人格と事業

文學士 黒田鵬心
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日

▲鳴呼大下氏は亡くなられたのか。今年の八月半ばであつた、氏は松江から一葉の繪葉書を送られた、それには出雲大社の寫眞が刷つてあつて、表には「この程大社參拜いたし候、建築と申よりも、神の所在地につき、少しく管見有之、拜眉の節は高見伺度存居候」とあつた。叉五六日經つて敦賀から葉書がきた。それには常宮神社拜殿の寫眞がついて、「敦賀に、は古い建物もありませぬが一寸面白いものも見受けます。風景はよい處です」とあつた。それから別に歸京の通知はなかつたが、九月になつて、是非御訪問したいと思ひながら、何かと延引してゐる内に、突然訃音を聞いてしまつた。こんなことなら、早く上ればよかつたと思つても、もう追付かない。
▲自分は故人と左程親しい交際した者では無い。無論水彩畫家としての氏の名は、早くから聞いてゐたし其の作品も展覽會で見て居たが、直接の關係を生じたのは、一昨年の夏、突然自分宛に「最新水彩畫法」を贈られて、其の時分自分が編輯してゐた「帝國文學」で批評をして呉れと云はれ、間もなく關口駒井町の御宅へ訪問してからである。其後は外では?々逢つたが、訪問はしなかつた。繪葉書などは時々交換した。又最近には「水彩寫生旅行」の批評を讀賣紙上で試みた。故人と自分との交際は、先づ其の位のものである。
▲自分が始めて氏を訪問して、色々話した時、先づ感じたのは、氏の人格が如何にも穏な、玉の樣な事であつた。有體に云へば自分は氏の水彩畫の藝術的價値は左程高いものとは思はない。併し氏の人格と、氏の事業とには、確に感服し、賞讃する値があると信ずる、事業と云ふのは、即ち氏が後進を導き、併せて繪畫趣味を普及された事でする。
▲自分はつひ、近頃和歌山縣下の未知の人から、一通の手紙を受取つた、それは自分が新聞にかいたつまらぬものに就いての事だつたが、其の新聞には、大下氏の訃報が載つてゐたと云つて、氏の地方に於ける功績を書いてあつた。こんな事は、一和歌山縣に限つた事では無い、實に此の點に於ける、氏の功績は沒すべからざるものである。
  ▲去年の七月であつた、「みづゑ」の五周年紀念號が出た。その内にあつた大下氏の「みづゑ五周年所感」と云ふ一文は、當時非常に面白く讀んだ。そしてその事は既に去年八月の「帝國交學」で「畫話」と題する雜感の内に書いて置いた。そして又當時の自分の所感は今も變らない。
▲其の時の自分の所感の最後に「要するに氏はよく自身を解して居られる。益々其の好きな道に邁進して戴きたい」と書いて置いた。好きな道とは氏が自ら「私は私の敎育事業を以て甞て一度も義務と思つて爲た事はない、私の趣味、私の道樂即ち好きであればこそやるのである」と書かれたのを云つたのである。爾來僅に一年徐、今や日本は繪畫敎育、趣味敎育を道樂としてやる一人を失つたのである。此の點に於いて、氏の逝かれたのは、誠に大なる損失と云はねばならぬ。
▲終に臨んで、自分は大下氏の訃を悲しむと共に、誰れか此の後を受けて、此の事業を嗣ぐものの出る事を切望して置く。(十月二十四日)

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