大下先生と私

正親町公和
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日

 今からでは、もう十年近くも前の事です。
 私の姉は、時々目白の僧園へ行ってゐましたが、其頃姉はよくお寺で、お目に懸る先生の奥さんの事を話しました。私は其前から、非常に繪が好きで、盛に自己流の水彩畫を遣つてゐたものですから、是非先生にお目に懸り度いとの希望を起して、奥さんから傳へて頂き度いと姉に頼みますと、何時でもいゝから遊びに來いと云つて下さいました。これが糸口で私は先生と、お心易くして頂くようになつたのです。
 始めて駒井町のお宅へ伺つた時、見て頂いた繪が、今でも二三枚残してありますが、先生はその可笑しな繪を、一枚々々丁寧に御覽になつて、色々の事を精しく説明して下さいました、其御容子が、ちつとも初對面らしくもなければ、先生振りもなさらず、まるで以前からのお心易い同輩に御自分の経驗から得られたことを話して聞かせて居られるといふ風でした。
  ○其後間もなく、叉青梅へお住ひになつてからも、度々お招き下さいましたが、遂伺へずに過ぎて三十七年の夏になりました。私は寫生の目的で甲州の河口湖畔に行った歸り、同行の友達が箱根へ出るのに別れて、獨り先生をお訪ねしたことがあります。
 其時の印象は今だにはつきり殘つてゐます。私が坂上旅館に着いたのは日の暮方でしたけれど、早く先生にお目に懸り度くてたまらず、宿の者にお宅を尋ねて、出かけますと、街道を少し横に入つた暗い通りの、確か警察署の傍だつたと覺えます、お住居の前に行つて、若しや先生のお聲でも、しやしまいかと暫く佇んでゐましたが、しんとして何の物音も聞えません。突然夜分に伺ふのは惡いと、フト思ひ返して、私は其翌朝出直して上りました。
  先生は「さうでしたか、お宿が分つてゐれば昨晩でも伺うのでしたが」と云はれてお訪ねしたのを喜んで下さいました。お部屋へ入つて直ぐ眼に附いたのはワツトマン半切大位のもので、何處かの觀音堂の書き掛けがイーゼルに立てゝあるのでした。今は忘れましたが白いマットの可なり大きい額だの、小さな額だのが、三四面を懸かつてゐたと思ひます。私は河口湖の寫生を取り出して、きまり惡く、先生の前に置きましたが、矢張り其拙い繪を、それを丁寧に、よく云ふ穴のあく程御覽になつて、一々深切な批評をされました、先生に繪を見て頂いた方は、誰方も皆御承知でせう。何時でも斯う片方の眼を窮屈さうに、細くなさつて、少時お見詰めになり、それから、せまらない調子で、諄々と説明して下さいます。私は大下先生といふと、直ぐ彼の御容子が眼の前にちらついて、何とはなしにおなつかくしくなりました。
  私の繪を悉皆見て下さると、素人寫眞ですと云つて先生のお撮りになつた風景の寫眞を見せて下さつたり、名物の青梅煎餅をすゝめられたりしましたが、やがて先生は裏山へ案内しようと云はれ、望遠鏡を提げて先に立たれました。
  お住居の裏の鐵道線路を越すと直ぐもう山に差しかゝります。その靜かな細い山道を、一歩々々と登り乍らも、彼の温い情のこもつたお聲で色々のお話をして下さいました。
  山路を辿る先達といふものは、唯さへ何となく便りに思はれるものですのに、まして敬慕せる先生に、始終自分の渇えてゐる話を伺ひ乍ら、高きへ高きへと導かれるのですから、その嬉しさ、といふより寧ろ有り難きを、押えても遂胸の躍るのを覺えずには居られませんでした。
  山の頂きへ着きますと、直ぐ眼の下に青梅の町を見下して、それから先は多摩川が、西の方から南へかけて東の方まで遙か遙か帶かのように挾まつて摸糊の間に消えて行きます。山の上は、奇麗な芝生になつて彼方此方に赤松が、更に面白い風情を添えてゐました。
  先生は?々此の山の上から、松越しに多摩川を望んだ風景畫を描かれたように覺えてゐますが、其他にも、青梅附近の風景畫は、何れ程澤山ありましたらうか、實に先生と青梅とは、丁度センガチニーとアルプス山とのように、オルプスウエーデと彼の一團の畫家とのように、決して離し得ない程、密接な間柄となつてゐたと思ふ位。近年山岳に一層深い興味を持たれて、日本アルプスの各山に畫材を求められるようになる迄は、誠に青梅こそ、先生が畫材の寳庫であつたかのような、感があるではありませんか。
