湖沼研究者の見たる大下先生の水彩畫
子爵 田中阿歌麻呂
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日
私が、大下先生を知つたのは、今を去ること三四年前、山岳會の關係であつて、其交際の年月は、誠に短かいのであります。且つ私は美術の事に就ては、門外漢であるから、先生のお作に就ても、批評する資格は無論ない。
然し、先生の主なる事業は、水彩畫であつて、而かも靜かなる水を愛せられた。そして最近數年間に於て、遍ねく本邦山間の湖沼に親まれて、其の靜かなる水の姿をカンバスにとゞめられたやうである。斯く先生は、藝術の方面からして、湖沼を觀察せられた人であるが、私は叉、地理學上或は湖沼學上より十數年來、本邦の湖沼を研究して居るものであります。其着眼點は、各★異にするかも知れぬが、先生の作を、私ども美術の門外漢の眼より見ても、其觀察が眞に迫つてゐて、素人の眼で見ては、到底分らぬ點にまで、細かく行届いて居るのであります。實に吾々湖沼研究者の、好標本としても、差★えないのであります。――此程、文部省開催の美術展覽會へ行きましたが、其の水彩畫陳列室の一隅に先生の遺作の「柳」と題したのがありました。靜かなる水を湛えた沼のほとりに、茂つた柳を描いたものであつて、如何にも其時節の、沼の水色や、氣分情調がよく現はれて居ります。これを專門の人の眼から見たならば、叉それぞれ批評もありませうが、湖畔の状況といひ、殊に水際の植物の生態から申しても、吾々科學上からして、湖沼を研究して居る者の眼より見ても、毫も間然するところがないのであります。
且つ私は、この畫に對して先生、生前の面影を思ひ浮べずには居られなかつたのであります。今も申した通り、先生に往復をしたのは、極めて短かい間の★★でありますから、先生の性行等に就ては、詳しく知ることもありませんが、いつも先生から受けた印象は、寡言沈默で、それで居て、どこか深い情熱を湛えて居られるやうなところがありました。それがよく先生のお作にも、現はれて居るやうである。そして趣めて謙遜で、少しも自己を吹聴されるやうなところが、ありませんでした。先生が多年洋行せられて居る事も、私は先日初めて、新聞で知つたやうな次第です。
叉、先生は極めて筆の早い方であつたらしい。私が或時、諏訪湖の御渡の畫を依頼すると、如何にも、無雜作に請合つて行かれたやうであつたが、其明くる朝、まだ繪の具の滴るやうなのを届けられたには、驚きました。
而かも一點の非難すべき箇所もないのです。御渡の印せられた水の湖に、夕日の赤く反映してる具合が、如何にも妙を極めてゐる。この繪は、私が數年間諏訪湖に就て、研究した結果を纒めて、此頃一册にして公にしようとするものゝ中に、挿入する積りのものであります。
其繪は、漸く此頃印刷が出來て參りましたが、これに對して誠に感慨の深いものがあります。而も印刷の際には、先生の嚴密なる校訂を願う筈になつてゐたのであるが、何分急に逝かれたので惘然として居るやうな始末です。私は我が國の湖沼學上から、此の美術家を失なつたことを、くれぐれも、歎ずる次第であります。