コスモス咲く頃
織田一磨
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日
夏の強い、色彩から漸く遠ざかつて、やゝ凉しい、頃になると、自然は、何となく寂蓼の感じが、加はつて、春の季節とは全く、反對の現象になる、春は、冬の長い間の沈默の後をうけて、華やかになるが、秋は夏の強い色彩が、段々と褪せて、冬の暗い沈默に、再び歸る仕度であるから、自然も從つて何とはなく、物悲しい感じに滿ちて來る、春の季節が、若い女のような、華やかな淋しさなら、秋は老人の悲しさと云ッたような調子であらう 東京の町端れに、背の高いコスモスの花が、ピンク色や、白に咲き出すのも、此頃である、朱い燃える樣な、ダリアの花に、どことなく寂しさが感じられるのも、此頃である。
そうして、ちようどコスモスの、咲き出す頃は、灰色の肌寒い日が、毎日々々續いて、人々の腦裏に、一種の哀愁を起さすのも、此頃である、元來自分は、靜な自然が好きで、秋の曇り日は、其内でも殊に好きである、甲高い百舌鳥の聲の、透る空も、赤蜻蛉の翅に、白く露の玉が置かれて、朝の光線が、キラキラと露のむねに光るのも面白い、黄色い花の咲く雜草の姿や、総べて秋の印象は一ッとして、自分の氣分にさからうものがない、全く佳く、調和されて居ると思ふ、四季の内で、春も靜かであるし、冬も動いては居ないが、春や冬の、自然には秋のように、淡い悲しみがないと思ふ、 いや全く無いのではなく、惑じ方が異ふのであらう、例へば、春のは矛盾の悲し味とすれば、冬のは、壓迫の悲しさとでもいふのであらう、ところが、秋の悲しさは、そう云ふのと異ッて、只何とはなしに、物悲しいのである、西行法師の歌の通り、「心なき身にも哀れは知られけり、鴫立澤の秋の夕暮」とでもいッたような、悲し味である、自分一人の、感情からみれば、コスモスの花にも、此の歌の感じは充分にあると思ふ。
尤も自分には、このコスモスの咲く頃になると、思出が澤山ある、或はそんな、思出が原因となッて、秋と云ふ季節が、悲しくなツたのかも知れない、自分が小供の時、母の死んだのもやはり、この季節で、其時に自分の家の園には、一面にコスモスが咲き亂れて居た、母は長の病氣に、細く痩たせ躰を起しては、コスモスの花を觀た、母は其繊弱な、花を愛して居て、毎年咲きのを樂みにして居たようであッた、自分は未だ小供で、其時代は何にも氣に掛けないで過ぎたが、母が死んでから、コスモスを觀る度に、淋しい心持になるので、覺えている、これが、自分のコスモスに對して思出の始めであらう。
其後、自分は繪筆を持ッて、一生を藝術に送る可く、東都に出て半生の、奮鬪的生活に入ッたのも、コスモスの頃であッた、大阪を出た自分は、先づ赤阪の或る下宿に、起伏をして居た、その折り隣りの庭に、コスモスが咲いて居て、雨の日や夕暮れの空に、淡い花の影を眺めて、一種の哀愁を覺えた。こんな印象が、毎年コスモスの咲き出す頃になると、新しく自分の腦裏を往來する、秋と云ふ季節には、何物よりもこの花の聯想が、一番強くなッた。
今年は叉、コスモスの思出が新しく加はッた、其れは、大下氏の突然の死である、毎年、氏の死に就て悲しい思出が、自分の胸に浮みだすのも、必ずコスモスの頃であらう、殊に、同じ藝術に遊ぶ人の死は、他の何人の死よりも、強く又深く、自分の胸に感動を與へて居る。
死と云ふ自然の運命が、何故に悲しいのであらうか、其れは残された悲し味と、有物を、無くした悲しさと同時に來る悲しさである、併し、死んで行く人の心は、むしろ苦しい現實に、生るよりも死の幸福に、就く方がいゝかも知れない。瞬間の歡樂に憧れて強い刺激を求めつゝ生きて居る我等が、心の裡の淋しさを想ふたなら、自然の死は、むしろ樂かも知れない、大下氏の死を聽くと同時に、こんな感想が自分の胸の奥に浮みだした。
あゝ自分が死の命を、自然から受けるのは、此後何年の後であるだらう、其れ迄には、何度コスモスが咲いて、冬が來るだらう、毎年々々、自分のコスモスに對する思出は、多くなればと云つて、減じることはないだらう。
ことしも自分の庭には、ピンク色や、白のコスモスが、咲き亂れて、小形の蝶が、遊むで居る、灰色の日が毎日々々續いて、汽車や電車の、來ては過ぎ、過ぎ去つては、又來るのと、自分の心の淋しさと、妙な對照を示して居る、自然は今、紅や黄色の、華かな色彩に、瞬間の歡樂をゆめみて、再び沈默の、暗い冬の季節に入るのであらゆ (十月二十二日大阪に於て稿)