水彩畫獨立展覽會に就て

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎遺稿
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日

 日本水彩畫會研究所は、創立日淺きに關はらず、學生の眞面目な研究は、毎月開かるゝ月次會に現はれて、今や世間に示して耻しからぬものも、多く出るやうになつた、その結果、これ等の製作を公に示す機關が、必要になつて來た、これは單に研究所の成績を、發表すると云ふ意味ばかりでなく、學生自身の技術奬勵の上に頗る有益なる結果を齎らすからである、即ち研究所は、獨立展覽會開催の期に達したのである、研究所學生の作品は、過去三四年間、日本水彩畫會と、關係最も厚き太平洋畫會展覽會に出品して、共水彩畫の部に、光彩を放つてゐたことは、世人の既に知る處である、將來と雖も、同會の一部に研究所よりも、出品の陳列を請ふ筈である、併し太平洋畫會は、會員の努力と、其研究所生徒の勉強とによつて、年々製作の數の增加せらるゝ上に、一般希望者の出品を拒まぬ方針であるから、白馬會なき今日では、展覽會期には、驚くべき多數を受付ける、加ふるに洋風彫刻は、年を趁ふて勃興し、既に本年の如きは、水彩畫室は、昨年に比して四分の一を狭めらるるの止むなきに至つたのであつた、一方水彩畫會研究所學生の作は、漸次其數を增すのであるから、更に太平洋畫會以外に、其成績を發表する會場を、求めなければならない、即ち研究所は、獨立展覧會開催の期に達したのである、
 現今の如き、水彩畫の發達せる吾國に、毎年一回位ひ、水彩畫のみの展覽會は有つても、よい事と思ふ、否無くてはならぬやうに思ふ、この事は、水彩畫を描く某々氏等と、相逢ふ毎に、いつも話題に上る問題である、これらの諸氏は、日本水彩畫會にして、奮つて、水彩畫展覽會を開くならば、ただに其製作を出品するのみでなく、應分の力も、盡さうと言はれる、太平洋畫會といはず、白馬會と云はず、苟くも水彩畫筆を執らるゝ人々は勿論、大に賛成して、聲援を與へらるゝことを信ずる、研究所は、獨立展覽會開催の期に達したのである。
 併し水彩畫展覽會は、吾々水彩畫家、又は既に名を成した人々の、水彩畫を陳列して、世に示さうといふのが第一の目的では無く、寧ろ研究學生のために、將來の壇場として、提供さるゝものであるから、學生にして、自分達のものとの考で、充分盡力周旋してやるのでなければ、成立せぬ、私達はたゞ多年の經驗上、展覽會開催に對する諸般の事務や、方法の上に、顧問となり、参考人となつて、相談に預るのであつて、采配を振って、先頭に立つことは、種々の理由から、爲したくないのである、それで學生問に、どれ程の希望と決心とが、在るかを知らうが爲めに、此夜研究所に於て、重なる人々を集めて、相談會を開いた、其結果ほぼ左の如き約束が出來た。
  一、 水彩畫展覽會は、四十五年九月、上野竹迺臺陳列館に開くこと。
  一、 展覽會の事務、其他は、水彩畫研究所學生に於て、責任を以て、各自分擔する事。
  一、 學生は毎月勉強して、製作を續け、月次會に於ける優秀なる作品は、展覽會出品のため、堅く保存し置 くこと、
 以上の如くである、展覽會を開くといふことは、容易の如くにして、實は種々なる困難がある、會場は來年適當の時期に借受けやうといふのには、今から申込まなければならない、次は可なり費用を要するから、入場料のみでは、收支が償はぬものと見なければならない、それ故、會計だけは、私達の方で辨償をなし學生連には迷惑をかけぬ筈である。
 水彩畫展覽會――私共の多年の希望は、永く達せらるゝ時機が到達した、冀くは最も清新な最も趣味深き展覽會を開いて、藝苑に一掬の涼味を注ぎたきものである。(六月十日)

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