その畫に對して

礒萍水
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日

その畫に對して
  礒萍水
  b:十月十日、私は暮近く家へ歸つて來た手紙が三本來て居た、その一本は田中太郎吉君からの葉書で、秋晴と謂ふ名で葉書一面へ、筆かづの少ない、奈良ばりの人形を見るやうな、如何にも活々した畫がかいてあつた、表の下へは、此頃の秋晴の心地よさ新しい命を授けられたやうな横溢の元氣をおぼえる、明目は相模野を歩きます、王禪寺?の甘さに今から舌鼓を鳴らして居ます、來月の十一二の兩日に展覽會を開きたいと思つて居ります。
  太郎吉君は氣分生活の人だ、義理の手紙の書ける人でない、去年のもう近し寒くなつた時、夜おそく雨の降るのに初めて來た、それから逢はない、生きて居るのかと思つて居ると、つい一月ばかり前に不意に夜やつて來た、風の吹きまはしで來たのだ、思ひ出しては不意々々と來る、まあ思ひ出されるだけでも私の光榮だ、相對して番茶をのんだ、甲州の葡萄と山形ののし梅とをちやんぽんに喰べながら話した、旅の話、畫の話、お互ひに好きな熱を吐きながら、とどの結局私は例によつて私の頭の上の畫の自慢をした、大下さんの繪でこの位大膽に出來て居るのは稀らしい、まるで別人のやうだ、もし大下さんが乃公の傑作はどれだらうと謂つたらば、私しはそれは僕のもつて居る榛名湖だと敎へる、君實際よく出來て居ますよと電燈をさし向けた。
  太郎吉ときくと芋でも作りさうで、體を見ると野球でもやりさうだが、太郎吉君は畫家である、大下藤次郎氏はその師である、であつて見れば腹では何と思つて居ても、否下手ですとは謂へない、さうですね、面白い試みですと返事をした、自分の先生の畫だから惡く謂はれたよりか氣分がよかつたらう、私も自分の物をほめさしたので得意であり且つ滿足に感じた、
  大下さんに逢たのは小島君の家でゝある、冬の夜であつた、私と烏水君と紫紅君と、大下君に丸山晩霞君であつた、丸山君の縦横の天才肌の活辯に聽き惚れながら、私は大下君の如何にも靜かな態度に見惚れて居た、やがて歸るを送りながら停車場まで歩いた、二階で麥酒を飲んで別れた、
  その後私は水彩畫研究所の費用にあてる爲の畫會へ入れられた、會費の拂込を忘れては催促された、その手紙は何時も大下君の手であつた、私はまごついて拂込んだ、これを三四度繰返して、居る中私の責任は果された、私の畫は大下君がかいてくれる筈になつて居た、
  毎歳年始の葉書は來た、伊豆と興津と沼津とから、こゝに一片柱にかけてあるのはどうした時の音信であらう、水戸の仙波沼がかいてある、暴風の見舞や水見舞の返事なぞに、是非一度遊びに來いとどの手紙にもかいてあつたが、行かうかと思ひながら、つひ一度も行く氣になれなかつた、その僻私の畫はどうしたらうと思ひながら、つひ催促もし得なかつたその中、畫が出來たが送らうか、と謂つて來た、私はそれには及ばない、私がいづれ戴きに參ると謂ひ送つた、と謂ふのは私の親達は、本一册人形一個でも邪魔物あつかひにして兎角御機嫌が斜になるそれを恐れてゞあつた、
  去年の十一月に老松小學校で水彩畫の展覽會が開かれた、私は見に行つた、買ひたいのがいろいろあつたが、親達の稻光を慮かつて睡を飮込みながら歸つて來たが見るだけならば、別に親達に荷厄介にもされまいとまた見に行つた、父や母に謂はせたら魔がさしたとでも謂ふだらう、私は途ひふらふらと一枚約定してしまつた、その畫の價の爲めに準備してあつた旅行は中止になつた、私の家は恰然轉居をするのでその混雜紛れに畫を擔ぎ込んで了まつた、私の部屋は二階だから老人は上つて來ない、私が此の間の苦心たるや、この畫を作り上る迄のかく人の苦心に勝るとも劣りはしない、
  その畫が今私の頭の上の壁に掛てあるそれである、榛名湖だと謂ふが、まあどこでもよい、上手に若葉の青々した樹が三四本あるぎりで、直ぐ湖になつて、また直ぐ山になつて居る、山の色と湖の色とは結びつけられたやうな同じ色に塗られながら、そこに草と水の色はどことなしに區別されて見られる、湖心に白く日が洩れて光つて居る、印象が深い、その印象もローマンスだ、心の沈まる畫でありながら、どこやらに機を覗つて跳舞しやうと謂ふ氣がひそんで居る、若い武者の睡りである、大下君が寂かな水の好きなのも、それを畫にするとが得意なのも知っては居るが、大下君の好きな水の寂かさはこれではない。大下君は渓流をかく人でない、湖だ、沼だ、動かぬ水だ、その人が靜かに寂しいやうに、作も靜かな寢しいものだ、であるのに此水には底がある、力がある、榛名湖ときけば、野武士に辱しめられたを憤ほつてこの水に赴いた土豪某の奥方が、龍となつてその主となり、その侍女は蟹となつてこの山神の御洗水を守ると傳へられる、何さま主も棲むべき水の氣配、
  私は大切にした、日曜にはその硝子を拭いた、夜おそく灯火をかゝげて、水の面を覗つた事も幾度だつたか、貧しい部屋の中にたゞ一の飾りであつた、 友達は誰でも訊く、誰がかいたのだ、大下さんだ、友達は誰でもきつと吃驚した殆んど信じられない様な筆つかひなのであるから、そして漸つとその署名を讀んで私の言葉を眞とした、私は女形の優人が、さまでの覺悟でなく演つた實惡の男役に、思の外の成功を納め得たのを、他から見るやうな氣分がした。
  此春に横濱の若い人達が、大下さんを師として書を學んで居る會合の新年會で大下さんに逢った、何年ぶりなのであつたらう、七八年にもならうか、寫生旅行から小豆島の話がでて、露のないので葉にも土にも濡ひがないなどと話されるのをきいた。
  十月十一日の新紙は大下藤次郎氏の死を報じた、私は實として讀みながら信じられなかつた、その夕邊に知らせが來た、私はまだ何んだか誤りであるやうに思はれてならなかつた、然し私は御悼みの手紙をかいた。
  十一日、今日太郎吉君は相模野へ禪師丸を喰べに行つたらうか、それとも先生の野邊送りに行つたらうか、 また太郎吉君は不意に來るだらう、その時、どうした誤聞なのでせう、先生はぴんぴんして居ますと聽かされたらばどうしやう、 私は今外にそぼ降る秋雨の昔をききながら、御悼の文の筆をさし置いて灯をかかげて榛名湖の畫を凝視した、

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