藝界の最新思潮者

戸張孤雁トバリコガン(1882-1927) 作者一覧へ

戸張孤雁
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日

 大下氏の死は、餘りに突然なので、今が今まで、自分の物だと確く信じて、大切にして居た或るものを、急に他から持主が現れ、アッケニとられてなす事を知らぬ間に、さつさと見返りもせず、夫れを取つて行かれて仕舞た様で、私の心の調子は亂れて、今尚ほ如何して善いのか、自分ながら解り兼て居る次第であります。せめて私の感じた氏の印象を、新聞にでも書いて後世先生を研究なさる人の、一助にもしたいと考へて居るのですが、心の調子が整はないので、未だそれにも手を付けずに居りました、處が春鳥會から雜誌「みづゑ」も先生の逝去なされたと共に、廢刊になる、就ては最終記念號原稿〆切に間に合ふ樣、何か書けとの通知兼御命令がありました、大下氏の記念號、夫れに加へて今迄しばしば稿を寄せた永きなじみの雜誌の最終號、私は私の心が整はぬとて、此儘に過すのは云ひしれぬ哀しみの上に、尚一層心に痛みを覺えますのでせめて、一言でもと思つて筆を探る事と致しました、萬一故人に、其の他の方々に、失禮に當る點が御座いましたなら、未だ私の心の調子が整はぬ故と、御許し下さる樣、始めにお願ひ致して置きます。
 氏は洋畫趣味布及に預つて、力ある人なると共に、日本美術復興の先驅者で、明治美術界の恩人であると云ふ事は、誰も異存はない事と私は信じて居ります、美術趣味の布及は、一面美術の發達に、力ある事も、今更私が申上げる迄もない事と存じます。叉美術の復興者であると云ふ事も、維新常時の美術の、哀れむ可き有様と、今日とを比較なされるならば私が説明するまでもない事と存じます、然し之れ等の事は、他の御方がお書き下さる事と思つて、私は題名の通り、氏は美術界に於ける最新の思潮を有せられた方だと、云ふ事に就て、少し述べて見度いと思ひます。
 氏が美術趣味布及に力を盡しなすつてから、未だ幾歳でもない、然るに今日の盛隆、恐らく氏御自身すら、自己の力の、餘りに大きかつたのに驚かれて居られた事であつたらうと存じます。何事にても、急足の進歩には、必ず伴ふ分子が御座います、夫れは蔽害と申す物で、美術も又御多分に洩れず叉之に伴ふて之れが年々甚だしくなる樣で御座います。之れに就ては、尚ほ一層、眞面目の氏の御力を要するの時、未だ青年期にあつて、おなくなりになつたのは、たゞ私一個人として、而巳ならず、我が美術界にとつて、何程の不幸で、御座いませう。
 他國で畫のいろはから習つた私は、歸國した時、日本に一人の知己が美術家にありませんでした、其の上、私は不幸にして病氣勝に、くらして居る爲め、人樣を訪問する機會が、極めて少ないので、中には高慢であるかの樣に誤解なすつて、居る方もある様なわけで、大下氏は、私のいとぞ少ない知人の内の、一人でもあり、叉歸朝後、第三人目の親づきの方で御座いました、そして私は先年親友碌山を失ひ、今叉先生に捨てられたのでお座います、神ありと云ふなれば私は實に、神を呪はずに居られないのであります。之れにつけても、御遺族の御心は、推察して尚ほ餘りある次第で御座います。(以上は御遺族の方に)
 始めて大下氏にお目にかゝつたのは、早稻田一圓見晴しの、目白坂のお宅で、床の間の中央には、海景水彩畫の小さい額を懸け、袋に覆はれた琴は其の右に、床の上には、作り物の果物が籠に山と盛飾られてありました。凡そ二時間も、お邪魔を致しました、其の間氏は端然と坐して、膝をくづされる樣な事は、一寸もなく、私は先づ始めに嚴格な方とお見受しました、然し決して決して肩のこる樣な堅くるしい方でなく、何となくなつかしく、初めから舊知の人と語つた樣な、愉快を心に抱いて私は歸りました。
