故人大下畫伯に就て
文學士 樋口龍峡
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日
抑★予が大下畫伯とはじめて相知つたのは、往年谷中の美術院で、研究所建設の費用を集めん爲め同志の人々と共にその作品を分たれたときであつた。
爾來さまで深い御交際をした譯ではなかつたが、藝術に就ては主張もストルッも持つて居りながら、社交的には謙遜な親切なその人柄に對して、常に敬服して居たのである。
数月前上野の展覽會場で、抱月君等とゝもに大下君の風景論を聞いて後に、新日本の七月號でそのお説をそれとなく引いて、予の日本風景観を發表したことがあつた。文中に氏の名を擧げなんだのは、もしや誤解でもあって、氏の令名に累を及ぼしてはならぬとの微意であつた。
然るに藝術的良心の強い大下君は、翌月の「みづゑ」誌上で予の批評が自分の説に向けられたことを公表して、氏の意見は瀬戸内海の局部に對する説であつたことを告げると共に、門外漢たる予の意見を大體に承認された。のみならず其後會見したときにも、淳々として自家の見を述べて予の批評をさへ求められたその際遠からず更にゆつくり會見して、藝術上の見を交換しやうとの約束をしたのであつた。
底事ぞ奇才帝の惜むところとなつて突如招かれて白玉樓上に還られてしまつた。もはやとこしえに相見るの機もなく、相語るの約も果されない。まことに遺憾の極である。のみならず、氏の逝去の常時、予は大隈伯爵に陪從して東北に遊んで居たので、葬列に連なるの禮をすら悉し得なかつた。重ね重ねの行違は氏に謝するの途もなく、唯往時を想望して追懷の涙にくるゝのみである。
人生棺を蔽ふて是非始めて定まるとか。定めて故人の藝術や人格に就ては、更に親しき人々や藝術の人に依て評せられることゝ思ふ。門外漢たる予の見を忌憚なく述ぶれば、大下君の作品には、予は剛健の筆意や底しれぬ深さや、神韻の生動を認むるものではない。が併しその温雅なる性格はおのづから作品の上に現はれて居て、一種人をなつかしめる様な氣分が常に現はれて居たと信じて居る、鋭い觀察や深さはなくとも平和なおつとりとした所に、その長所があつたのではなからうか。色彩の研究に就ての抱負は嘗てうかゞつたともある。此點の成否はしらず苦心のあつたことは予も認めるのである。けれども今は故人のことであるから、姑らく琴臺の故事を學んで深くは論ぜずに置から。
因に云ふ。氏が畫家以外に一種の紀行文家として低からぬ地位を占めて居られた一事も、予の敬服した一つである。
門外漢たる予にしては思はず絮説に過ぎたかも知れぬ。しかしこれ氏の葬列に臨み得なかつた予が、一片追慕の至情から出た永別の辭である、誄辭である。