敦賀の所感

長谷川利行
『みづゑ』第八十
明治44年10月3日

 幼い時敦賀で兩親と一年程生活したといふ、しかし私にはそんな記憶はさらさらない。
 畫を描く人の幸福は、敦賀の町と敦賀の海と懷かしい海のトレモロを聞くことを、北國のローカルカラーを景色の曲線美と色彩に富めることを賞美措く能はすであらう、事實は平面でない立體、圓錐形の三角術によならずとも敦賀は實に飮用水の清らなる丈でも私は充分である、何かそこに充實したものを捉へた氣分に生きて居る、斯く言ふは夏季水彩畫の講習へ一週間出席した趣味性の靑年であるに相違ない。
 水彩畫の講習の成蹟はどうであらうと、私には敦賀の風景畫を讃美せずには居られない、私にデッサンを充分ならしめよ、おまへには必と握手してやると再會を約束したのである、自然に忠實であるはづの私に少くとも繪筆を持つことのいま少しく親しみたく思ひ到つた、未熟な畫生はいたづらに奔走するよりも繪畫の根本的研究をやり、色彩を離れて自然の肖像を畫き。とる丈の素養を養成して置きたく切に思つた。アマチユアで結構凡人畫工て結構、或はペンキ屋の畫工でもよい、私には尊重すべき品性問題より割考した水彩畫そのものに愛着やみがたい、憧がれ人の文明の恩浴をもの新らしく知覺したのである。
 講習生の合宿所にはさまざまの自然の造詣者、自然の肖像畫をかく滑稽に高める人、風釆すでに脱俗な人、寡默の人、よく喋る人の十人十色の珍物畫を構成製作にワカゲンといふ家根の下に大家氣取に寢たり起きたりして氣隨氣儘に繪筆を握つて振つて居た、髯の人には眼鏡がない、眼鏡の人には頭髪のふさふさしいのがないけれども、何にも不足はない趣味性の充實した品性の人こそのぞましけれである。
  合宿所の姉さんには愛嬌があつたごとく、敦賀の町の女にはデリゲートな表情に富めるのが多かつた、殊にテンジンサンの一夜は北國の海のトレモロと、いつの日か溺死の女と、白粉やけのした年增の藝者と思はしめる、あの凄い感じのする夕昏の彩調たは私の心が捉はれてローマンスにならうとする。
 文明の期待に背かず敦賀の町の夜も電氣の光に明るい透明色の氣分を感覺せしめる、そこには不思議な夢と、奇怪と多くの物語が神秘的に人に言はれぬ秘密もあるらだう、飢えた眞黒な犬が海岸通りをとぼとぼと辿つて行くやに、侘しい謎の世界もあるだらう。
 ボーボーと鳴る汽笛に大きい黒船は敦賀灣のコバルトにレモンを常に含味した海の彩調の上を靜かに滑走してとまる、浦鹽通沿であらう、眞晝の靜寂を破った汽笛に眼を駑かして金ヶ崎の域跡に展望すれば、さまざまの色と匂ひを齎らしてくるのである。金ヶ崎には巖壁自然松の配合水射の濕り、とりどりに自然はしつと四季の着物を華美ならしめ、寳石たらしめる。自然の肖像は寳石なりとは大下先生の講話の一節なり、まことに自然は寳石たらしめずして、瓦石に等しいものであつたらば案外つまらぬものだと思ふ。
 金ヶ崎の頂上に月見亭あり、四十二年皇太子御台臨の場所として風景は開展して、靜かなる眞晝の暑き海景の一日なれば、波の動揺は白くくづれて沖は眞帆片帆、コバルト、オリブの穏い山よりかけて近景の緑岩、此方には岩のくづれの華色の温味、水のさわり、ふと彼方の陰より白鳥の羽音なくスート飜へれば近代人は夢より自分を見出すに相違ない。
  パツーヨンの強い私には、赤き船腹の鐵錆をそぎとる幾多の女のカンカンと響く眞晝の一時間だけでも強烈な太陽の直射のもとにはよくも眩暈せないことだと、人生の死を極端に思はしめる、女の死骸と鴎の死骸といふことは南國の悲哀であつたごとく、夏の日本海岸の赤き印象を思ふのである、死に件ふ赤き印象のフエースは忘れられぬ事實の話柄となるであらう。
 敦賀の色彩と私の感じはブランピンクの慣用色を誇ることが出來ない哀感であつだらう、近代人の色彩にたとひ個人主義が伴ふとも過激なパツシヨンはあるはづた。敦賀の町には洋舘めいた建築と外國の氣分全失して居ることは裏日本のローカルカラーであらう。舶來な化粧品は少く共、地肌の白い女は多くあらう、文明の進歩に伴ふ風土の關係は文明の學者が考究して居るが敦賀の人情は風土の關係上大差は無からう、比較的田舎ぢみて物事に穏健の處置をとつて居ると思ふ。塵埃の多い町には私等の健康状態を侵害しやうとしたが、朝夕の寒暖計の狂ひに皮膚を犯されやうとしたが、敦賀の清らなる水は永久私等の心持を透明の固體として安全ならしめたのであつた。(八月二十八日朝)

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