講習會雜感

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第八十
明治44年10月3日

△講習會で初めて正則に繪畫を學ぶ方法を知つたといふ人に澤山逢つた。それ等の人達は、是迄獨習でやつてゐたのであるが、どんな間違ひを爲てゐたらう。
△靜物を畫かして見ると、物を主觀で見るために、いつも正しい形が紙上に再現されない。半面に置かれてゐるものを立體同樣に畫く、腰をかけて見てゐながら起立してさへ見えない程平面の部分を廣く畫く、高さと幅などの比例は平氣で問違へてゐる。目的物を廣い畫面の眞中にチョボンと小さく畫きたがる。書物なり西瓜なりを寫せばよいのにそれを載せてある机からバックの布の上の壁迄も取入れたがる。モデル刃二一尺も離れてゐる布の皺を二三寸の近くへ無意味に持つて來る。
△戸外の寫生になると一層甚しい。透視畫法は少しく注意すればたとへ其智識が無くとも大して間違ふ筈のものてはないが、其注意が足りない。水平線とさへいはれゐ一文字の海を、半島でもあると妙な勾配をつけて、結局海を凸形のものにしてしまう。自分が水面二三尺の砂の上で寫生してゐながら、前の濱に居る人物を水平線よりグツト下の方へやつて、松の木の上からでも見たやうな添景人物を畫いてゐる。
△鉛筆畫の素養のない人になると、テンデ濃溪の調子といふことが分らない。淡く霞むてゐる山も近景にある松の葉の色と同じに見えるかして、眞黒★と塗つてしまう。さうかと思ふと、直ぐ前を歩行いてゐる添景人物は、淡きに過ぎて透明體に、あるか無しかに畫いてある。
△色彩の着け方を見るに、其多くはいかにも弱々しくイヂケてゐる、小さな柔らかな筆に少しばかり淡い繪具をつけて、チヨコチヨコと幾度も一つ處をなぶつてゐる。何故一思ひにグツト一遍にやつてしまはないのだらうと★痒くなる。筆をとつてチユーブから半分も一時に繪具を押出して、それを一筆につけて畫面へ持つて往つて畫いて見せると、目を圓くして見てゐる。
△大膽といふ事は自信が無ければ出來ない、初學の人にそれを望むのは無理であるが、あまり小心翼々にも困つたもので、少しは延びた筆も使はなくてはいけぬ。
△描き方がコセついてゐるので、從つて繪具の發色が極めて惡しく、出來上つた繪は甚しくドライにて水つぽい處が無い。色も死むでしまうから、畫いたモデルも勢のない干乾びたものになる。
△常に肉筆を見ないためか、叉は臨本の癖でもついたのか、松はどの色、空はどの色と、必ず極めて使つてゐる人がある。自然を前に置きながら座敷で想像で畫くのと同じやうな仕事をしてゐる。これ等の人には其慣用の繪具を繪具箱から取去るべく命じた。
△假令は緑を作るにインヂゴとある黄といつも極めてゐる人がある、其人の手からインヂゴを取去つたなら、他の藍を用研なければならない。何を合したらよからうかと、其時更に寫すべき緑を見直す、從つて研究もする、それによつて正しい自然の色彩を寫すことが出來やう。これは緑に限らない、蔭の色など兎角ある一定の色に極まりたがるものだから、このやうなる手段によつて、いつも新しい目で自然を見るやうにしたらよい。
△最後に道具の不完全な事で、安繪具のコチコチになつたのも困るが、五銭の澱粉入チユーブ同點張てもよい繪は出來ないに極まつてゐる。中には其色數さへも揃つてゐず、肝心のコバルトやインヂゴやエロオークルなど持つてゐない人もある。筆は小さ過き、且軟か過ぎる、これでは思ひ切つて繪具の着けられないのも無理はない。
△要するに、前に述べたやうな情態の人も地方には少なくあるまいと思ふ、それ等の諸君は、自ら省みて物の見方を親切にし、着色を大膽にし、いつも部分に拘泥せず畫の全體に目を配つて、延びやかなラクな氣持のよい繪を造る事を心掛けられたい。

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