  山から帰つて、御飯を頂きますと、先生は小さな帳面を出して何か書けと云はれました。前を繰つて見ると先生を訪ねて來た人々が、皆色々のものを書いてゐます、強いてお斷りするのもと思つて、私はまだありありと眼に殘つてゐた、河口湖の一部を書きました。それから先生は、午後から、近所ヘスケッチに行かうと云はれましたが、私は其日に歸ると定めてあつたので、非常に殘念に思ひ乍らお暇しました。
  ○ 青梅へお訪ねしたのは、其時だけでした。「みづゑ」が段々隆盛になるに從つて、先生は再び東京の人となられましたが、私は常に御無沙汰勝で、自分の繪が出來た時ばかり、思ひ出したように、突然お尋ねしては叉半歳も一年も御便り哺つせずに過して了ひました。こんな自分勝手な、我儘な御交際が有るものでせうか、私は何時も、濟まない濟まないと思ひ乍ら、遂ひずべらになり易くて、自分でさえあきれてゐるとが、よくありました。然しそんな風にしてゐても、お宅へ上りますと、矢張先生は、少しの隔てもなく、始終出入して居る者かのように、温顏をもつて迎えて下さいました。
  先生が人に接せられる態度は、誠に紳士の風格を備へて居られたと思ひます。あの人を引き附ける力を持つた先生の態度は、やがて先生の高い人格のほのめきであつて、あの人の心底まで沁み込むような先生の落ち附いたお話し振りは、即ち先生の内に漲つてゐる誠實のほとばしりであつたと思ひます。
  獨力を以て十餘年間續けられた「みづゑ」の經營と云ひ、研究所の設立と云ひ、各地方に開かれた講習會と云ひ、先生の企てられた事業が、總て彼のように成功したといふのは、取りも直さず先生の高い人格と、熱誠を以て、事に當たられた證明に、外ならぬと信じます。
  ○ 其後私は自分達の雜誌の方が忙しくなり、自然繪筆を持つ事が稀になつた爲め、事實に於ては猶更先生から遠ざかつて了ひました。けれ共私は到底長く先生を忘れてゐる事は出來ず、一度伺はなけれはならないと始終思ひ乍らも一方では叉先生の寛大なお心に甘へて心の中でお詫をして濟まして居ました。此の春の太平洋畫會でお目に懸つたのは三年目位だつたでせうか、私はお招きに預つて行きはしたものゝ餘りあつかましいようで、お目にかゝるのが反つて恥かしい位ゐでした。夫れにも不係、先生は何處までも私の頭に深く刻み込まれた通りの温情を以て、お忙しいところを、暫くお話し下さいました。其時先生がもう私達の時代は過ぎた、これからは若い人に讓らなければならないと云はれたお詞は、何うも腑に落ちないと思つてゐましたが、今になつて見れば、それは其頃、已に先生に近寄つてゐた何物かの、冷やかな暗い影の聲では、なかつたでせうか。
  ○噫、先生は餘りに早く世を去られました。まだまだ先生のお心の中は、彼れも此れもと思つて長い將來を望んで居られたに相違ないと信じます。「若い人々に讓らなけれはならぬ」と云はれたお詞は、決して先生が自ら老いたと思はれたからではありますまい。私は信じます、先生は假に百歳の壽を重ねられたにしても其のお心は常に或る若々しさを保たれたでせうと。
  何故ならば私の眼に映じた先生は、確かに「自然に敎えられた人」であつたからです。自然の精神を精神と成し得た人であつたからです。
  先生の彼の人格は、總て偉大なる自然の默啓を解得せられた、平素の結晶であつて、誠に、自然を極愛せられたことによる賜物ではなかつたかと思ふからです。
  先生が畫家として以外、一に敎化の人であつた事は、今更云ふに及ばないことですが、彼の暗々裡に、導いて強いぎる敎化振りは能く其間の消息を語つてゐたではありませんか。
  ○ 今靜かに私一個人としての、先生との御交誼を顧みますと、實に十年に近い長日月に渉り乍ら、直接お目にかゝつた事は僅か十指にも殘る位のものであつたにも不係、斯くも敬慕の念に絶えないのは、全く先生の高い人格と慈母の如き温情を具備して居られたからと思ひます。
 運命の力を如何ともすることの出來ない吾々は、徒らに其冷酷を恨むの愚に習うよりも、今は先生が殘された多くの功績を讃え、先生の靈に眞心からの感謝の辭を捧げ度いと思ひます。
  自然を愛するものは又自然からも愛されるといふではありませんか、自然に歸られた先生の靈は今や其の無窮の愛に懐かれて、長への安らかな眠りに就いて居られるとでせう。
  明治四十四年十月二十一日 秋雨ふりしきる夜病床にて。

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