『みづゑ』が非常の景気

鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ

鵜澤四丁
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日

 顧みると、大下氏と知己になつたのはもう十一二年も前でした。氏が十二月の末に畫嚢や三脚を携へて、青梅に僕を訪ねてくれた、氏は自分の名刺を出して、自分は田山花袋君の友人で、こういふものです、何分よろしく。新年へかけて、この邊の寫生をするつもりだといふ事でした。氏は此頃から、新年を自宅に暮さぬ習であつたらしい。宿は坂上旅館へとるといふので、其夜直に訪問すると新年の繪ハガキを描いて、それに宛名を書いて居られた。種々な文學美術の話の末に、僕が曾てヴアンダイクのHow to judge the picturceを譯したことを語る、氏は非常に興味を以て聞いてくれた。丁度明治二十六年の暮に鎌倉からこの飜譯を携へて歸京して、大橋乙羽君に出版の件を計ると。その譯書が單行本として發行し得る程に、世間が西洋畫に重きを置いて居なかつたので、どうも仕方がないとその儘に乙羽君に托して置いた。すると二三年許たつてから博文館發行の通俗百科全書の「畫法自在」といふ日本畫の本の鼇頭用に「西畫鑑賞法」と題して使用したからと乙羽君からの通知であつた。無論西洋畫の門外漢たりし僕の飜譯、であるから、今から見ると随分と誤譯が多くて、よくもあんな飜譯をしたものだと、恥入る次第だ。しかし西洋畫に關する書籍は、殆ど無いといつてもよい當時であるから、多少の利益を人に與へたであらうと思ふが、何分にも、日本畫法の鼇頭の埋草では、人が知らぬと語つた。實際大下氏も、之れを知らなかつた。歸京したならば、早速求めて拜見することにしやうとの事でした。
 これ迄洋畫界に大下氏のあることは知らなかつた。全く世間でも、僕のやうな人が多かつたらうと思ふ。この頃三宅氏の名は知られて居つたやうに思ふが。何んぞ知らん、當時の水彩畫の專門家は三宅大下の二氏であるので、爾來氏と僕とは、宛ら十年の知己の樣になつた。この時に大下氏は「水彩畫の栞」を執筆の腹案中だと語られた。「西畫鑑賞法」は是非拜見の上、水彩畫の栞の末に参考すべき書目中に加へたいと云ふてくれた。それで氏の著書が出てから博文館では「畫法自在」が數十版を重ねたとの事を聞いた。大下氏の著書も初めは書肆で大分冷遇されたやに聞いて居たがそれが出るとあんなに版を重ねたのは、水彩畫普及に付ては非常な力であつたことを證するのである大下氏は翌年の春過ぎに青梅へ移つて、千ヶ瀬の宗建寺に居を卜された。殆んど毎日のやうに話しに行く、とうとう僕も畫を初めることになつた。氏に種々指導を受けた。大下氏も青梅には一年は優に描く處があるといふて居られた。その頃石川寅治氏や吉田博氏仝ふじを氏等が、氏の處へ泊つて居て、處々を寫生された事があつた。この時大下氏はパーソン氏の著ノーツ・イン・ジヤパンを持つて居られたので、それを借りて讀むと非常に面白いので、その一二節を飜譯して、讀賣の月曜附録へ投じたことがあつた。この頃の大下氏はパーソン氏に大いに私淑して居られたかに思はれた。それで畫風が餘程似て居たやうに思はれた。今日では一箇の大下式畫風となつて誰に似たといふ事は無論ない。温健な畫風は即大下氏の人格のほのめきと見てよいと思はれる。
 大下氏は青梅に移つて靜に寫生に耽るつもりで居つたのが、心機一轉して、歐米行を思立つた爲めに、寫生を止めて、種々の參考書によつて外人向きの畫を約三百枚位を描いて、それを持つて渡米された。この時に石川寅治氏と仝行せられた事は、諸君が御承知の事である。殆んど一年有餘で歐米を巡つて歸朝された。それから間もなく、青梅に移って暫く靜養したいといふて來たので、幸に僕の隣家が明いて居たのでそれを知らしてやると、是非それへ移りたいといふ、間もなく引越して來られた。丁度七月の初と覺えて居る。僕も暇があれば、必ず畫箱を肩にして大下氏と寫生に出掛けた。千ヶ瀬、大柳、古渡川原、根ヶ部、羽村、小作、拜島等へ出掛けた。遠い處へは握飯を持って出掛けるのが常であつた。氏は爲生がなかなか早い、そして一氣呵成の作に捨て難いものが澤山にあつた。寫生の道すがらには必ず近き將來に水繪の雜誌を出したい。活字はこう繪はこう等と自分の思ふ通りのものをやつて見たい。これが僕の理想の一ツだと話して居られた。體栽もかう包み紙もこうとまで相談を受けた。それは至極面白い是非おやりなさい、僕も及ばずながら盡力しましやう、材料も今からぽつぽつ集めて、飜譯するものはして置かうと話しては希望に熱して二人で家路に著くのが例であつた。それから大下氏の洋行中に僕等は丁度巖谷小波氏が歸朝せられて獨逸仕込みの水彩畫をやるので、四季に一變位ヅヽ寫生會をやらうといふので初めた會があつた。大下氏歸朝後青梅に移つてから、どうですとすゝめると喜んで出てくれた。その時は巖谷小波、全夾日氏、太田南岳、和田英作、三宅克巳氏、筒井年峯氏等が見えた時と覺えて居る。その時に、こう田舎に引込んで居てもこんな會があれば折々知己にも會へるし、東京に居ると殆んど仝じやうな感じがすると喜んで居られた。それから寫生會は續いて四五會もやつたと覺える。遠くは松戸、久保澤等へも出掛けた。尤もこれは大下氏歸朝後であつた。それから青梅の連中とは御嶽やら原市場等へも寫生旅行をしたことがあつた。いよいよ機が熟して大下氏は歸京する。「みづゑの」發行やら研究所の創設やらが、氏の畫家として技量のすぐれて居つたことは無論であるが、氏獨特の事務家風な處が總てに於て成功せしめたのである事を斷言するにはばからない。初めて「みづゑ」を出さうとしたとき神田の東西社から出すつもりであつたが、それが止めになつて氏直營となつた。
 詳しい事も氏から聞いたがこゝにはいふ必要もあるまい。それで初めて一號を出すと非常な景氣であるので、詳細を報じて來てかういふ譯であるから、喜んでくれと非常に得意であつた。氏は青梅に居た頃から水繪趣味の普及に熱心であつた。雜誌の發行もそれが爲め、研究所の創設もそれが爲めであつたことは諸君の知らるゝ通りである。で氏の事業の偉大なりし事は今更に僕の喋々を待たないであらう。惜しむらくはもう十年の年處を氏に保たしめたかつたが、命數で致方がない。しかし氏もこれ丈の事業に力を盡して其功が顯著であつたことを自覺せられて逝かれたのであるから、氏も安んじて瞑せられた事と思ふ。

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