 第二回目には、半日以上も、御邪魔をして歸る樣な次第で、之れを以ても、氏の大凡は、私の述べる迄もなく、御わかりの事と思ひます。
 其の後度々お目にかゝりましたが、多く水彩畫研究所の方でした。
 私達が例會に行くと、氏は必ず私達にも、批評せよとて命ぜられ、批評後には、何か講演をと又云はれるのが例でした。
 近來、世人中に氏を誤解して、恰もクラシック保守黨の如くに云ふて居る人があり、而か信じて居る人もある様です、私はこれ等の人に向つて、左樣でなかつた事を證明し度いと思ひます、然し私とて、氏の製作に、クラシツク趣味の、皆無と云ふ事を斷言する者ではありません、もし其處にクラシツク保守趣昧のあるとすれば、その理由を證明し度いのです。
 維新の際、全く地に墜ち、一度は何人にも顧られず、橋本雅邦が扇子の畫をかき、玉章が安圖按をする程に、藝術趣味の荒廢した、それを復興するには成る可く解り易き物を、示す必要を認めたからです。
 夫れにはクラシツクを引さげ、切まくるの得策である事を、觀破され、それを武器とされたのです、歐洲の復興も(動機は別であるが)クラシックを、引さげたる事は、同一であります。
 大下氏の盡された美術の復興は、成功し、今や漸く盛となり、尤も保守主義の政府まで、形式丈とは云へ、手を出すと云ふ時となり、そして一面には、確實の藝術が起りかけて來たと云ふ樣なわけで、一先づ目的を達したのであります、氏の立脚地は、恰も今復興の戰場から凱歌を奏して引上げたと云ふ所で、まだ家に上らない格です、そして印象派や、其の他藝術の新思想は云はゞ出陣の留守の間に生れた幼兒で、未だ親子の名乗りをする間がないと同じでせう。
 若し同氏が、家に上り、戰衣を脱ぎつくろへば、他のクラシックの畫家、頑固な父親が、子供の心に共鳴する事が出來ず、頭から或大家の如く、何れがどうとも見きはめもしないで、「個人としては兎に角、研究所生徒としては」なんぞと云つて、叱り飛ばす樣な人ではなく、子供の心をも酌み得る人でした、同氏は同氏と立場の違ふ(便宜の爲め斯く云ふ)人々を招き、自分の主宰の研究所生徒の前に、喜んで其の異なる講演を、受入れた人でした。
 氏は薄ペラな、印象主義の人でもなく、クラシツク主義でもなく、其の他のエキスプレツレヨン、シンボリーズムでもなく、眞に自然を見やうと要求してやまなかつた人でありました、故荻原碌山の批評も、又他の側の人の意見も、叉私の未熟の批評をも、喜んで生徒の前へ述べさしめたのです、私は此の點に於て、藝術復興の戰士なると共に、留守中の出來事を聞いて、確實な藝界の人となりつゝあつた事を證明し度いのです。
 若し同氏にクラシツク臭味の幾分でもあると云ふなれば、右の理由が然らしめたので、今一二年の齢を氏に藉さんか、必ずや今日迄に残したる、傑作の上に、尚ほ一層大なる作品を残された事と私は信じます、職に功成り、戰衣を脱ぎて、今や再び起たんとするの時、逝かれたのは、呉々も遺憾と思ふのであります。
 つゝしみ深き氏は、將來の事は、一口も口外された事はありませんでした、然し有して居られた事は、右の事實が證明して居ります、私は何日か、製作の他に之を聲に現はしてきかまほしと待つて居たのでした、然るに最後にお目にかゝつた時は、偉大なる藝術家の刻みたる彫刻の如く靜に横り、其口は、堅く堅く結ばれ、最早や永久に開かれなかつたのでした、夫は氏の此の世を去られた翌日、甞つて私が初めてお目にかゝつた其同じ室に於てゞした。

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