くつもりが、建築列車が丁度運轉せぬ折で、此企も行へなかつた。天の橋立の勝は、日本三景として、他の松島宮島に勝るといふ説が多い、自分は親しくそれを比較する機會を得なかつたのを殘念に思ふ、いま友人京夢君が、つひ此頃、同地に遊ばれた通信を得たから、其一節を録して此稿の結尾とする。
  (前略)天の橋立から有馬へかけて僅か三日の旅、いかにも忙 しないもので、悠々と繪畫趣味俳詩的の旅情を味はふにはあ まりに短かく心せはしくありました。それでも初秋の季節で はあり、舞鶴から俥で由良川に沿ふて、山も野も青い中をゆく心地は、私にとりては此上もない慰藉でした。西日を背に影になつた崕に、芒が葛ともつれながら風に撓はむさま、路の埃をうけながら、野菊や露くさが徒來から靑田をかけてそこともなく、吹き亂れてゐる風情は、京都にばかり居ては見られませむ、人に語られぬ心のうちの、ある淡い哀愁が、これ等の對象で深い深い同情を得たやうに覺えました。山合から宮津の或る入海を見下したころは、既に日の蔭は全く消えて、水面には天の橋立が、それかとばかり朧ろに見られたまでゞ、宮津へ着かぬ先にどつぷりと暮れて、星明りに茅蜩の聲が高く殘ってゐました。宿は何處も彼處も避暑客で一ぱい、とうとう切戸の文珠迄往つて、怪しげな旅館に泊めて貰ひました。船つきによくある石の常夜燈、繪に見るやうな風情ある松一寸した廣地を挾むで、旅館が向合て水に臨むでゐました。
 翌朝は、天橋の松の間から、華々しく昇る旭の景色を蚊帳こしに寝ながら眺めた時は、よい心持でした。切戸の渡しを越えて天橋に入ると、松原は割合に平凡で松も舞子のやうに風情ある老木はありません、併し天橋が盡きて、成相山の中腹まで登つて、一本松の茶店から眺下する展望は、さすが名に響いた奇勝で、宮島などに比して遙かに見こたへがありました。この日は稀に見る靜平な日和で、天橋の松が、 一つ一つ鮮やかに水面に影を堕してゐました、かういふ事は、極く稀れな現象ださうです。歸りは汽船で、舞鶴迄心地よい航海をしました。(下略) (完)

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