みづゑは廢刊を取り消して繼續發刊いたします
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日
明治三十八年七月に「みづゑ」第一號が發行されてから、年を閲すること六、號を累ぬること八十に達しました、一般人に、西洋畫に水彩畫があるといふことを敎へ、水彩畫はかうして描くものであることを敎へ、兼てこの畫に對する趣味を、汎く世間に普及したことに就ては、勿論二三の人や、雜誌の限られた力に、歸すことは出來ませんが、故大下藤次郎氏と「みづゑ」雜誌とは、幾分の分け前を請求し得られる地位に立つて居ると信じます、その「みづゑ」は、大下氏が「みづゑの發行は私の道樂に過ぎない」一面には「自分の面白づくでやるのである」と明言せられてゐたのでしたから、大下氏の存在が無くなれば、その人が道樂と面白づくとでやつてゐる事業も、亦随つて消滅するのは、自然の數とも言はれませう、その大下氏は死にました。
のみならず、「みづゑ」の編輯と、それに件ふ事務とは、至つて繁瑣なもので、大下氏と略ぽ同じ性情の水彩畫家でなければ「みづゑ」は水彩畫の雜誌ですから、編輯者に水彩畫家たる資格を要するのは勿論です到底堪へ得られないことで、さういふ人は、至つて少ないのであらうと存じます、假令あつても、大下氏とは異なつた形式で行くことでありませうから、現在のまゝで、「みづゑ」を繼承して行くことは出來ますまい、要するに「みづゑ」は、大下氏と始終する運命を持つてゐたやうに思はれます、その大下氏は死にました。‥‥‥‥しかも實に突然のことでした、あのくらゐ綿密な人でしたが、遺言どころでは無かつたのです、家族は勿論、同氏を中心にして圍繞してゐる若い人々も、一時は途方にくれました、外のことは今申しませむ、さしづめ「みづゑ」をどうするかといふ問題が、葬儀の當日、少數の友人の間に、故人の畫室で開かれました。
協議の結果は、要するに「みづゑ」の適常なる經營者が得られないこと、なまじひの人を頼んで、をかしなものを拵へては、却つて故人の本意に背きはしまひかといふこと、中心人物たる大下氏の逝去と共に「みづゑ」の賣れ行きが減じて、結局大下家に損耗をかける心配もあること等、及び其他の理由も附加されて、廢刊と決し、最後の巻として、故人のために紀念號を出すことに話が纒まつて、その通知やら寄稿の懇願やらで、手配りをしました。
幕の下りかゝるとき、蒼い光線に照らされて、舞臺から消えて行く最後の役者として、この紀念號が出るつもりでゐました、さうして觀客から惜しまれつゝ、併しながら濕めやかに喝采されて滅亡する、「みづみ」の悲哀なる光榮をも、私は想像してゐました。
實を言ひますと、「みづゑ」は經營の困難なる美術雜誌の中では、先づ異常なる發達を遂げたもので、故人の死後、帳簿や書類を検閲して見ますと、近頃は増刷するにも拘はらず、賣り切れて居ります、賣り切れて後も注文が可なりまゐります、さうして初號に比べると、二倍強の發行部數に達してゐます、それを今廢刊するのは、折角積み上げられた紀念塔を、氣短かに叩き潰すやうな氣も致して、惜しいことは實に惜しかつたのです。
併しやる人がありませんから、廢刊に決めました、故人が、これからの「みづゑ」に挿入するために、丹精して刷らせて置いた、價約百圓はかりの水彩原色版畫も、他に使ひ途が無い限り、忍んで廢棄するつもりでゐました。
廢刊のことが、世間に公けにされると、「みづゑ」の愛讀者、故人の友人、又は未知の人々、或る門下生から、忠告や、献言や、叉は多くの書状が到着しました、「みづゑ」の歴史のために惜しみ、所謂研究の伴侶を失ふために悲しみ、或はあまり思ひ切りのよすぎるのを怨み、或は此機會を利用して、模倣的商賣人雜誌が出現して、故人の遺業を踏みつける虞れがあるのを氣遣ひ、或は一地方から悔やみに行く人に縋つて、是非廢刊されないやうに盡力をしてくれと、頼んでまゐります、その熱心と懇切とには、遺族は勿論、事に携はつてゐる友人をも、動かしました。
故人は、一面は道樂と面白づくでやつたことにもせよ、それが室内個人の事でなく、「衆と與に樂しむ」といふ性質の藝術に附随した仕事であつたために、「みづゑ」は確に一部の人の内部生活と、いつの間にか、切つても切れぬ交渉を有つて來てゐるのでありました、朔して故人も主なる目的としては、やはり水彩書の發展、趣昧の普及にあることは「みづゑ」巻頭で明記して居るのです、もうかうなると、自分たちの都合ばかりで、手輕く廢滅するわけにはまゐらなくなりました。
併し大下氏が、甞てあつたやうに、中心となつてやる人は、やはり有りませむ、がともかく、友人や門生たちで、編輯の方を受け持ち、「みづゑ」の經營を、大下家の事業としてやることになりました、諸先輩が「みづゑ」のために、講話や寄稿を御承諾下されたことは、何よりの悦びです。
故人は死んでも、故人の遺業は、守り立てゝ下さるやうに、同情ある皆さまに御願ひします、大下氏は一面から言へば、日本の水彩畫のために、犠牲になられた人です、この上「みづゑ」のために、大下家の寡婦と孤兒とをまで、更に犠牲にするやうなことにならないことを望みます、叉我々も、そのために、最善の力を盡くすつもりで居ります。 (故人の忠實なる友人、紀念號の編輯人某、記)