水彩畫の教育家
中村不折
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日
大下君は、畫も旨かつたけれども、夫よりか、繪の敎育に大變骨を折られて、そして其方で現はれて居ることは、誰でも知つて居ることで、今更我々め喋々を要さぬ、然し世には共敎育と云ふことを利用して、自分の野心を充たすことに汲々として居る人も澤山にある、そして彼方此方、地方へ出て講習などやつて居るのと、自分の家の金庫を充たすと云ふことが、目的であつて、美術の普及とか、斯道の爲とか云ふ樣な人が少ない、大下君は性質が淡泊で、度量が廣く、夫で人と爭ふたと云ふことがない、誰に對しても春風の吹いて居る樣な、温乎として、玉の如しとでも形容すべき風釆であつた、美術、取り分け水彩畫の敎育には非常に趣味を持つて居つた、殆ど先天的とでも云ふ有樣であつて、日本國中を驅け廻つて歩いて、有志の青年を集めて、講習をしたり、雜誌を發行して、夫れ等の人々の便宜を謀ったり、研究所を建てゝ、子弟の養成に盡力したのである。到頭そー云ふことに盡力して居る内に、病を得て、倒れて仕舞つた、これは云はゞ軍人が戰死したと同じ事であろー、夫で平素大下君が、そー云ふことに奔走せられて居ることは、我々の樣な、不精な、自分の好きな畫計りかいて居つて、子弟の敎育なんかを、度外視して居る身では、常々大下君の行動を見て、愧ぢて居たのである、其最後を見て、一層尊敬の念を增したのである。
雜誌「みづゑ」も、本號を以て終りとするそーであるが、僕は誰か後繼者を得て、永續させたい希望である、然し目下の事情、夫が出來ずとすれは、一時休刊して、外に丸山君が歸られた上か、叉は誰か特志の人が出て、其跡を繼がれんことを切望に堪えぬのである。